殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

現場はいま…転職騒動記

2022年07月30日 15時28分58秒 | シリーズ・現場はいま…
夫の親友、田辺君が本社の営業部に転職するかもしれない…

7月26日、この素晴らしいニュースに万人の味方を得た心持ちになり

我々一家は手放しで喜んだ。


手放しで喜んだのは、我々だけではない。

河野常務もだ。

彼が数年前、田辺君をスカウトして断られたのはお話しした。

「この俺が頭を下げたのに、断りやがって…」

常務が当時の感情を持ち越していた場合、握り潰されたら困ると考えた夫は

まず、常務の次に発言権のあるKさんにこの件を伝え

Kさんの口から常務に伝えてもらうという安全策を取った。


そうすると今度は

「何で先に俺じゃなくてKなんだ!」

ということになった場合、常務の機嫌を損ねる可能性が出てくる。

年寄りのハートは繊細なのだ。

順番にこだわって、ヘソを曲げられたら終わりである。

しかしKさんから田辺君のことを聞いた彼は、ものすごく喜んだ。

「そうか!田辺が来てくれるか!」


この業界は任侠系とカタギが混在すると、お話しした。

選別して取引をしようにも、大きな工事になると必ずと言っていいほど

任侠系がどこかで絡んでいる。

常務は、怖がって誰も行かない所や、知らずに誰かが行って失敗した所へ

老体に鞭打って接触しなければならない。

彼が70を超えた今も常務であり続けられるのは

この嫌な役目を引き受けているからだ。


しかし厄介なことになり、後で寝込んだのは一度や二度ではない。

「わしゃ、ビビッた…」

はっきり言うのが常務の面白いところで

我々も彼のそういう面を慕っているのはともかく

その方面が得意分野の田辺君が来てくれたら、常務はスリルから解放されるのだ。

伝える順番なんてどうでもいいのだった。


翌々日の28日、河野常務とKさんによる面接が行なわれることになった。

営業部の面接なので、そのトップである永井営業部長が面接に立ち会うのが当然だが

田辺君の希望によって彼は外され、面接があることすら秘密だった。

田辺君が永井部長を外す理由を述べ、常務とKさんも納得してのことだ。

その理由とは以前、永井部長と田辺君の間で起きた数々のトラブル。

それを聞いた二人は、田辺君の希望に従った。


面接では最初に、彼の担当先が決まる。

我が社だ。

常務の意向である。

今の担当者、松木氏の“ま”の字も出ない。


次に肩書きが決まる。

とりあえず営業所長。

松木氏や藤村と違って、そんなことにのぼせる田辺君ではない。


それから彼が回ることになる取引先について打ち合わせをし、面接は終了。

給与その他の待遇については数日後、また会ってからということになった。

常務は、彼を迎えるために十分な待遇を用意するつもりで

田辺君の方は、「多くは望まないし、金のことを最初から言うのは好かん」

という理由からである。

担当や肩書きが先に決まり、待遇は後回しという

通常とは逆の面接に、田辺君の入社は間違いないと踏んで

我々はまたもや喜ぶのだった。


が、結論から申し上げよう。

田辺君の入社は泡と消えた。

思わぬ人物が反対したのだ。

それは本社の社長。


社長は、田辺君入社の決済に判を押さなかった。

「年配者はもう入れないと決めたでしょう!

今年から若返りを図ると言ったじゃないですか」

常務は社長室に呼ばれ、厳しく言われた。

そう、ネックは田辺君の61才という年令である。


その原因は、藤村のセクハラとパワハラ問題。

藤村が性的な問題で労基に訴えられたこの事件を

一番恥じていたのは社長だったらしい。

育成にかかる経費と手間を省くという理由から

年配者の中途採用に積極的だった本社の方針は間違いだったと

藤村が証明したようなものだ。


常務は田辺君の優秀性を説明したが、社長は聞き入れなかった。

「どんなに優秀でも、あと数年しか働けません。

中高年の新人は、もうこりごりです」

と、けんもほろろ。

それ以上、田辺君を推すわけにはいかなかった。


社長の気持ちはよくわかる。

お兄さんが事故に遭わなければ、彼は今も化学者のはずだった。

急に社長に就任させられても、会社には河野常務を始め

自分よりずっと年上のおじさんばっかり。

この環境、かなりやりにくくてしんどいのは、夫を見て来たので知っている。


よく考えれば、現在50代の半ばとなった社長が、自分より年上を入れるわけがないのだ。

12年前の合併当時は小学生だった社長の息子さんも、そろそろ大学を卒業する年令。

次期社長として本社に入る日も遠くないだろう。

鳴り物入りで入社しても、周りは古狸ばっかりで

いいように丸め込まれたり、ていよく押さえつけられたりのストレスフルな毎日…

自分の味わった苦しみを、我が子に継承したい親はいない。

すっかり浮かれていた我々は、そのことを忘れていた。


田辺君の入社が叶わないと知ったのは昨日、29日の夕方だ。

常務、Kさん、田辺君が、夫にそれぞれ連絡してきた。

常務とKさんは残念そうだったが、田辺君はサバサバしていたそうだ。


我々も、もちろん残念だった。

しかし夢破れた悲しみは、思いのほか軽かった。

26日から4日間、楽しい冒険の夢を見させてもらった…

その爽快感の方がよっぽど大きいと言ったら、人は信じてくれるだろうか。

60を過ぎて、こんなに面白い夢が見られるとは思わなかった。


そして社長の危機管理能力にも改めて感心した。

もしも田辺君の入社を許可したら、本社は危なかったかもしれない。

彼の選択肢の一つに、本社を潰すという路線があったからだ。

変なヤツを入れては周りに迷惑をかける会社なんて

世間に必要ないというのが彼の主張。


本当に潰せるかどうかは未知数だが、まずは仕入れを止め

内部からは人材をジワジワと攻めて排除を繰り返し

やがてすっからからんの空洞にしてしまうのは、田辺君の得意とするところだ。

そのためであれば、我々は自分たちの会社をも消滅させる覚悟でいた。

しかし社長は彼を入社させないことで、結果的に自分の会社を守ったのである。


いずれにしても我々は、田辺君という他人に頼り

何とかしてもらおうと思っていた我が身を反省した。

しかし一方で、ゴールをおびやかした自信みたいなものも残った。

夫が強気に変わったのが、一番の収穫かもしれない。


そんなわけで、田辺君の武勇伝を楽しみにしてくださった皆様

誠に申し訳ありません。

彼は変わらず夫の親友であり続けるので

また面白い話があればお話させていただきます。
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手抜き料理・スパイシー・2

2022年07月29日 09時49分40秒 | 手抜き料理
梶田さんがグリーンカレーを持って来てくれたので

とっても楽ちんだった7月のお寺料理。

私はといえば、外でひたすら魚を焼いていた。

次男が釣った鮎


長男が釣った鯛と黒鯛



が、このお魚さんたち、梶田さんに余計な心配をおかけしたようだ。

「これ、出すの…?

グリーンカレーに合わないと思うんだけど…」

お洒落なグリーンカレーの横に野蛮な焼き魚を並べられたんじゃあ

せっかくのエスニックムードが台無しになる…

完璧主義の彼女は案じていた。


子供の幼稚園や学校、選挙事務所など

あちこちでボランティアの料理をしてきた私には、その気持ちがよくわかる。

お洒落な料理はできないものの、私なりに頑張るが

無神経な誰かが気まぐれで持ち込んだ予期せぬシロモノによって

思い描いていた献立の流れが滅茶苦茶になってしまうのは

何度も経験しているからだ。


持ち込むのがデザートぐらいなら、まだ可愛い。

しかしそういう人は、買えば値が張り、作れば手間のかかるデザートの類いを避ける。

そこで安くて簡単に作れ、なおかつ料理上手を知らしめたい一品料理となれば

どうしても姿や匂いのインパクトが強い物になってしまう。

押し寿司の時にカレー味の唐揚げ、パスタの時に鯛のあら炊きなど

こちらが用意しているメインにぶつけてくるものなのよ。

何かを持ち込む善意があるなら、事前にメニューを問い合わせて了解を得る方に使うか

手ぶらで早く来て、手伝う方に使うのが正しい善意の使用法である。


ご心配の梶田さんに、私は言う。

「どうかご安心を。

梶田さんのお料理の邪魔はいたしません。

私も調理師のはしくれ、献立は調和が命と心得ております。

これは皆さんにお持ち帰りいただくお土産ですから 、焼けたらパック詰めです」

それを聞いた梶田さんは、ホッとした様子だった。


そうよ、これはお土産なの。

人数制限の梶田さんが作るからには、持ち帰りが少ないのは必至。

せめて魚でも渡して、お茶を濁す魂胆である。


それはそうと梶田さんが来る前

ユリちゃんはいつも整備作業を手伝いに来るお爺ちゃんに

残念そうな口ぶりで言っていた。

「Kさん、今日はお帰りの時のお持たせが無いかも…ごめんなさいね」


K爺さんには認知症の奥さんと、仕事で帰りの遅い娘さんがいる。

彼がユリ寺の手伝いをした時は、会食の残りを3人分の夕食としてパックに詰め

ごっそり持たせるのが習慣になっている。

遠くから来て、しんどい整備作業を手伝ってくれるのはその人だけで

つまり寺に魅入られたが最後、こき使われる身の上は我々と同じである。


奥さんが認知症じゃあ料理はできまいから、見返りの土産は必要であり

私も同士として、彼の土産を用意するのはやぶさかでない。

しかしその日は人数制限のある梶田さんがメインを作るため

残り物が少ないだろうから、爺さんの持ち帰れるおかずが無い…

ユリちゃんはそう言っているのだった。


それを聞いて、腹が立った。

梶田さんや我々にもだが、コジキじゃあるまいし、K爺さんにも失礼じゃないか。

自分以外を皆、コジキか奴隷に貶めて慇懃無礼をはたらき

それを気配りと思い込むのはユリちゃんぐらいのものだ。


私は彼女に厳しく言った。

「私がいつ、参加者を手ぶらで帰した!

あなどってもらっちゃ困る。

クソ暑いのに火ぃ焚きよんは土産のためじゃ」


ガツンと言うてやらんと、わからんのじゃ。

いや、言ってもわからんだろうから、これからは言うべきことは言うんじゃ。

このままだと、お寺を手伝う人はいなくなってしまう。

ユリちゃんたち選民は高い所から下界を眺め、そのことをひどく心配しているが

その原因がアレらの言動にあることをそろそろ知るべきである。

これで友情が終わるとしたら…

かまわん。


「あらそうだったの?じゃ、お願いね。

Kさ〜ん、お持ち帰りがあるそうですよ〜」

敵もさるもの、それで終わられた。

が、彼女、わりと敏感なのだ。

自分が失礼をやらかしときながら、それを指摘されると大いにクヨクヨするので

少しは薬になったと思う。


会食が終わり、男性陣が帰って女子だけのおしゃべりタイムが始まる。

話題は、来月のお寺料理の打ち合わせだ。

8月は、月初めにある恒例のお勤めと整備作業に加え

お盆前の大掃除、お盆には施餓鬼供養という行事がある。

大掃除と施餓鬼供養には檀家さんが来るので、ユリちゃんは気が抜けない。


今までは、それら3回とも料理をしていた。

マミちゃんが来なければ、一人で行って作っていた。

が、去年から我々は、月に1回しかやらないと宣言したので

ユリちゃんが同級生のカードを使うのは、人数の多い施餓鬼供養だけになる予定。


私はここにも梶田さんを引っ張り出した。

「梶田さんのタコ飯が食べた〜い!」

魔法の呪文を唱えると、あ〜ら不思議、梶田さん来てくれるって。

イェイ!


