実家の母サチコが、このところおとなしい。
「このまま頭がダメになるのを待つより、少しでも遅らせる努力をする」
今までとは正反対の前向きな発言が増え、電話も無い。
この半年間、続けてきたデイサービスの送り出しも
「一人で大丈夫」
と言うので、週に3回から1回に減少。
日帰りの月曜と水曜は荷物が少ないので行かず
ショウタキに泊まる金曜日だけ行くことにした。
お泊まりの日は着替えや洗面用具などの荷物が増えるので
サチコ一人では準備できないからだ。
ともあれ、サチコのめざましい変化には四つの原因がある。
一つ目は、入院中に複数の保険の満期が来て
彼女の普通預金に大金が振り込まれたこと。
残高を見た途端にシャキッとして
「一人で生活できるから、もう来なくていいよ」
とまで私に言った。
それが本当なら、どんなに嬉しいだろう。
が、ぬか喜びしても、困ったらまたジャンジャン電話をしてきて
強制的に復帰させられるのはわかっている。
残高を知る私から、お金を守りたい一心なのだ。
ここが一般の親子と違う部分なのはさておき
お金というのは元気の素だと、つくづく思った次第である。
二つ目は、実子のマーヤに対する期待がひとまず消えて
諦めがついたこと。
期待とは、仕事を辞めて旦那や3人の子供たちと別居し
実家へ帰って自分と暮らしてくれるという願望だ。
子供の家庭を壊してまで自分のそばに置きたい野望を
世間では身勝手と呼ぶが、それが認知症である。
この現象は、前に記事にした隣のおばさんと同じ。
近くに居る者をアゴで使って困らせ
一緒に暮らしたい子供にクレームを伝えてもらう…
衰えた脳でそんな馬鹿げた作戦を練り
しかも成功すると思っているのが認知症なのだ。
「もう面倒見切れん!知らん!」
子供にそう言ってくれれば、優しい我が子は慌てて帰って来るはず。
悪いのはキレた私で、本人と我が子は被害者ということになり
親子の仲がギクシャクすることもなく、同居に持ち込めるという計算だ。
私もたいがい卑怯な人間だが、長く生きた老婆の卑怯は
そのはるか上を行くものなのである。
それがどうよ。
実子のマーヤに無視されたまま月日は経ち
退院したその足で老人ホームの見学に連れて行かれた。
サチコとしては、大きな誤算だ。
「何で私があんな所へ入らんといけんの?」
帰り道、彼女は憤慨して私に問うた。
「あんたが入りたい言うたんじゃん」
「そりゃ言うたかもしれんけど、あんな所とは思わんかった」
「どこも同じよ」
「私を厄介払いしよう思うたんじゃね」
「老人ホームはマーヤの希望じゃ。
その方が安心なんじゃと」
…そうさ、マーヤは以前から
サチコの老人ホーム入りを強く望んでいる。
今回の見学もたいそう喜び、ぜひにと大乗り気だった。
以後は連絡を取ってないが
サチコの反応を伝えたら、さぞや落胆することだろう。
「嘘!」
「マーヤに電話して聞いてみんさい」
が、今もって電話はかけてない。
本当のことを知るのが怖いらしい。
三つ目は、その老人ホーム。
見学は、紹介してくれる人があってたまたま行ったが
サチコはそこで、今通っているショウタキとの違いを思い知らされたのだ。
デイサービスが主体のショウタキは、例えるならカフェ。
数時間の滞在をリピートしてもらわないと商売にならないので
職員は礼儀正しくて愛想が良く、施設は自由で明るい雰囲気だ。
一方、老人ホームは寮。
ひとたび入ったら「また来てね」が無いので
年齢層高めの職員たちは
ショウタキほどチヤホヤしてくれそうにない。
節約のために消された電灯や、寝たきり老人のうめき声もさることながら
自力で洗濯する入居者が干したモモヒキやデカパンのぶら下がる廊下…
新聞雑誌が無造作に積み上げられ
たたみかけの洗濯物が散らばって雑然とした共有スペース…
生活臭あふれるたたずまいに、几帳面なサチコはビビっていた。
彼女が抱いていた老人ホームへの憧れは
これら物理的な事柄によって、かき消えたのである。
現実を見たサチコは、嫌っていたショウタキが好きになった。
「施設が綺麗で、スタッフが温かい」
急にそう言い出し、今や一日おきのデイサービスを心待ちにする変わりよう。
そして四つ目は、入院していた精神病院から処方された鬱病の薬が
バッチリ効いていること。
精神の薬は病状に合わせるのが難しいそうで
強すぎるとボンヤリしたり、弱すぎると改善しなかったりするらしいが
今のところ、よく合っているようだ。
これら四つの原因により、とても静かになったサチコ。
サチコが静か=私が楽。
老人ホームの入居は断ったので残念だが
見学に連れて行くという行動を起こしたことで
先はわからないけど、しばらくは楽ができる。
何事も行動してみるもんだ…
いつも口だけで行動力の無い私は思っている。