NHK朝の連続ドラマ『カーネーション』を毎日見ている。
中1の頃から、アンアンやノンノといった
ファッション雑誌を愛読していた私にとって
デザイナー、コシノジュンコは憧れの存在であった。
彼女のデザインした洋服に憧れていたのではない。
それは、田舎の中学生には突飛すぎた。
まことに申し訳ない言い方だが
「顔は関係無い」と知らしめてくれた、最初の存在としてである。
中学といえば自意識が芽生え、自分の容姿にコンプレックスを抱く年ごろ。
私もまた、例外ではなかった。
一才下に美人と呼ばれる妹を持つ身にとって、顔は大問題じゃ。
「妹と違うね」「本当に姉妹?」
口さがない人々の発言に、黙ってうなづき続けるのは苦行であった。
そんな私にとって、ジュンコ様のご活躍は希望の光だった。
「個性的」というのは、なんと便利な言葉よ…
大人になってもこのままならば、あの鋭角なおかっぱ頭や
これでもかのアイラインを実行するわ…
とんでもない洋服とアクセサリーなんかで、人の視線をかく乱するのよ…
そう思うと、ホッとしたものだ。
やがて思春期特有の強い自意識から解放されると
顔のコンプレックスはいつの間にか消えた。
結婚後に知る亭主の浮気に比べれば、実に他愛ない悩みであった。
解放されてみると、不二家のペコちゃんとダルビッシュがきょうだいだと言われて
「あらそうだったの、ふーん」では流せない、人の気持ちもわかるというものだ。
同じ条件のもとで生産されながら、形状が大きく異なる二つの個体を目にした時
つい比較をしてしまうのは、自然な反応であろう。
動機が不純とはいえ、なにしろ私に希望を与えてくれたおかたと
その家族を描いたドラマであるから、とりあえず見る。
注目は、やはりジュンコ様。
“赤ん坊”と言うより“暴れん坊”だった、幼少のジュンコ様の悪行三昧は
人様から「ダミアン(ホラー映画“オーメン”の主人公)」
と呼ばれて嫌われていた、我が長男の乳幼児時代と似ている。
私は我が子の故障やタタリを疑ったが、周囲に人手の多かったジュンコ様は
日々の喧騒にまぎれて、すくすくと才能をお伸ばしあそばされたご様子である。
主な登場人物の外見は、現物とあまりにも違うが
これはこれで、楽しめるホームドラマだ。
大人におなりあそばしたジュンコ様だけは、本物とよく似ている。
奇異や特異に思える外観も、有名になれば「かっこいい」に転じる。
人間界と神界をつなぐ巫女のごとく
女性とファッションをつなぐシャーマンのいでたちとして
人々を納得させてしまうパワーを持つのだろう。
劇中、これでもかと起こるユーモラスなエピソードは
家系的に美的水準が高めでないのと
自立した女系家族特有の中性化があってこそ、生まれる内容も多いと感じる。
主人公一家が、画面通りに美しくて女らしければ
いくら腕やセンスが一流でも、あんなに有名になっただろうか。
自分が美しくないからわかるのだが
美人は美しさに甘えてしまい、どこかで手を抜く。
そうでない者は、自分をどうにかして美しくカッコ良く見せる技を
どこまでも探求する。
その精神を顧客にも、真摯に摘要したからではないのか。
近所のおじちゃん達だって、女ばかりの所帯へあんなに入り浸れるだろうか。
奧さんが妬けず、他人にも邪推されない“外見安全地帯”だからではないのか。
関西人の優しさ、温かさ、気っぷの良さ、だんじり祭の絆などを差し引いても
特別安全区域という印象は残留する。
それら特区ならではのエピソードを美しい女優が演じることで
おなべバーのような一種独特の楽しさをかもし出している。
安全地帯とはいえ、主人公“お母ちゃん”は
戦争未亡人になった後、妻子ある人と恋をする。
これは別名不倫というのだろうけど
戦争によって日本中が食い詰めた時代と、現在とでは
生々しさの度合いが異なるようだ。
“お母ちゃん”の恋は、寡婦の寂しさとか、人の旦那を奪ったなんていう
浮ついたものではなく、自分の家のついでにもう一軒
彼氏一家の生活も支えたと言うほうが似つかわしい。
彼氏にとっては、困っている時に仕事をくれて
生活のメドを立たせてくれた救世主だったのだ。
男がかわいければ、その家族もまたかわいい…
裕福から生まれる余裕と、後でグズグズ言わない潔さが
“お母ちゃん”の魅力である。
さて、ドラマは終盤に入った。
いつもキーキー騒ぐ、助手の昌ちゃんの人気も出てきた。
ここでNHKは、現物とかけ離れた配役の集大成として
夏木マリを起用する予定らしい。
主人公である“お母ちゃん”は、そのうち夏木マリに変身するわけだ。
もはや、あっぱれとしか言いようがない。
これまでお母ちゃん役だった子も、チャキチャキして好きだが
大物女優夏木マリは、もっと好きだ。
おなべバー、いよいよ銀座並木通りに出店…というところか。