しかし喜ぶ我々に、ユリちゃんの罠が待ち構えていた。

10月には御会式(おえしき)という、お寺で一番重要な行事がある。

この御会式では、ユリちゃんと兄嫁さんが朝早くから

精進の炊き込みご飯をたくさん作り、パック詰めしてお客に持ち帰らせるのが習わしだ。


その炊き込みご飯の製作がいかに大変か…

他の仕事がたくさんある中で、兄嫁と自分がどれだけ苦労しているか…

年は取っても仕事の量は変わらないどころか増える一方で、本当に辛い…

延々と聞かされた後、ユリちゃんはおもむろに言った。

「だからね、皆さんにお配りする炊き込みご飯をね

そろそろ作っていただければ、私たち、とっても助かるんだけど…」


来た!

マミちゃんと私は顔を見合わせる。

この発言に、朝の草むしりが影響しているのは言うまでもない。

梶田さんも時々来てくれることになって楽になるし

体力余っとんなら早く来て、炊き込みご飯作れや…ということである。


「断る」

私は即座に言った。

ユリちゃんはマミちゃんの洋品店のお客さんだから、マミちゃんは言えない。

だから私が言うしかない。


炊き込みご飯を作るのは簡単だが、早朝から行って作るのは難しい。

家でやる下準備の時間が取れないので、そのしわ寄せが寺でのオーバーワークに繋がる。

料理をしないユリちゃんには、それがわからないのだ。

しかも寺に長居をするのは、危ない。

空いた時間を目ざとく見つけたユリちゃんから、別の労働を振られる可能性大。

ほら、草むしりとかさ。


「ユリちゃんも年取ったろうけど、うちらも年取っとるんよ。

うっかりしとったら新しい仕事振られるんじゃあ、おちおち話もできんわ」

「みりこんちゃん、そんなつもりは無いのよ。

できればそうしていただけたら、と思っただけで…」

例のごとく、穏やかに説き伏せようとするユリちゃん。

そうはいくか。


「炊き込みご飯なら、御会式の昼ごはんにすればええじゃん。

ようけ作って先にパック詰めして、余りを昼に出したら解決するじゃん」

「みりこんちゃん、それじゃあ行事の趣旨に沿わないのよ。

朝一番で作った物をまず御本尊にお供えして

そのお下がりをみんなで頂くというものだから」

「数時間、ズレるだけじゃん。

人手不足なんだから、仏様も許してくれるよ」

「だって、それじゃあ…」


ユリちゃんとの付き合いも長いので、彼女の思いはわかっている。

行事の趣旨なんて関係ないんじゃ。

事実、年に一回、黒豆ごはんを作って配る行事は

しんどいから数年前に廃止にしたと言っている。

つまりこのようなサービスは、選民の一存で廃止できることなのである。


本当は炊き込みご飯を昼のメニューにされたら

必然的にそれがメインディッシュになってしまい

和食中心の地味な献立になりがちで、変わった物が食べられなくなるからだ。

神をも…いや仏をも恐れぬ所業じゃ。


「炊き込みご飯を作るんなら昼、嫌なら廃止。

この二者択一で考えといて」

私は宿題を出してこの話を終え、その日は解散となった。

選民にとっては、何かとスパイシーな一日だったと思う。

《完》
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手抜き料理・スパイシー・1

2022年07月28日 09時52分09秒 | 手抜き料理
現場はいま…シリーズにかまけているうちに、もはや遠い過去となってしまったが

今月の始め、恒例のお寺料理があった。

モンちゃんは仕事で欠席したので、私とマミちゃんが参加した。


皿を洗ってくれるモンちゃんがいなくて残念だが、今回はいつもと違って余裕。

ユリちゃんの嫁ぎ先の方のお寺で、時々アカ抜け横文字料理を振る舞う元公務員

梶田さんがメインを作ってくれることになっていたからだ。


6月にあったお祭りの後、こってり料理で打ち上げをしたのはお話した。

その時、梶田さんも呼ぼうという話が出てユリちゃんが誘ったが

彼女は固辞した。

お祭りには顔を出しただけで、何のお手伝いもしなかったのに

慰労会へ行くわけにはいかないと言うのだ。

こういう律儀なところが人から信頼され、好かれる理由であろう。


それからわずか6日後、今度は梶田さんを加えた女子会をすることになった。

積極的に決めたのはユリちゃん。

彼女はこのところ、お寺料理にかなりの危機感をおぼえている。

我々同級生の脱力を感じ取っているからだ。


そうなったのは、梶田さんの凝った料理と我々のやっつけ料理を天秤にかけたり

我々をタダ働きの人足として扱うユリちゃんの態度が原因。

しかし選民ユリちゃんがそんなことに気づくはずもなく

彼女は梶田さんを引き入れ、料理番の人数を増やしたがっていた。

それには親睦が一番ということで、女子会が決行されたのである。


その席で、お寺料理の打ち合わせをした。

ユリちゃんがその話題に持って行き、梶田さんに水を向けたと言う方がふさわしい。

月初めは勤行と整備作業だけで、食事をする人数が少ない。

8人から多くて9人までという人数制限のある梶田さんを誘いやすいからだ。

ユリちゃん、本当はいつも梶田さんを呼んでアカ抜け横文字料理が食べたい。

しかし梶田クッキングは飾り付けに時間がかかるので、人数が多いと無理なのだ。


打ち合わせの結果、私の強い要望で

梶田さんがグリーンカレーを作ってくれることになった。

以前も二度ほど食べさせてくれた、彼女の得意料理だ。

ひたすら「作って!作って!」じゃあ人は動かない。

しかし「また食べたい!」と言えば料理好きの人は快諾し

万障繰り合わせて作ってくれるものだ。

「行ける時だけ」という注釈付きではあるが

梶田さんのユリ寺料理参戦は難なく決定した。


フフフ…これで次のお寺料理は楽勝じゃわい。

最高の手抜き料理とは、人に作らせることである。


とはいえ梶田さんに甘えるだけでは夢見が悪いので

マミちゃんは生のトマトにチーズとハーブを詰め

豚バラでグルグル巻きにして丸焼きにする「フランケン・トマト」を作ると言った。

私は例のごとく、息子たちの釣った魚を炭で焼きまくる。

屋外の陽射しと炭火の熱で、やたらと暑いのがネックだが

炭焼きの魚は買い物や下ごしらえがいらず、冷凍庫の整理までできる便利なメニュー。



そして月が変わり、お寺料理の日がやってきた。

7月に入ったとはいえ、この日は風があって涼しい。

「ありがとうございます!お陰で生還できそうです!」

天を仰いで感謝する私。


お寺へ向かいながら、マミちゃんと話した。

「今日は梶田さんが作ってくれるから、楽だね」

「そうね、ユリちゃんの気持ちがわかったような気がする」

「どんな気持ち?」

「人に作らせて自分は楽な気持ち」

「言えてる…きっとこんな気持ちなんだよね」


お寺に到着すると、ユリちゃんの兄嫁さんが台所の裏手で草むしりをしていた。

私は無視して炭火をおこす作業に入ったが、マミちゃんは兄嫁さんの近くに駆け寄り

「私、一品しか作らないから、時間が余ってる〜」

と言いながら、一緒に草むしりを始めた。

嬉しい!助かるわ〜!上手〜!ほら、アッと言う間に草が無くなって!…

兄嫁さんとユリちゃんの喜ぶまいことか。


「よせ…マミちゃん…やめとけ…」

私はその光景を眺めつつ、心で叫ぶ。

大袈裟に喜んで見せるのは、アレらの手じゃ…

草むしりも給料のうちでやってる人と、うちらは違うんじゃ…

味をしめさせたら、庭仕事まで押し付けられるぞ…

そうなってからブツクサ言っても手遅れじゃんか…

しかし感謝されて善意の塊になっているマミちゃんに、聞こえるはずもなかった。


「これからは草むしりも手伝ってもらえるのね!」

「何てありがたいんでしょう!」

はしゃぐアレら。

知らんぞ。

あ、私?

日頃から、虫に弱い超敏感肌だとアピール済み。

絶対やらないもんね。



そのうち梶田さんがグリーンカレーの入った保温ジャーと

サフランライスならぬクチナシライスの入った土鍋を抱えて到着。

昼が近くなったので、マミちゃんも草むしりをやめて料理に取り組む。

この日の人数は、我々を入れて8人分だ。


マミちゃん作・フランケントマトの製作過程



フランケントマトの仕上がり



梶田さん作・グリーンカレー



梶田さん作・紫キャベツの甘酢漬けとキャロット・ラペ



みりこん作・キュウリとクラゲの生酢



あと、梶田さんがラタトゥイユをほんの少し持って来ていたが、写真を撮り忘れた。

彼女のラタトゥイユは一風変わっていて

トマト、ナス、ズッキーニ、セロリなどの食材を

1センチ角のサイコロ状に切った佃煮風。

味の方も変わっていて、ハーブだかスパイスだかの香りが

もはや殺虫剤級の苦辛味。

田舎者の私にはあまりにも高度過ぎたが、ワイン好きの梶田さんはこれが好みらしい。

他の人も「おいしい!」と絶賛。

皆さん、大人の舌をお持ちらしい…すごいなあ…と感心しきりの私よ。

しかしそのわりには、たった一つの小鉢に盛られたラタトゥイユが

いっこうに無くならないという不思議な現象を見た。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・11

2022年07月26日 14時41分21秒 | シリーズ・現場はいま…
ダメもとで松木氏に電話をかけた田辺君だが

思いがけず松木氏が電話に出たので、そのまま用件に入った。

「松木さん、ヒロシさんにオイタをしてくれたそうじゃないの」

声は聞こえないが、松木氏はとぼけている様子。


「ヒロシさんに喧嘩売るんは、ワシに喧嘩売るんと同じで?

あんたぁ、S物産にも喧嘩売っとるんで?

それも忘れたわけじゃあるまいの」

何やら言い訳をしている松木氏。


「年寄りで病人は、こないだ聞いた。

それがどした言うんね。

はあ?抗癌剤?

抗癌剤打ちようたら何してもええんか!

いつ決まったんね!言うてみい!」

ここで電話を切ったらどうなるかわからないので

松木氏は田辺君の話を聞き続けるしかない。


「くだらんことばっかりやりやがって、恥ずかしゅうないんか。

それともあんた、そうまでして消えたいんか。

何?違う?

ワシを敵に回すとは、そういうこっちゃないか。

はあ?今さら謝って済むかいや。

ワシはあんたと違うて、やる言うたら必ずやるで!」


これで何日かは持つんじゃない?…

田辺君がそう言って帰った後、夫は松木氏に電話をかけた。

田辺君は田辺君、お中元はお中元だ。

野菜ジュースを買っているのを伝える必要があるではないか。

しかし何度かけても、松木氏は電話に出なかった。

当たり前か。


そして翌日、松木氏は来なかった。

彼の出方によっては殴って辞めるつもりでいた夫だが

会わずに済んでホッとした様子だった。

柔道有段者で、少林寺拳法とボクシング経験者の夫にとって

暴力を振るうことは非常に抵抗のある行為。

冷却期間が得られたと知って、私も松木氏のために安堵した。

田辺君のお灸が効いたと思い、家族で胸をなでおろしたものだ。


が、明けて22日には来た。

いつものように昼近くなって重役出勤した松木氏は

夫の顔を見るなり言った。

「一昨日はゴメン」


ガキか…

夫は一瞬、驚いたが、それがこいつだと思い直し

「次は無いで」

とだけ返した。


あとは野菜ジュースのことを伝え、持って行くように言う。

すると松木氏は

「本社に言って返金してもらうから、領収書を出して」

と言ったが、夫は断った。

「そんな金、いらん。

これで終わりじゃ」

これ以上、野菜ジュースに関わりたくなかったのだ。

この一件で、野菜ジュースがますます嫌いになったのは間違いない。


その後、本社の若者から夫に連絡があった。

「松木のおっさん、昨日、河野常務に怒られてましたよ」

夫がお中元を盗んで冷蔵庫に隠していたのを自分が発見し、未然に防いだ…

松木氏は常務にそう告げ口をしたらしい。

人を悪く言ったついでに自分をアピールするのは、彼の常套手段だ。

田辺君に脅された松木氏は、おとなしくなるどころか

何が何でも夫を葬る方を選択したようだ。


それだけならまだしも、松木氏は欲をかいた。

お中元繋がりで、ダイちゃんのことも常務に告げ口。

先日、ダイちゃんが事務所に来た時

お中元で届いていたビールを無断で持ち帰ったという内容である。


ちなみに本社の元経理部長だったダイちゃんは

社内での宗教勧誘が原因で閑職に追いやられ

今は松木氏と同じ嘱託パートの身の上となって

うちとはあまり接触が無くなっていた。

しかし事務員のトトロが6月以降、体調不良で休むようになり

休んでいるうちにコロナに感染したため、いまだ長期欠勤中。

そこへ名乗りを上げたダイちゃん、時々ではあるが、再びこちらへ来るようになった。

特に今のシーズンは熱心。

大好きなビールが届いている可能性が高いからである。


常務にとってダイちゃんは、弟のように可愛い存在だ。

閑職に追われたとはいえ、ダイちゃんに対する常務の愛情は変わらない。

そのダイちゃんまで泥棒扱いされた常務の怒りは、すさまじいものだったそう。

「たかがそれぐらいのことで、何言いよんじゃ!

お前、そこまでして人を泥棒にしたいんか!

ふうの悪い!」

松木氏は、ずいぶん絞られたという。

それで翌日、はなはだ簡単ながら、松木氏は夫に謝ったと思われる。



そしてさらに翌日の22日。

この日の松木氏には重要任務があるので、何ごともなかったかのように出勤。

その重要任務とは、本社から社員に支給される鰻の蒲焼きを取りに行くのだ…ガクッ。

土用の丑の日は23日だが、その日は土曜日で会社が休みなので

今年は前日に配ることになった。


一昨年は藤村が着服したので鰻のことは知らなかったが

彼がいなくなった去年から、夫や社員にも支給されるようになった。

コロナで新年会ができないため、代わりに鰻だそう。

鰻は本社がスーパーの本店に一括注文し

各支店が最寄りの店に取りに行くシステムだが、松木氏はなぜか張り切っていた。

仕事をしない人って、こういう雑用が好きなものである。


が、鰻を取りに行く段になって、彼は騒ぎ出す。

「引換券が無い!」

そこでまず、夫を疑う。

「ここに置いとったのに、知らないか?」


夫はさすがに声を荒げた。

「またおんなじこと繰り返すつもりか!

知るわけなかろうが!頭がイカれたんじゃないんか!」

すると今度は次男を疑う。

「ヨシキが座った所に置いとったけん、あいつかも…」

田辺君のお灸は、1日しか持たなかったようだ。


ええ加減にせぇ!…夫は怒鳴った。

「鰻ぐらい、盗まんでも買えるわい!おめぇじゃないんど!」

まだ疑うんなら◯す…

夫は本心を言い、松木氏は黙った。


その後、彼は引換券を再発行してもらって鰻を入手。

休んでいるトトロの家に届けると言って、そそくさと帰ったので

夫は仕事が終わった社員に鰻を配布した。

しかし夫のアシスタント、シゲちゃんは「結構です…」と鰻を拒否。

「皆に配るんじゃけん、そう言わんと持って帰れや」

夫が言うと、彼は財布を出して言った。

「あの…おいくらですか…」

一同は爆笑し、無料だと言うとシゲちゃんは喜んだ。


シゲちゃんのお陰で後味の悪さは払拭されたが

ゲンが悪いので、鰻はその日の夕食に出した。

夫は元々嫌いな野菜ジュースだけでなく、鰻も嫌いになったかと思い

別のおかずも用意したが、鰻を美味しそうに食べていた。


ともあれ新人マルさんは順調。

仕事も順調。

日々是好日…

今回は、これで終わるはずだった。


が、今日になって晴天の霹靂が。

田辺君が本社に転職するかもよ。

今朝、田辺君が会社に来た時、夫が彼に持ちかけた。

泥棒騒ぎ以来、本当の復讐とは何かを考えていたという。

それを聞いた田辺君は言った。

「僕もそれ、考えてたんよ」


数年前、S物産の跡目争いに敗れた専務と共に退職した彼は

その専務の推薦で現在の会社に転職した。

そこで活躍していた彼だが

社内には土着の爺さんが多くてあんまり面白くないのだそう。


しかしすでに5年が経過し、一緒に辞めた元専務への義理を通した彼は

「年金もらう年が近づいたけん、最後は面白い仕事がしたい」

と言った。

玉木宏似の田辺君、もっと若いのかと思っていたら

私とあんまり変わらないらしい。


「本社を滅茶苦茶にしてやろう」

二人の意見は一致した。

手始めは松木氏と藤村だそうだ。


夫は本社のNo.2…つまり河野常務の次と言われるKさんに連絡し

面接の約束を取りつけた。

河野常務にあえて言わないのは、以前、彼が田辺君を欲しがり

永井営業部長と一緒に会ったことがあるからだ。

その時の田辺君は転職して年数が経っていなかったため、あっさり断った。


それが今度は自分から就職したいと言ったら、常務はどう出るか。

大喜びするか、断られた苦々しさで却下するかの両極だ。

常務の気持ちが後者だった場合、彼の所で握り潰されたら終わりなので

営業部の人事を取り仕切るKさんに連絡したというわけである。

何しろ今朝のことなので、どうなるのか

まだわからないが、実現したら楽しくなりそうだ。

《完》
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現場はいま…それぞれの想い・10

2022年07月24日 10時44分51秒 | シリーズ・現場はいま…
冷蔵庫に並んだ野菜ジュースの缶を指差し、松木氏はなおも叫ぶ。

「これは、〇〇社のお中元じゃ!

ワシが持って行くつもりで買うとったのに、どうしてくれるんじゃ!」


ここで説明しておこう。

地元の取引先へ中元歳暮を配達するのは、松木氏の仕事。

大手取引先には、本社から多少値の張る進物が直送されるが

本社があまり意識してない小さな取引先には

松木氏が本社からもらった予算で進物を買い、彼が届けることになっている。

普段は寝て暮らしても、夏と冬の一時期は多少なりとも仕事があるわけだ。

彼はこの仕事を気に入っているらしく、この時期はなぜか得意げである。



「ワシの机にあったけん、届いたモンか思うた」

夫が言うと、松木氏は勝ち誇ったような顔になり

声のトーンを落として吐き捨てた。

「あんた、泥棒じゃったんじゃの」


大好きなチョコレートやアイスならまだしも

大嫌いな野菜ジュースで泥棒扱いされたのではたまらない。

夫は逆上した。

「やかましい!買うて戻しゃええんじゃろうが!」


松木氏は取り合わず、軽蔑の笑みすら浮かべて溜息混じりに言う。

「戻して済む問題じゃあなかろう…横領じゃけんのぅ」

「ワレが紛らわしいことしといて、何ぬかしょんね!」

「見逃すわけにはいかんのぅ。

これは本社に報告せんと」

「ナンボでも言ええや!ジュースが何じゃいうんね!この給料泥棒が!」

仕掛けておいて急に逃げるのが、松木氏の常套手段。

例のごとく事務所を出て行ったので、バトルは終わった。


しかし取引先へ行くはずの野菜ジュースは、冷蔵庫でバラバラになっている。

いくら腹が立ったといえ、そのままにしておくわけにはいかない。

夫は本社の進物担当に事情を話し、弁償するから金額を教えて欲しいと頼んだ。

「松木氏さんに渡した予算は3,500円です。

別に野菜ジュースでなくてもいいですから、適当に買っといてください」

担当者がいとも簡単に言ったので、スーパーへ行きがてら家に寄ったというわけ。

私に聞いて欲しかったのだろう。


「あんなヤツと仕事なんかできん!今日で辞める!」

怒りのおさまらない夫。

腹を立てるのも無理はない。

缶入りの野菜ジュースは重たいので、普通は買ったその足で持って行く。

すぐに持って行けないのであれば、車に置いておけばいいものを

わざわざ事務所に戻って車から降ろし

自分の机でなく夫の机を選んで放置するのは不自然きわまりない。

うっかり屋の夫が、間違えて開封するように仕向けたと考えていいだろう。

いかにも松木氏らしさ全開の、みみっちいトラップである。


それにまんまと引っかかり、泥棒扱いされた夫の無念は察するに余りある。

松木氏の手口は、私が子供の頃から体験してきたものだ。

他人と生活するとは、そういう無念が付いて回ることである。

「うちの子に限って」「うちの嫁に限って」という大前提が無いため

ボヤボヤしていたら、たちまち泥棒や犯罪者、性格異常者に仕立てられてしまう。


それを回避するためには、信頼関係を築くのが大切だと世間ではよく言う。

笑わせんな。

世の中には最初から、そういう関係性を結ぶことを徹底拒否する人間の方が多い。

こちらの存在を認めてしまったら、自分の立場が脅かされるとなれば

向こうも必死になるものだ。



そういうわけで話を戻すが、私は松木氏の仕掛けた罠が職場放棄でなく

お中元だったことにいささか安堵していた。

腹立ち紛れに職場を離れたということにされた場合、時間は取り戻せないが

品物が争点なら、買えばいいのでリセットが可能だからである。


「わかった」

私は夫に言った。

「でも、今日は辞めん方がええよ。

今日辞めたら、泥棒が見つかって辞めさせられたことになる。

事実はそうじゃなくても、その方が面白いけん、人はそう言うもんよ。

3,500円で泥棒にされてもねぇ」

「そりゃあそうじゃけど…」

「同じ辞めるんなら明日、あいつを殴って辞め。

泥棒より乱暴の方がマシじゃが」


それで納得したのかどうか知らないが、夫は落ち着きを取り戻し

「とりあえず野菜ジュース買いに行くわ」

と言って出て行った。


この一件は先月、松木氏がS物産に値上げの電話をし

田辺君を怒らせたことが発端になっているのは、最初からわかっている。

松木氏はあれ以来、夫を会社から追い出す決定打を考えていたようだ。


彼は前々から、夫を追い出して自分が成り替わるべく

色々やってくれていたが、やることはせいぜい嘘や告げ口だった。

しかし今回、品物を使って積極的行動に出たのを見ると

早急に夫を葬りたいという強い意思が感じられる。

田辺君がよっぽど恐ろしかったのだと思う。

夫がいなくなれば、田辺君の介入は無くなるので

今後は彼の影に怯えなくて済むからだ。



さてその後、スーパーで野菜ジュースを買った夫が会社に戻ったところへ

ちょうど田辺君がやって来た。

親友の顔を見てホッとした夫は、先ほどのバトルの話をした。

と、田辺君は、その場で松木氏に電話をかけた。


「出ないだろうな」

かけながら、つぶやく田辺君。

S物産の件以降、ダメ押しをしておこうと何度か松木氏にかけたが

一切出ないという。

が、この日の松木氏は電話に出た。

罠が成功したという達成感で、気が緩んでいたのかもしれない。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・9