楽しみである。
中1の頃から、アンアンやノンノといった
ファッション雑誌を愛読していた私にとって
デザイナー、コシノジュンコは憧れの存在であった。
彼女のデザインした洋服に憧れていたのではない。
それは、田舎の中学生には突飛すぎた。
まことに申し訳ない言い方だが
「顔は関係無い」と知らしめてくれた、最初の存在としてである。
中学といえば自意識が芽生え、自分の容姿にコンプレックスを抱く年ごろ。
私もまた、例外ではなかった。
一才下に美人と呼ばれる妹を持つ身にとって、顔は大問題じゃ。
「妹と違うね」「本当に姉妹?」
口さがない人々の発言に、黙ってうなづき続けるのは苦行であった。
そんな私にとって、ジュンコ様のご活躍は希望の光だった。
「個性的」というのは、なんと便利な言葉よ…
大人になってもこのままならば、あの鋭角なおかっぱ頭や
これでもかのアイラインを実行するわ…
とんでもない洋服とアクセサリーなんかで、人の視線をかく乱するのよ…
そう思うと、ホッとしたものだ。
やがて思春期特有の強い自意識から解放されると
顔のコンプレックスはいつの間にか消えた。
結婚後に知る亭主の浮気に比べれば、実に他愛ない悩みであった。
解放されてみると、不二家のペコちゃんとダルビッシュがきょうだいだと言われて
「あらそうだったの、ふーん」では流せない、人の気持ちもわかるというものだ。
同じ条件のもとで生産されながら、形状が大きく異なる二つの個体を目にした時
つい比較をしてしまうのは、自然な反応であろう。
動機が不純とはいえ、なにしろ私に希望を与えてくれたおかたと
その家族を描いたドラマであるから、とりあえず見る。
注目は、やはりジュンコ様。
“赤ん坊”と言うより“暴れん坊”だった、幼少のジュンコ様の悪行三昧は
人様から「ダミアン(ホラー映画“オーメン”の主人公)」
と呼ばれて嫌われていた、我が長男の乳幼児時代と似ている。
私は我が子の故障やタタリを疑ったが、周囲に人手の多かったジュンコ様は
日々の喧騒にまぎれて、すくすくと才能をお伸ばしあそばされたご様子である。
主な登場人物の外見は、現物とあまりにも違うが
これはこれで、楽しめるホームドラマだ。
大人におなりあそばしたジュンコ様だけは、本物とよく似ている。
奇異や特異に思える外観も、有名になれば「かっこいい」に転じる。
人間界と神界をつなぐ巫女のごとく
女性とファッションをつなぐシャーマンのいでたちとして
人々を納得させてしまうパワーを持つのだろう。
劇中、これでもかと起こるユーモラスなエピソードは
家系的に美的水準が高めでないのと
自立した女系家族特有の中性化があってこそ、生まれる内容も多いと感じる。
主人公一家が、画面通りに美しくて女らしければ
いくら腕やセンスが一流でも、あんなに有名になっただろうか。
自分が美しくないからわかるのだが
美人は美しさに甘えてしまい、どこかで手を抜く。
そうでない者は、自分をどうにかして美しくカッコ良く見せる技を
どこまでも探求する。
その精神を顧客にも、真摯に摘要したからではないのか。
近所のおじちゃん達だって、女ばかりの所帯へあんなに入り浸れるだろうか。
奧さんが妬けず、他人にも邪推されない“外見安全地帯”だからではないのか。
関西人の優しさ、温かさ、気っぷの良さ、だんじり祭の絆などを差し引いても
特別安全区域という印象は残留する。
それら特区ならではのエピソードを美しい女優が演じることで
おなべバーのような一種独特の楽しさをかもし出している。
安全地帯とはいえ、主人公“お母ちゃん”は
戦争未亡人になった後、妻子ある人と恋をする。
これは別名不倫というのだろうけど
戦争によって日本中が食い詰めた時代と、現在とでは
生々しさの度合いが異なるようだ。
“お母ちゃん”の恋は、寡婦の寂しさとか、人の旦那を奪ったなんていう
浮ついたものではなく、自分の家のついでにもう一軒
彼氏一家の生活も支えたと言うほうが似つかわしい。
彼氏にとっては、困っている時に仕事をくれて
生活のメドを立たせてくれた救世主だったのだ。
男がかわいければ、その家族もまたかわいい…
裕福から生まれる余裕と、後でグズグズ言わない潔さが
“お母ちゃん”の魅力である。
さて、ドラマは終盤に入った。
いつもキーキー騒ぐ、助手の昌ちゃんの人気も出てきた。
ここでNHKは、現物とかけ離れた配役の集大成として
夏木マリを起用する予定らしい。
主人公である“お母ちゃん”は、そのうち夏木マリに変身するわけだ。
もはや、あっぱれとしか言いようがない。
これまでお母ちゃん役だった子も、チャキチャキして好きだが
大物女優夏木マリは、もっと好きだ。
おなべバー、いよいよ銀座並木通りに出店…というところか。
楽しみである。