2022年07月21日 09時48分44秒 | シリーズ・現場はいま…
女性運転手であることを強調して面接、引いては入社を計画した

ムッちゃんとその一味の作戦は不発に終わった。

6月末というキリのいい時期に、大胆な愚策を繰り出したところを見ると

彼女は6月いっぱいで今の仕事を辞める予定になっていたのだろう。

御愁傷様です、としか言いようがない。



7月に入ると、ヒロミは再びムッちゃん運動に精を出し始めた。

もう次男にねだる手しか残ってない。

根負けした次男が、父親に頼むのを待つしかないのだ。


しかし、その目も無さそう。

次男がヒロミと口をきくのは、仕事だからだ。

彼女は夫と長男を煙たがっているので、話すのはもっぱら次男。

一方で次男の方は、父親と兄が見限ったヒロミを自分までが突き放したら

仕事の連携が取れなくなると考えている。

「辞める日までは一緒に仕事せんといけんけぇ、俺だけでも糸は繋いでおかんと」

だそう。


次男の話によると、ヒロミはムッちゃんから相当責められている様子。

日に日に焦りの色を強め、ストレスでお腹を壊したという。

それでも相変わらずムッちゃん、ムッちゃんとうわごとのように繰り返すが

事態が変わるはずもなく、やがてシュウちゃん退職の日が訪れた。


ヒロミはシュウちゃんと同じ町内の出身ということもあり

入社以来、彼には何かと世話になってきた。

去年、彼女が引越しをした際も、手伝ったのは佐藤君だが

大量に出た引越しゴミを全て処分してやったのはシュウちゃんだ。

それ一つをとっても十分世話になったはずである。

彼の代わりにムッちゃんが入ることになっていたら

満面の笑みで花束でも渡しただろうが

その願いが叶わなかった今、辞めて行く爺さんに用は無いのだった。

終業時は彼と顔を合わせないよう、急いで帰ったという。



翌日からは、マルさんが入社した。

何年も前から居たように、最初からすんなり職場に溶け込んで

すんなりと仕事をしている…

新人について、あんまりあれこれ言わない夫だが、今回は珍しく言う。


このすんなりが、夫には嬉しいのだった。

速度はどうか、積込みや荷下ろしに問題は無いか

取引先への態度は、仲間とのコミュニケーションは…

それらを何ら気にかけなくてもいいということは、そのまま安全に繋がるからだ。


車幅や速度などにまつわる本人の感覚が、一般のそれとズレていたり

いちいち言わなければできなかったり、口数が多すぎて無線に夢中だったり

暗くて何を考えているかわからなかったり…

そのように周りに気を使わせる人を、今どきは個性と呼ぶのかもしれないが

公道では通用しない。

ドライバーが新人だろうと個性的だろうと、道行く人や車には関係ないのだ。


よって個性が強いと、一緒に働く社員が神経を使う。

要所要所で教えたり、注意するのは疲れるものだ。

こういうことを言ってもいいのだろうか…

パワハラにならないか…

そんなことを考えながら運転の仕事をするのは、消耗する。

余計な神経を使うことで疲労が蓄積し

一番大切な安全が脅かされる可能性が出てくるというわけである。

すんなり…それはダンプ乗りにとって、最高の褒め言葉かもしれない。


ともあれマルさんが来始めたことで、ムッちゃんは完全に入社を諦めたらしい。

退職を撤回して、今までの所へ勤めている。

ヒロミとは絶交したようで、彼女の口からはムッちゃんのムの字も出なくなり

ムッちゃん騒動は終了した…

と、今回のシリーズはこれで終わろうと思っていた。


しかし、またまた事件が勃発。

これが話さずにおらりょうか、ということで終われなくなったぞ。

一難去ってまた一難とよく言うけど、会社なんてやってたら

三難去ってまた四難が当たり前だ。

一つや二つで難だの何だのと、言ってはいられない。



「もう辞める!今度は辞める!」

夫は一昨日の午後3時、家に帰って来て私の顔を見るなり言った。

どうせ松木氏のことだと思ったので、私は例のごとく返す。

「今までお疲れ様」

が、この時の夫はいつもと違い、ひどく興奮していた。


夫が仕事中に帰って来るのは珍しくない。

お金、あるいは書類が必要になった時など、用があれば帰って来て

またすぐ仕事に戻るのは日常的な習慣だが、この日は湯気が出るほど怒り狂っている。

私は咄嗟に職場放棄を疑った。

家にはしょっちゅう帰って来るので、職場放棄ならしょっちゅうしているが

松木氏が夫をひどく怒らせ、その場にいられない状況に仕向けておいて

「職場放棄した」と騒いで大きな問題にしようと企んだのではないか…

つまり夫は、松木氏の罠にはまったのではないかと思ったのだ。

卑怯の権化、松木氏にはそれぐらい疑ってかからないと危ない。


「何があったか、落ち着いて話してごらん」

汗まみれの夫にタオルを渡し、椅子に座るよう促して私はたずねた。

夫の話はこうだ。

今朝出勤したら、事務所にある夫の机の上に

お中元らしき包みが置かれていた。

宅配便でなく手渡しの品物で

中身は野菜ジュースと包装紙の上からでもわかった。


会社に届いた贈答品は社内で分けることにしている。

夫の机の上にあるということは、すでに誰かが受け取って礼を言い

分けられる予定の品物という暗黙の了解がある。

夫はその場に居たヒロミに冷蔵庫に入れるよう言い、重機の所へ行った。

ヒロミは野菜ジュースを包みから出して、冷蔵庫に入れた。


数時間後、松木氏が事務所にフラリとやって来た。

あんまり来なくなったとはいえ、たまには来る。

夫もちょうど、事務所に戻って来た。

「ここへ置いといた野菜ジュースは?」

松木氏に聞かれた夫は、黙って冷蔵庫を指差す。

S物産の件以来、夫は松木氏とほとんど口をきかない。


冷蔵庫を開けた松木氏は、叫んだ。

「何てことをしてくれたんだ!」

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・8

2022年07月19日 09時29分12秒 | シリーズ・現場はいま…
「もしもし…」

知らない番号の知らない男から電話がかかって来た…

と言っても、夫にとってそんなことは日常茶飯事。

彼の携帯番号は名刺やホームページで公開しているので

仕事に関する問い合わせや現場の業者からの連絡など

夫が受ける電話の何割かは知らない人からだ。


しかしこの電話、内容のほうは一風変わっていた。

男は自分の名前と勤務先を名乗った後

「知り合いの女性を運転手で雇ってくれませんか」

そう言ったからだ。


「運転手は間に合ってます」

夫が答えると、男はなおも言った。

「女性でも、経験は長いんですが」

「ダンプの空きが無いから、募集はしてないんですよ」

「面接だけでもしてもらえませんかね?」

「人を入れる予定が無いのに面接はできんでしょう。

そもそも、うちへ来たい人とは誰のことですか?」

男はそう言われて口ごもる。

「それは今、ちょっと…

面接してもらえたら、本人を行かせますから…」


真面目に対応する価値無しと判断した夫は、冷たく言った。

「わけのわからん人とは、会われんわ」

男は沈黙し、電話は切られた。


男の言った勤務先は夫の親友、田辺君の勤務先でもあった。

また、その勤務先はヒロミが以前、働いていた所でもある。

こういうのは、偶然と言わない。

大型ダンプを使う会社は、数が多くないからだ。

この近辺に住むダンプ乗りにとっての転職とは

数ヶ所の仕事先を順番に巡ることなので、勤務先の符合は当たり前である。


電話の後、夫がさっそく田辺君に確認すると、彼はすぐに答えた。

「うちでダンプに乗ってる50過ぎのオッサンだよ。

無職と再就職を繰り返して腐ったクチ。

松木のオッサンと同じだから、相手にしない方がいいよ。

今はダンプ乗りの女と付き合ってるらしいから

言ってるのは自分の女のことじゃないの?」


知らない男からの電話は、その後も続いた。

ただし、かけてくる相手はそれぞれ別人。

「知り合いの女性運転手を入れて欲しい」

話す内容はほぼ同じだ。

そして、その女性の素性は言わない。

ぞんざいな話し方から、夫はどれも同じようなレベルの運転手仲間だと感じた。


この手の電話は6月29日から30日にかけて、合計5回あった。

「ええ加減にせぇ!

人に電話さして自分は隠れとるモンを、ハイハイ言うて入れたらバカじゃわ!」

夫もしまいには嫌気がさして、きついことを言っていた。

この人、基本は無口だが、腹を立てると結構言いなさるんじゃ。


話題の女性が誰であるか、我々は最初から確信している。

ムッちゃんだ。

ヒロミに夫の携帯番号を聞いたものの、自分では言いにくいので

せっせと知り合いに電話をかけさせているのである。

後で次男が言うには、電話のあった29日と30日の両日

ヒロミは珍しくムッちゃんのことを口にしなかったそうだ。

この作戦に賭けていたからだと思われる。


我々は、彼らを心から憐れんだ。

あんな電話で就職できると、マジで思っているのか。

どいつもこいつも、悲しくなるほど愚かではないか。

このような人たちがいるから、ダンプ乗りの地位は向上しないのだ。


とはいえ、女だと告げれば採用の可能性が出ると踏んだ

彼らの心境はわからないでもない。

夫の女好きは有名だ。

人類の大好きなシモの噂で、周囲を賑わせていた過去は消えない。


だから彼らは夫に電話をした時、ムッちゃんの情報を隠しながらも

女性の運転手ということだけは、はっきりと伝えた。

ハーレムを作ると豪語していた藤村の例もあることだし

女と聞いた夫が、会ってみたいと思えばしめたもの。

あるとすればの話だが、ムッちゃんの魅力で夫を魅了し、めでたく入社の予定。


その過程が、最初に電話をかけてきたカレシとの媚薬になるであろうことはさておき

古い話になるが、夫にはヤクザの情婦だった未亡人に魅了され、会社に入れた前例がある。

この業界、愛人を会社に入れるのはよくあることなので、さほどの驚きは無いが

界隈のダンプ乗りにとって衝撃的だったのは、乗せるダンプの空きが無いにもかかわらず

その未亡人を運転手として入社させたことだった。


ダンプ乗りの就職は、まず空いたダンプありき。

空きダンプが無いのに運転手を入れたとなると

今勤めている社員の誰かを辞めさせる心づもりがあると公言したも同じだ。

能天気な夫は深い考えもなく、ただ愛人の希望に従ったまでだが

社員の方は確実にそうとらえる。

与えられたダンプに強い思い入れを持って働く運転手の思考回路は、そうなのだ。


愛人を働かせたければ、とりあえず社員に影響の少ない仕事をさせて様子を見る…

それは愛人を会社に入れる際の、最低限の掟。

恋に狂って女の言いなりとなった夫は、結果的にこの掟を破った。

そのために社員を不安と絶望に陥れた事実は、当然知れ渡る。

運転手が無線でしゃべるからだ。

それは30年近く経った今でも語り継がれている。


ムッちゃん御一行が、この過去を把握しているかどうかは不明だが

少なくとも女好き、女の言いなりという夫の悪癖を知っているからこそ

計画された作戦なのは間違いない。

アレらが軽い頭で考えそうなことだが、本社と合併した現在

会社は夫の思い通りにならないため、時代的に古過ぎる。


また、ムッちゃんが勇気を出して夫の所へ行き、就職を頼んでみたところで

50もつれの元ヤンに夫がよろめくかどうか。

こっちは視覚的に古過ぎる。

いずれにしても残念な作戦だった。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・7

2022年07月16日 21時23分15秒 | シリーズ・現場はいま…
昨日は、シュウちゃんの最後の出勤日だった。

シュウちゃんとは74才の社員。

大型ダンプの運転手が、この年まで現役を続けられるのはレアケースだ。

たいていの人は健康不安や視力の衰えにより、もっと早めに引退する。


特に視力は大事。

以前もお話ししたことがあるが、大型免許を持つ人は

免許の更新時、通常の視力検査に加えて深視力(しんしりょく)検査というのが行われる。

この検査に合格しなければ、大型免許の更新はできない。

不合格の場合、普通免許は残るが大型免許は失効する。


60代に入ると、多くがこの深視力検査で引っかかるようになり

大型車両の仕事を辞めて行く。

しかしシュウちゃんは、ずっと大丈夫な奇跡の人だった。

働き者で性格も良い彼には、ずっと来てもらいたかったが

今月の誕生日がきたら後期高齢者の75才になるということで…

つまり、あまりにも老人過ぎるということで

事故や労災を案じる本社の意向により、退職してもらうことになったのだ。

合併して良かったこともたくさんあったが

こんな時は自分たちの無力を感じること、しきりである。


辞めるシュウちゃんに、心ばかりの品を渡したい…

我々家族は考えた。

が、シュウちゃんに贈り物をするのは難しいのだ。

例えば義父の命日にお供えをくれたので、お返しを渡すと

律儀なシュウちゃんは、そのお返しを持って来る。

それでは申し訳ないので、少し日にちを置いてまた何か渡したら

シュウちゃんもまた何かくれる。

それじゃあ悪いので、また何かあげる。

するとまた、何かくれる。

エンドレス。


「もうやめよう…キリが無い…」

ということで、その時はもう返さなかった。

そんなわけで、彼に物を贈るのは難しいのである。


そして昨日、シュウちゃんは夫と社員に贈り物を用意していた。

お別れの挨拶だそう。

夫には味付け海苔、社員にはお菓子の詰め合わせ。

思えばこれまで、退職の時にこのような物をくれる社員は誰一人いなかった。

シュウちゃんのように律儀な運転手は滅多にいないのもあるが

この業界、待遇の不満か喧嘩で辞めるケースが多いため、円満退社も滅多に無いからだ。


それはともかく普通、そういう物は帰り際に渡すだろう。

が、彼の場合は朝イチ。

贈り物を用意したら、すぐ渡したくなるのがシュウちゃんなのだ。


彼が夫にそれを渡した時、夫は用意していたメロンをすかさず渡した。

メロンはバナナと並ぶ、奥さんの好物。

大袈裟でない物ということで決め、息子たちと割り勘で前日に買っておいたものである。

贈り物が好きなシュウちゃんは、きっと何かを持って来るだろうから

同時に渡せばお返しは来ないと踏んだのだった。


勤務を終えたシュウちゃんは、夫や息子たちに

「お世話になりました」と言って帰って行った。

じっとしていられない人なので、またどこかで働くかもしれないし

たまには会社にも顔を出してくれるだろう…

昨夜、我々家族はそう語り合い、悲しい別れに決着をつけたものだが

シュウちゃんは今朝、さっそく会社に顔を出した。

「やっぱり大手はええのう!有休の消化なんて、わしゃ初めてじゃ!」

と上機嫌だったそうである。



話は昨日に戻るが、シュウちゃんに別れの挨拶もせず、さっさと帰った社員が二人。

佐藤君とヒロミだ。

怠け者の佐藤君は、彼にズケズケ言うシュウちゃんを嫌っていたし

ヒロミはヒロミで、とある事情により、ずっと不機嫌だった。

その事情とは、シュウちゃんの後釜として

仲良しのムッちゃんを入社させる計画がパーになった件である。


さらに話は先月に遡るが、シュウちゃんの退職を知ったヒロミはルンルンだった。

前の職場で同僚だった、ムッちゃんを入れるつもりだったからだ。

ムッちゃんはよそのダンプに乗っているが

ヒロミとは話ができあがっていて、すっかりこちらへ転職する気でいた。

それを聞いた我々は、「図々しいにもほどがある!」と腹を立てたものだ。


そのうちマルさんの入社が公になり、ムッちゃん入社の夢がいよいよ破れかけた頃

ヒロミは最後の隠し球を出してきた。

彼女にとっては隠し球でも、我々にとってはどうでもいいその内容とは

自分が入社した時、次に欠員が出たらムッちゃんを入れることを

藤村と約束していたというものである。

ヤツがまだ、こちらに居た頃の話だ。

女性運転手ばかりを集め、自分だけのハーレムを作ろうとしていた藤村のことだから

全く不思議ではない。


「ムッちゃんが入るのは去年から決まっていたんだから、約束を守って欲しい」

ヒロミは日々、次男に訴え続ける。

人事に関わらない次男が聞いても仕方がないのだが

夫がけむたいヒロミは、話しやすい彼だけに言う。

次男が父親を動かしてくれると思いたいのだ。


しかし、いくら約束していようと、文書を交わしたわけでもないただの口約束。

藤村が失脚した今、約束はホゴになって当然だ。

次男がそれを説明しても理解できないヒロミは

「約束、約束」としつこく主張を続ける。

次男は毎回、「わしゃ知らん、藤村に言え」と答えていた。


その様子を聞いた私は、ヒロミがムッちゃんにせっつかれていると確信した。

ムッちゃんから、入社はまだかまだかと矢の催促をされているのだ。

おもしれぇじゃんか。

入社できると思い込んでいるムッちゃん…

生返事で逃げ回り、その間に何とかしたいヒロミ…

損得で繋がるゲスの友情など、壊れりゃええんじゃ、


やがて6月が終わろうとする頃、夫の携帯に知らない番号から電話がかかる。

「もしもし…」

聞き覚えの無い男の声だった。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・6

2022年07月14日 10時10分52秒 | シリーズ・現場はいま…
田辺君に叱られて以降、松木氏がこちらに来る回数は目に見えて減り

来てもすぐ帰るようになった。

よしよし。


夫はいつも田辺君に頼っているように思われるだろうが、そうではない。

我々とて、アレらに脅しで勝とうというつもりはない。

田辺君も我々も、できることならお互い一人の人間として理解し合い

円滑に仕事をしていきたいと思っている。

が、アレらが田辺君のテリトリーに近づくから、こうなってしまう。

水やりも施肥もしない自分の畑に作物が成らないからといって

人の畑の作物をくすねようとすれば、誰だって厳しい態度で接する。

それだけのことである。


ゲスは立ち直りが早いので何日持つかわからないが

その間、夫には英気を養ってもらう。

ともすれば夫を罠にかけて追い落とし、自分が采配を振るおうとする彼の野心から

夫を遠ざける時間は必要だ。

その時間を捻出してくれる田辺君には、いつも感謝している。


夫がどんなに情けなくて悔しいか、私にはよくわかる。

そりゃもう、痛々しい。

夫が松木氏、あるいは藤村にやられていることは

その昔、夫が私にやっていたことだからである。

夫が松木氏の役で、親が本社の役。

顔ぶれが入れ替わっただけで、やってることは同じさ。

ははは。


愛人と再婚したい夫は、私を追い出すためにせっせと親に告げ口をした。

他に男がいる…実はギャンブル狂…などの荒唐無稽な内容だ。

それで親が怒り狂い、私を叩き出してくれれば夫の野望は達成する。

そして親の方は、我が子の話を鵜呑みにし、厳しい言葉で私を責めたものである。

夫の話の真偽も、私の潔白も問題ではなかった。


悪人をこしらえるのは簡単だ。

一人が言い出し、もう一人がそれを信じて賛同すればいい。

勧善懲悪の名目で疑惑の目を向け、心ない言葉で傷つける行為が

さも正しいことのように行われる。

悪を正し、教え導くため…もっともらしい理由を付けて

人は刑を執行したがるものだ。

絶好の暇つぶしとストレス解消になるからである。


私は何十年、それを経験して生きてきた。

報われることの無い暗くて長いトンネルは、なかなか慣れるものではない。

それがいかに無駄な苦しみか、私は知っている。

この苦しみで学習したのは、人間の奥底なんて、こんなもんさ…

ということだけで、たいした収穫は無い。

時間がもったいないので、体験しない方がいい。

すでにそれを体験させる人と出会ってしまったのだから、もはや致し方ないが

夫に対しても心からそう思っている。


ともあれ松木氏や藤村のように

人に無駄な苦しみを与えるのがライフワークの人はいるものだ。

我々の後にも、本社と合併した会社は複数あり

その中の幾つかは、トップが首を切られて本社の直営になった。

原因は明らかにされていないが、私が見たところ

高齢になってから中途採用され、本社から送り込まれた彼ら…

スパイという名の犬が原因だと思う。


経営が立ち行かなくなり、合併するしかなくなった会社には

それまで社長さん、社長さんとチヤホヤされていた人たちがいる。

合併と同時に送り込まれた犬に、あること無いこと告げ口され

そのたびに本社から疑われ、責められる日々なんて、人生初の体験だろう。

たいていの人はプライドがズタズタになって、おかしくなる。

やがてキレて本社の機嫌を損ね、お払い箱になるのは時間の問題だ。


それこそが、犬たちの目的。

揉ませていれば自分は安全、さらに良いことまで起きるかもしれない。

切られたトップの代わりに、犬が責任者になれる可能性が出てくるからだ。

事実、松木氏がうちと同時に担当中の生コン工場は

合併してほどなく、社長と本社が揉めた。

うちが合併した直後にそこの合併だったので、よく覚えているが

社長夫婦はクビになって工場は本社直営になり

責任者を決めることになった。


本社から遠い場所なので、暇そうな犬を行かせるしかない。

そこでうちの担当犬、松木氏が選ばれ、工場長として回された。

うちで仕事ができないので、肩書きを褒美に飛ばされたのだ。

給料は変わらずとも肩書きはもらえるので

犬としては出世した錯覚をおぼえ、嬉しそうだった。


本社もまた、それでいいのだ。

合併してやった会社なんて、しょせん彼らのオモチャ。

そこで彼らの犬が、どんな悪さをしようと構わない。

揉めれば、暇つぶしのネタが増えるだけだ。


そんな中、うちが合併後も12年続いているのは

生き馬の目を抜く本社の中で、一番情に厚い河野常務の恩恵と

夫の忍耐力の賜物。

加えて嫁と継子を経験しているため、本社の心境が読める私の立ち回りも

少しは貢献したのではないかと勝手に自負している。


そうまでして会社を続ける意味があるかどうかと問われれば、無い。

それとは、別問題なのだ。

せっかく合併しながら、本社の機嫌を損ねて早々にクビになれば

「乗っ取り屋に騙されて何もかも奪われたあげく、追い出された」

みっともないので、結局はそう弁解することになる。

くだんの生コン工場の社長夫婦も、そうだった。


少なくとも私は、夫をそのような立場にしたくなかった。

意地もあったが、当時、病気の義父がまだ生きていたというのも大きい。

おバカなヒロシが騙されて…という、夫家の伝統かつ安定の結果では

父親の負債を押し付けられた夫が、あまりに気の毒じゃないか。

おバカなヒロシでもちゃんとできるところを

一回ぐらいは見せてから、あの世へ行ってもらわないと

義父はどうでもいいが、夫に悔いが残ろうよ。


とりあえず10年持ちこたえれば、騙されて奪われたことにはならない。

倒産寸前で助けてくれた本社や、河野常務にも義理が立つ。

その10年が過ぎ、はや12年だ。

状況はさほど変化してないものの

気持ちだけはオマケ気分というところである。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・5

2022年07月12日 09時29分58秒 | シリーズ・現場はいま…
松木氏はあんまり来なくなりました…チャンチャン

で終わろうとした矢先、彼に不運が訪れる。

本社から、ある取引先との値上げ交渉を任されたのだ。


その取引先、S物産は都市部にある。

義父の時代から何十年も親しくしてきた所で、本社と肩を並べるランクの大手だ。

取引額は大きく支払いは確実、将来性も盤石な優良取引先。

ただし問題が一つ。

任侠系なので、付き合うのが難しい。


売り上げを上げるという名目で、うちの取引先をつつき回し

美味しい所を奪いたがるのは本社の趣味みたいなものだ。

それが目的でうちと合併したわけだが

河野常務ですら、このS物産には手を出せなかったため

合併以後も変わらず夫が担当していた。

お互いに先代からの付き合いなので気心が知れており

夫の親友である田辺君がS物産の営業マンだったこともあって

S物産は合併の憂き目に遭った夫に何かと配慮してくれ

ありがたい取引が続いていたのだった。


しかし藤村がこちらへ着任して数年後、彼は自分がS物産を担当すると言い出した。

ここを手中に収めれば、本社で株が上がると踏んだからである。

藤村はS物産に乗り込み、それまでの契約内容を更新した。

新たな契約では単価が安くなり、こちらの利益は激減。

無知な彼らしい、見事な成果である。


藤村は、S物産にからかわれたのだ。

巧妙な揺さぶりをかけられ、うっかり値下げに応じてしまった。

今までより安値で納品してくれるとなれば、誰でも喜んで契約してくれる。

もちろん、この裏には田辺君と夫がいた。

業界のことなど何も知らない藤村が

無茶な契約をして上から怒られればいいと思っての、いたずら心だった。


しかし本社は、結果よりも藤村の勇気を讃え

これから徐々に食い込んで行けばいい、と器の大きさを見せた。

自分たちが接触しなくて済むのなら、それに越したことはないからだ。

そして当の藤村は遊ばれたことも知らず、夫から取引先を奪ったことに…

それが泣く子も黙るS物産であることに有頂天だった。

以後のS物産は夫の手を離れ、本社営業部との直接取引に変更された。


ほどなくS物産では、専務と常務による跡目争いが勃発し

常務が社長に就任するという出来事があった。

専務派に付いていた田辺君は、敗れた専務と共に退職して別の同業者に転職した。

追われたわけではなく、勝負の敗者は速やかに去るという任侠の掟によるものだ。

やがて藤村もパワハラとセクハラで降格処分を受け

ただの走り使いになったので、S物産の担当から外れた。


その間もS物産と本社の取引は、藤村の結んだ契約単価のまま

依然として続いていた。

続いていたというより、放置されていたという方が正しい。

こちらから奪って本社の直取引にはしたものの

誰もS物産を担当したがらないからである。


しかしここにきて、物価が高騰。

商品の仕入れ価格も値上がりが著しく

藤村が数年前に契約した安い単価では、月にわずか数千円の利益しか無くなった。

このまま高騰が進めば、赤字だ。

本社は、S物産との値上げ交渉が必至となった。


が、猫の首に鈴をつける役なんて、誰もしたくない。

値上げの話をしに行こうと言う者は、本社にいなかった。

奪っておきながらカッコ悪いので、今さら夫にも頼めない。

そこで白羽の矢を立てられたのが、松木氏。

河野常務は松木氏を昼食に誘った時、この大抜擢を伝えたのだった。


人選は的確だ。

我々を蹴落としてまで本社に媚びる松木氏だが、向こうは違う。

66才の高齢就業、年金満額受給中の彼なら、明日解雇してもノープロブレム。

ヤバくなったら切ればいい、どうなってもいい男…

それが松木氏なのだ。


常務からS物産との値上げ交渉を任された松木氏は、激しく後悔したと思う。

のんきに昼寝どころではなくなり、寝られないのならうちへ来る必要も無く

どこかでクヨクヨと悩んでいたのだ。


もう一つの担当である工場に居れば、こんなことにはならなかった。

昼寝がしたいばっかりに、こちらのことが何かと気になるふりをして

毎日通い始めたのが運の尽き。

「そんなに気になるのなら、前任だった藤村の代わりにS物産を担当しろ」

そういうことにされてしまったのは、聞かなくてもわかる。


約1週間後、意を決した松木氏はS物産に電話をして

あちらの営業マンと話をした。

が、ほどなく玉砕。


S物産の営業マンは激しい口調で言った。

「何年も音沙汰無しで、電話をかけてきたと思えば値上げとは何だ。

寝言を言うな」

電話は切られ、為すすべもない松木氏だった。


S物産の営業マンは、会社に来ようともせず

電話一本で値上げの話をした松木氏に憤慨し、先輩だった田辺君にこのことを言いつけた。

松木というオッさんの頭は、どうなっているのか…

営業を出せと言うから自分が出たら、いきなり値上げの話をして希望の単価を言った…

はあ?と聞き返したら、自分は次長だと言い出す…

うちを相手に、いい度胸だ…。


任侠系は、礼儀に厳しい。

面識の無い人間は、まず先方にアポを取って会社を訪問し

いったん挨拶を済ませてから、改めて後日、本題に入らなければならない。

ましてや値上げの交渉を電話で済ませようとするなんぞ

バカにしていると思われても仕方がないのだ。


田辺君はこの話をたいそう喜び、さっそく松木氏に電話をした。

「S物産で、やってくれたそうじゃないの。

あんた、自分がどうなるかわかってんの?」

「え…」

「電話一本で値上げせぇじゃことの、よう言うてくれたもんじゃのぉ」

松木氏の行いは、夫の口から田辺君に伝わっているので容赦ない。


が、松木氏にコトの重大性がわかるはずもなく

ビビッた時はいつもそうするように、冗談ぽく茶化した。

「年寄りをいじめんといてくださいやぁ」


これがいけなかった。

「何じゃ〜?これからそっち行ったろうか?

ワシの古巣でナメた真似しやがって、タダで済む思よんか!」

「すみません…すみません…

僕も66で…年なんで…年寄りと言っただけで…」

「次長じゃの何じゃのと威張りくさっといて、こういう時だけ年寄りか」

「いや、僕はそんなつもりは…癌をやった病人だし、大目に見てください…」

「今度は病人か、次長じゃなかったんか」

「すみません…すみません…」

「年寄りで病人なら、はよ辞めて隠居せえ!」


これでしばらくはおとなしくなるかもね…

夫にこの件を報告しに来た田辺君は言った。

しかし藤村と同じく学びの無い人種であるから

あまり長くは持たないことは彼も知っている。

「また調子に乗ったら、知らせてね」

彼はそう言って帰った。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・4

2022年07月10日 11時25分00秒 | シリーズ・現場はいま…
安倍元総理の銃撃事件、びっくりしましたね。

いち国会議員に戻られて、少しは平穏に過ごしておられるのかと思いきや

まさか凶弾に倒れて亡くなられるなんて、あんまりです。

日本に必要な方でした。


過去に要人を襲撃する事件は数々起きていますが

今回も“安定”の、逆恨みによる単独犯という結末で

終わってしまうのでしょうか。

本当に残念で、悲しい出来事でした。

安倍元総理のご冥福を心からお祈り致します。




さて、次男のことを綴った松木メモは、次男本人が発見した。

松木氏が寝ているので、息子たちも社員も

始業と終業の時しか事務所に入らなくなっている。

事務員のトトロも、松木氏が来て寝るようになってからは気まずいのか

体調不良ということで休みがち。


しかしある日の昼下がり、取引先に提出する書類が必要になった次男は

ダンプを降りて事務所に入った。

松木氏はいつものように、ソファーで爆睡中。

傍のテーブルには書きかけのメモが放置されている。


次男は松木氏のあられもない寝姿と、テーブルのメモをそっと撮影。

父親が彼のことで苦しんでいるのを知っていたので

念のために証拠写真を残そうと考えていた次男にとって、良い機会だった。

で、ダンプに戻り、画像を確認したら自分の悪口だったというわけ。


喫煙を見られた長男を避けるあたりは、いかにも松木氏らしい。

私に似て気性の激しい長男は、以前から松木氏の苦手分野。

苦手というより、完全に避けている。

かたや夫や次男のような、愛想が良くて友好的な人間は

自分に迎合していると思い込み、残酷な仕打ちを試みる。

ゲスの特徴である。


夕方、帰宅した次男が画像を見せてくれた。

メモにはタイトルが付いている。

「ヨシキは嘘つき」。

その下には、粘着質な細かい文字がびっしりと並んでいて

メモというよりレポートだ。


経費を勝手に使い過ぎる…自己中心的な発言で社内の和を乱す…

遅刻、早退、ズル休みが多い…それをごまかすために嘘をついている…

調査が必要…。

松木氏はこれを書いている途中で、再び眠り込んだらしい。


これを見た私は最初、松木氏が自分の反省文を書いているのかと思った。

しかしタイトルに次男の名前が呼び捨てで書いてあるので

やっぱり次男のことみたい。

捏造を通り越し、もはやドラマのシナリオ。


腹は立たない、いや、立てないようにしている。

今回は文字になっているので、何やら新鮮な気分がするものの

彼の頭の中は、いつもこのような言葉でいっぱいである。

日中の大半を寝て過ごすようになったので

「何か書いて仕事しました〜!」という、自分の納得する形が欲しいのだ。


藤村もそうだったが、彼らは今までにも我々家族について

似たような内容を口頭で本社に伝えては

本社に誤解や疑念を抱かせるよう立ち回ってきた。

うちの男どもはいざ知らず、私までいちいちカッカしていては冷静な対処ができない。

平常心を保ち、対応を考える…それが私の仕事だと思っている。


なぜ、松木氏はこんなことをするのか…せずにはいられないのか

理解に苦しむ方もおられよう。

私も最初の頃は理解に苦しんだクチ。

が、彼との付き合いも12年、だいたいのことはわかった。

仮に本社の名称を“鈴木工業”ということにして説明すると

彼らのように50を過ぎて本社営業部に中途採用され

安い給料と実態の無い肩書きを与えられて合併先に送り込まれる人々は皆

“鈴木デビュー”だからである。


仕事が続かず職を転々としてきた彼らは、仕事の仕方や職場での心構えを知らない。

あちこちで働いて身につけたのは、口だけだ。

いかに楽をするか、いかに人の足を引っ張るかを日々考えていれば

鍛えなくても嘘はうまくなる。

だからどこへ行っても嫌われ、転職を繰り返すしかなかったのだ。


どこへ再就職しても新人のペーペーからスタートだったのが、本社は違った。

彼らの過去はいきなり、大袈裟な肩書きでロンダリング。

密かに抱いてきた劣等感は、払拭された。

古いスーツを引っ張り出してネクタイを締め、課長でござい、所長でござい、次長でござい…

これぞ彼らが長年望みながら叶わなかった、初めての環境だ。

それが鈴木デビュー。


が、知ったかぶりはうまくても、仕事の仕方は知らないままなので

失敗続きは当たり前。

クビや肩書きの剥奪を恐れた彼らは、焦る。

デビューの遅い者は厚かましい態度と裏腹に、内心は大変な怖がりである。

そこで仕事を頑張ればいいものを、得意の破壊に走るのは順当な道筋だ。

周囲の足を引っ張り、そちらに目を向けさせることで

自分は楽に生き延びようとするのである。



話は戻って、松木メモを見た次男は、重機の中にいた夫に画像を見せた。

次男が言うには、それを見た夫は顔色が変わったそうだ。

すぐさま寝ている松木氏の所へ行き、怒鳴った。

「会社で寝るな!」


松木氏は、驚いて飛び起きたという。

「来客に恥ずかしい!眠たいんなら家で寝やがれ!」

寝起きでポカンとしたままの松木氏。


夫はメモの件にも触れた。

「ゴチャゴチャいらんことばっかり書きやがって!

こんなモン書く暇があったら仕事せえ!」

松木氏は夫の剣幕に驚き、慌ててどこかへ行ってしまった。

これを見た次男は、スッとしたと言う。


「さすがパパ!」

話を聞いた私は、夫を褒めちぎった。

怒りは時として、不可能を可能にするらしい。


翌日、松木氏は来なかった。

夫の剣幕に驚いたのもあるかもしれないが

昼寝の件に言及された今、もう寝られないので来ても仕方がないのだ。


しかし、さらに次の日。

河野常務が午前中に会社を訪れることになった。

松木氏は来ないわけにいかず、いつになく早めに出勤。

寝られなくて辛そうだったと、夫は後で言っていた。


常務の用事は、いつもの巡回と雑談。

手の空いた次男も参加したので、松木氏は気が気でなかっただろう。

夫はこの時、松木氏の前で常務に言った。

「本社では、終業報告というのが始まったんですね。

僕も毎日、松木さんに終業の報告をしてます」

朝、私と行った打ち合わせ通りだ。


常務は首をかしげる。

「終業報告?なんね、それ?終わったら帰りゃええが」

言いながら、松木氏をジロリと見る常務。

「おまえ、終業までここにおらんのか?どこ行っとんじゃ」

勘のいい常務なら、必ずこの点に気づくと思っていた。


「取引先に…」

モゴモゴと口走る松木氏。

「どこ行きよんか知らんが、熱心なことよのぅ」

そうだ…パソコンにメールが来ているはず…

独り言を言いながら、立ち上がる松木氏。


パソコンに張り付く松木氏を除いた3人は雑談を続け、やがて常務は言った。

「松木、昼メシ食いに行こうや」

「え…でも、私はこれから取引先に行く予定が…」

「相手も昼メシじゃわ」

松木氏は常務に連れ去られた。

夫を誘わなかったのは、松木氏に何か言うことがあったからだ。

常務が何を言ったかは知らない。


この日から1週間余りが経つ。

松木氏は2回しか来ず、来てもすぐ帰る…

と、このシリーズはここで終わるはずだったが、終われなくなった。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・3

2022年07月07日 10時37分00秒 | シリーズ・現場はいま…
放置を決め込んでいた、夫と松木氏の問題。

それを解決するべく、私は知恵を絞るのだった…

と言いたいが、知恵なんかいら〜ん。

「会社で寝るな」

夫が松木氏に、そう言えばいいだけだ。

卑怯者はビビリでもあるから、反撃の意思を明確に表せばおとなしくなる。

口の回らない夫だから、一発勝負で葬ろうなんて考えない方がいい。

別件からジワジワと追い詰める方が楽しいし、確実だ。


その前に、夫がまたもや痛恨のミスを犯しているのにお気づきだろうか。

「仕事が終わったら、毎日僕に報告するように」

松木氏から言われた時、何も言わなかったことだ。


「それは本社の指示?それとも松木さんの独断?」

これぐらいは、その場で聞くべきだった。

口が重たいし、松木氏がそこまでするとは思わなかっただろうから

すぐに言えないのはわかっている。

しかし後で苦しむのが嫌なら、言うしかないではないか。


嘘つきの彼は間髪入れず、涼しい顔で言うだろう。

「本社の指示だ」

そしたら彼の目の前で河野常務に電話して、確認を取ればいい。

松木氏の思いつきであることは即刻判明し、彼はおとなしくなる。


なぜ、松木氏の思いつきだと断定できるか。

夫に毎日、終業報告をさせるということは

終業時間の4時半、彼は毎日会社にいないことになるからだ。

言わば彼は、毎日早退していることになる。

終業時間まで会社に居れば、わざわざ終業を報告する必要は無いのだ。


夫の話によれば、松木氏は毎日3時半を回ると

おもむろに起き上がって事務所を出る。

「取引先に顔を出して、そのまま帰る」

口では毎回そう言うらしいが、彼が帰宅がてら気軽に立ち寄れる取引先なんか

一軒もありゃせん。

仕事をしないので、どこにも顔を知られていないからだ。


早退するのは、通勤路の問題に他ならない。

彼の自宅は車で小一時間の隣市にあり、主要道路に出れば一本道だ。

会社と彼の自宅の中間地点、隣市にさしかかる場所には大きな工場がある。

そこの終業時間も4時半。

この4時半から1時間ほどは、工場から帰る人や車で大混雑し

身動きが取れなくなるのを、この近辺で知らない者はいない。

松木氏は魔の時間帯にハマる前に、何としてもそこを通過しておきたい。

だから終業時間より早く帰らなければならないのだ。


本社の営業にタイムカードは無い。

前日に予定を入力しておけば、あとは営業部員各自の自主性に任されている。

つまり本当に仕事をしたかどうかをチェックする習慣は無いので

本社から遠く離れている松木氏の早退は発覚しない。

仕事をしない者に限って、こういう所はしっかり把握しているものだ。


また、終業報告の必要性は職種によって異なり、我々の業界ではさほど重要ではない。

それでも形式的に終業報告を行う場合は

歴然とした上司とその部下が、双方の納得ずくで行うことであり

どっちが上なんだかわからない目くそ鼻くそ同士が行っても意味が無い。


終業時間まで会社にいない目くそに、終わるまで働く鼻くそが

なぜ終業報告をしなければならないのだ。

意味わかんねぇ…と言いたいが、私にはわかるような気がする。

喫煙を目撃された彼は内心、かなりうろたえている。

ここらではっきりした身分差を示し、夫を押さえつけたいという稚拙な考えだ。


説明が長くなったが、そんなわけで

夫が河野常務に確認すれば、松木氏の勝手な早退は自然と明るみに出る。

多少のことには寛大な常務だが、それが毎日となると問題だ。

仕事の都合でたまにというのでなく、毎日ではあまりにも不自然。

元々良くない松木氏の印象は、地に落ちる。

仕事をしないヤツに限って自分の評判を気にするものなので

彼はビビるはずだ。


しかし彼は、夫が絶対にそんなことをしないとわかっている。

夫にとってチクリとは、松木氏や藤村のようなゲスの行為と思っているからだが

松木氏は、夫がパッパラパーだと思って安心しきっているのだ。

だから終業報告なんてつまらぬことを思いつく。

そして鼻くそ…いや夫は、目くそ…いや松木氏に終業の報告をするのが嫌で

会社を辞めたいと言い出したのだった。


だから私は夫にハッパをかける。

「寝るなって、ちゃんと言うんよ」

うん…と生返事の夫。

こりゃあ、よう言わんな。


勇気の問題ではないのだ。

夫のように厄介な性格の男というのがいるもので

乗り過ごした電車を追いかけて途中から乗るようなことを嫌がる。

つまり過ぎ去った現実を引きずり戻し、改めて仕切り直すのを嫌う。

それが些細なことであればなおさらで、それをするぐらいなら煮え湯を飲む方を選ぶ。

その場で反論しなかった夫は、松木氏の命令を受け入れたことになり

終業報告をするしかないのだ。


まあいい…ちゃんと言えるまでは自分のプライドをバキバキに折って

終業報告を続けるがいいさ…

と思っていた2日後、松木氏は新たな奇行を開始した。

睡眠から目覚めるたび、コピー用紙にせっせとメモを綴るようになったのだ。

「何を書きよんか思うてチラッと見たら、ワシのことじゃった…」

夫が平然と言うので、笑った。

何時何分に何をした…何時何分に来客、電話…その会話の内容…

言うなれば夫の観察記録さ。

笑っておきながらナンだが、はなはだ失礼なことである。


松木氏が何を企んでいるのか…わけわからん夫は、またもやスルー。

見つけた時に言えっちゅうんじゃ!

松木氏は終業報告では飽き足らず、夫をさらに締め上げて

自分の立ち位置を盤石にしたい模様。

一挙一動をメモられたら、夫が萎縮すると考えているのだ。


私だったら迷わず松木氏に乱暴をはたらくだろうが

若い頃から注目されるのに慣れている夫は、終業報告ほどの衝撃を感じてない。

むしろ余裕。

こういうことする社員は昔、義父の会社にもいたので

初めてじゃないからかも。

そうそ、私の実家でもいた。

ある日、その人がメモを忘れて帰ったので

翌朝「忘れ物だよ」と言って本人に渡したら、青くなった…

父がそう言って笑ってたのを思い出したわ。


ともあれここまでくると、大らかなんだか鈍感なんだか

平気でいられる夫をもはや尊敬してしまう。

夫のそういう面が強運を呼ぶのかもしれないとは、常々思っているのだ。

何か面倒が起きると、いつもどこかから解決の風が吹く。

血祭りじゃ〜!なんて息巻く私と違うのは、こういう部分かもしれない。


それからさらに数日後、夫の平然は終了した。

くだんの松木メモが、夫だけでなく次男のことにまで及んでいたからだった。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い2

2022年07月06日 14時48分05秒 | シリーズ・現場はいま…
シュウちゃんの退職のことで色々とあった6月。

しかし同じ6月、夫は全くの別件で真剣に悩んでいた。

原因は、松木氏である。


夫より一つ年上の彼は、66才。

6年前までこちらに居たが、仕事ができないので別の工場に飛ばされ

その後任が昼あんどんの藤村だった。

大嘘つきの松木氏がいなくなってホッとしたのも束の間

我々一家は悪夢のような年月を過ごす羽目となる。

しかし藤村はパワハラとセクハラで訴えられて降格処分になり、本社に戻された。

そのため松木氏が、飛ばされた工場とこちらの二ヶ所を担当することになった。


営業所長だった藤村より上の、本社付き次長という肩書きをもらい

最初は張り切っていた松木氏だったが、すぐに飽きる。

工場にはこちらへ行くと言い、こちらには工場へ行くと言って

結局、どちらにもいないことが多かった。


とはいえ、どっちへ行っても嫌われ者。

仕事をせずに口だけ出すのは留守の方がありがたいので

所在を確かめる者はいない。

工場とこちらの中間地点にある自宅に居る…

工場の人たちと夫はそれぞれ、そう納得していた。

そして今年、肺癌の手術を受けた彼は、二ヶ所も担当する体力が無いと言い出し

主に工場の方へ出勤するようになった経緯がある。


その松木氏が6月に入ってから急に、毎日こちらへ来始め

長く滞在するようになった。

営業とは名ばかり、彼は本社のスパイとして送り込まれているのだから

それが仕事と言えばそれまでだが、彼がこちらで行う業務は睡眠。


夫が言うには朝、会社に着くなり、「しんどい」と言ってソファーに横になると

そのままグーグー寝てしまうそうだ。

会社で寝るのは前からで、彼の口癖は「眠たい」だったが

現在の睡眠時間は、その頃よりもずっと長くなっているようだ。


そして時折目覚めては、わけわからん指図をする。

今まで寝ていたのだから、わけわからんのは当たり前であるにもかかわらず

あれこれと見当違いのことを言い出すらしい。

正気なのか寝ぼけているのか、わからないと夫は言い

もはや感じが悪いという段階ではなく、狂人と一緒にいるようで

とにかく不気味なんだそう。


「病気なんだから、眠たいのは仕方がない」

「おかしなことを言い出すのは、抗癌剤の副作用」

夫は自分に言い聞かせ、耐えていた。

彼は、松木氏が近いうちに退職すると思っていたからだ。

松木氏本人が言うように、肺癌の手術をして抗癌剤を投与中となれば

たいていはそう思うだろう。


私もそう思っていた。

だから具体策を考えるのが面倒で

先はそう長くないだろうから、もう少しの辛抱だ…

などと適当なことを言っていた。


寝るのが気に入らなければ、最初に寝た時に文句を言えばよかったのだ。

こういうことは初動が肝心。

それを怠っておいて、習慣化した後で何とかするとなると

けっこう厄介なものだ。

病人を鞭打つのも夢見が悪いため

松木氏が体力の限界を感じて身を引くまで、放置する方がよかろう…

私はそうタカをくくっていたのだった。


しかしそれは、希望的観測だったかもしれない。

ある日の昼休み、いつになく町の食堂に入った長男は

そこでタバコを吸っている松木氏と出くわした。

松木氏は長男の姿を見ると、急いで火を消したという。


こうなると本当に肺癌だったのか、怪しくなってきた。

入院して手術をうけたのは本当だが、病名を盛っているのではないのか。

周りには病気だと言って優しさを求め、たっぷり睡眠を取りながら

いつまでも勤め続けるつもりであれば、いかにも彼らしい。


急にうちへ通い始めたのは、工場よりも眠りやすいから。

工場の事務所は人数が多い上に、激しいアンチ松木の社員が複数人いて

とても寝ることはできない。

それでこっちを選んだのだ。

お昼寝の合間に意味不明の指図をするのは、働いてますアピール。

それで仕事をしている気になれるのが、本来の松木氏だ。


ともあれ長男に喫煙を見られてからの松木氏は、かえって居直った模様。

翌日、夫にこう言ったという。

「仕事が終わったら、僕に毎日報告するように」


この時点で限界が来たのは松木氏でなく、夫のほうじゃった。

精神的にかなりこたえたらしく

「仕事、辞めてもいいかな…」

と言い出した。

「いいよ!今までありがとう!」

私は即答。

内心では、あんたの母親をどうやって養うんじゃ…と思っている。

が、ひとまず軽く肯定してやると、気持ちは落ち着くものだ。


夫の受けた衝撃は、人にはわかりづらいかもしれない。

企業と合併した、小さい会社の責任者…

そんな妙な立場の人間は、そうたくさんいないと思うからだ。


合併したとはいえ、夫は責任者である自分の上だと思っている。

一方の松木氏は、本社直接雇用の自分の方が上だと思っている。

言うなれば子会社の社長と、親会社から配属された社員…

どっちが上かというファジーな問題なのだ。


けれどもこのたび、松木氏の放った「報告」の二文字によって

夫の方が下だと決めつけられた。

報告をする方と受ける方…この二者では

後者の方が上ということになってしまうではないか。

怠け者から偉そうに、そう言われた…

夫には、これがショックなのだった。


夫が辞めたいなら、仕方がないと思う。

彼の給料がパーになるのは残念だが、ストレスを溜め続けて早死にされるより

長い目で見たら、長生きして年金をもらい続けた方が得策だ。

が、私にも言いたいことがある。

「先に辞めるべきは松木氏であって、夫ではない」。

ここで私はようやく重い腰を上げ、松木氏の問題について真面目に考えることにした。

《続く》
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現場はいま…それぞれの想い・1

2022年07月03日 11時11分19秒 | シリーズ・現場はいま…
ブログを始めて5000日が過ぎたことをお知らせしたら

たくさんの方(私にとっては…よ)がコメントを寄せてくださった。

どうしていらっしゃるかな?と思っていた方々のお声も聞くことができて

本当に嬉しかった。

ありがとうございました。



さて、私のいる建設業界や会社について語る、“現場はいま…”シリーズは

この過疎ブログの中で、おそらく一番人気。

とはいえ、こんな話はどこにでも転がっているものだ。

相手によって態度を変えるヤツ、根性曲がりのひねくれ者

怠け者にヒステリー、嘘つきや口だけ番長…

ほら、あなたの職場にもいるだろう。


しかし現役で働く人は、会社の出来事を文章にする暇が無い。

一方、私には暇があるので、重箱の隅をほじくり返してチマチマと書ける。

起きたことをそのまま文章にすればいいので、作業は楽で楽しい。

女の私が描く、男中心の業界もさることながら

楽しんで走らせる筆の軽やかさにも共感をいただいているのではないかと

おこがましくも思っている次第である。



さて、現場は今、新人マルさんの入社が遅れている。

なぜなら74才の高齢を理由に本社から肩叩きをされた社員、シュウちゃんの引退が

半月延びたからだ。


7月の誕生日を迎えると、シュウちゃんは75才になる。

後期高齢者を雇用し続けているという外聞を嫌った本社は

それまでに彼を解雇したがっていた。

よってシュウちゃんは6月末日、つまり74才のうちにダンプを降り

7月下旬の誕生日が来るまでに有給休暇を消化して終わる予定だった。


しかし彼は月に一度、身体の不自由な奥さんを病院に連れて行く以外は

滅多に休まないので、有休がたくさん残っていた。

勤勉で実直なのも確かにあるが、彼の場合、有休のシステムをよく知らないのもある。


というのも、若かりしシュウちゃんが

ダンプ乗りとして初めて就職したのが義父の会社。

当時のダンプ乗りは日給制が当たり前で

有休はおろか社保厚生年金とも無縁の境遇だった。

なぜなら彼らの働く職場の大半は会社組織でなく、個人事業所。

つまり個人経営の商店だったため

有休や社保厚生年金のシステムなど存在しなかったのである。


当時の義父も社長と呼ばれはしていたが、実態は個人商店の店主。

規模から言えば会社組織にしてもおかしくない状況だったが

田舎町で細々とやるなら、会社組織でなく個人事業所の方が断然儲かる時代だった。

また、その頃は建設業界全体が忙しくなり始めた時期で

雇われる方も、やればやるだけ現金収入になるので文句は出なかったため

義父だけでなく同業者も個人事業所のまま経営を続けていた。


義父が代表取締役になって会社組織にしたのは、私が嫁いだ42年前。

一念発起ではない。

法律が変わって、個人事業所のままでは公共事業に参入できなくなったため

会社組織への変更を余儀なくされただけである。

会社になっても社員の給料は日給制のままだったが

この時点で有休や社保厚生年金が付いた。

しかしその頃にはシュウちゃんは辞めていて、よそのダンプ乗りになっていた。


以後のシュウちゃんは福利厚生に無頓着なまま、ダンプ一筋に働き続け

68才で再び、うちへ戻ってきた。

最初の就職で存在しなかったものは、今も存在しない…

シュウちゃんの頭の中ではそういうことになっている。

だから奥さんを病院に連れて行く日は、夫が有休取得の申請書を代筆する。

合間で有休を取るように言うこともあるが、休みたがらないので

タイミングを見て無理に休ませることもある。

彼は休みを取らせるのに説得が必要な、レア社員なのだ。


そういうわけで、シュウちゃんの有休は有り余っている。

これを消化していたら、75才の誕生日を過ぎて8月になってしまう。

そのため、シュウちゃん引退への情熱を急激に失った本社は

「有休を消化するうちに75才になってしまうのだから、急ぐことはない」

と言ってきた。

7月から入社するマルさんとダブってもかまわない…

暑い時期だし、引き継ぎでもしながらゆっくりさせてやってくれ…

という河野常務の補足も付いた。


そのことをシュウちゃんに伝えたが、彼は喜ばなかった。

「辞める話になってからは、やっぱり年かの…

身体がしんどうなったけん、迷惑かけんうちに辞める。

この会社からスタートして、この会社で終われて、ワシは満足よ。

初めて新車に乗らしてもろうて、嬉しかった。

あのダンプにマルさんが乗ってくれたら、安心して引退できる」


そういうわけでシュウちゃんには

本社の事務処理上、給料の締め日でキリのいい7月15日まで働いてもらい

以後は有休消化に入ることとなった。

よって6月末日でM社を退職したマルさんは

シュウちゃんが引退した翌日の16日から出社する。


最初の予定では7月1日からという話だったので

マルさんには1日から来るように伝えたが

彼はシュウちゃんがダンプを降りた翌日の16日を希望した。

これは、優秀なダンプ乗りの特徴と言えるかもしれない。

彼らは群れを嫌い、孤高を好む。

行ってみたら、まだ前任者がいるわ、引き継ぎがあるわ…

この状況に、おそらく耐えられない。


優秀なダンプ乗りは、引き継ぎという名の助走を必要としない。

日頃からダンプと道を知り尽くし、高い技術で全ての作業をこなせるので

入ったその日から戦力として走りまくる。

それはシュウちゃんも同じだ。

老兵は気高く去り、後を引き受ける者は静かに訪れる。

それが彼らの美学である…多分。


だからこそ、いつぞや藤村が入れた神田さんが

藤村と取引先を回ったり、二人でダンプに乗り込んであちこち出かけたりと

助走にチャラチャラと2ヶ月を費やしたのがどれほどバカバカしいことか

まともな者は皆、知っている。

つまらぬ者ほど、長い助走をしたがるものなのだ。

で、やっとこさ助走が終わったら、労基に訴えられたというオチである。


そういうわけで、入社が半月遅れたマルさんだが

現実問題、働く者にとって半月のズレは大きい。

本人の希望とはいえ、元はこちら側の都合が原因。

1日から入社していれば、月末には半月分の給料が出るはずだったのだ。

人に使われて働いてきた私には、よくわかる。

入社する日にちのズレによって、人が給料日でウキウキしてる日に

自分だけもらえないのは、わかっちゃいるけど何だかさえないものよ。


彼はバツイチの独り者なので、幸いにも迷惑をかける家族はいないが

M社のブラックな給料で、半月余計に生活するのはきついと思う。

しかし彼は、黙って水を飲んででも耐えるだろう。

その心意気こそが、良いダンプ乗りの証しである。


もちろん我々も、できることはする所存。

たいしたサポートはできないが、時々目立たないように

息子を使って昼ごはんを奢ったりはできる。

向こうの方がよっぽど裕福かもしれないが、気は心だ。

《続く》
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