息子達の通った幼稚園は、私立の仏教系であった。
昔から行事が派手なことで有名だったが
私があえてそこを選んだのは、催しが好きだからではない。
町で唯一、給食とバス送迎があったからだ。
初めて役員になったのは、長男が年中クラスの時。
なり手が無いので、クジ引きで決まった。
が、途中で次男を妊娠。
周りの人がカバーしてくれて、ほとんど働かずに終わった。
3年後、次男が入園。
翌年、やはりクジ引き制度で役員になったが
その他大勢の一人としてチャラチャラしているうちに終わった。
そして次男は年長クラスになった。
またクジ引きで役員が当たってしまう。
ま、いいか、去年もやったし…とタカをくくっていたら大間違い。
年長クラスの役員は、会長以下三役を決めなければならなかった。
緊迫した空気の中
「会長だけは嫌なので、責任の少ない役に立候補します」
という合理的な理由により、副会長と会計が決定。
残った者でジャンケンをすることになり、私は負けた。
会長、決定。
この幼稚園は行事が派手なだけでなく、頻繁だ。
そして行事の大半に、役員の料理が登場する。
幼稚園を運営するお寺には、古くから
「功徳膳」や「おふるまい」の習慣があるからだ。
料理をする機会は毎月あり、行事によって数十人から数百人分を作る。
役員は15人、アタマ数は充分だが
シロウトが大人数の調理と給仕をこなすのは大冒険。
父兄は皆、これを恐れて役員を敬遠するのだった。
毎月のお誕生会は夕食どきに行われ
園児とその家族で合計100人前後が招待される。
役員は午後から集まり、幼稚園の役員専用キッチンで
会食のオードブルとおにぎりを作る。
夏、年長クラスのお泊まり保育にはカレー
翌日は流しソウメン。
秋の敬老会には園児の祖父母を招待して、ちらし寿司や吸い物を出す。
冬にあるバザーでは、うどん、おでん、イカ焼き
ぜんざい、甘酒なんかを午前4時から作る。
必要な物は幼稚園が準備してくれるが、レシピは無い。
味付けは会長の仕事だ。
歴代の会長に、旅館の女将や大家族の嫁が多かったのは
このためだと初めてわかった。
ここは「責任重大!」とおののいて見せたいところだが
私でもどうにかなるような気がした。
夫の家では年に何回か、社員や友人知人を20人ほど招いて
宴会をするのが恒例行事。
食事どきの急な来客もしょっちゅう。
「お客をする」という行為には、多少慣れていたのだ。
お客をする上で肝心なのは、味より段取り。
それが私の主義。
取りかかりから配膳、片付けまでの時間配分がすべてだ。
お客に慌ただしさや大変そうな雰囲気を感じさせないのが
一番のもてなしだと思っている。
味の方はどうにかなる。
よそでいただくごはんは、誰でもおいしく感じるし
大量の食材を強い火力で調理すれば、量と火が味方してくれ
どうやってもそこそこの味に仕上がるので心配はない。
段取り主義は、幼稚園の料理にもうまく適合した。
加えて各自の役割分担を明確にし、集合時間を自由にした。
早い時間から全員集合をかけると、人があふれて動きにくい。
私一人でできることは、先に一人で行って済ませ
来たい者が好きな時間に来る方が、かえって仕事が早い。
副産物として、幼稚園伝統の大奥的ムードが無くなり
乙女の部活みたいになった。
役員が料理を出すという不思議習慣を嘆いたり
改革する気は全く起きなかった。
仲間の結束も楽しかったし、何より園児が喜ぶのが嬉しい。
どの子も行事を楽しみにして、全身で喜びを表わす。
それを見ると
「よしよし、ナンボでも喜ばしちゃるぞ!」
という気持ちになる。
行事は他にもある。
花祭、筆供養などの仏教関係、七夕祭、運動会
クリスマス会にお遊戯会…
それらの準備と後片付けだ。
日本古来のフライパン的調理器具、ホウロクを使って
豆まきの豆も炒る。
プールや遊具のペンキ塗りなど、奉仕活動もある。
クリスマス会では、園児に配るお菓子の袋詰めをした後
お楽しみが待っている。
変装して、園児全員にお菓子をプレゼントするのだ。
「誰かのお母さんだとわからないように、メイクしてください」
幼稚園の要望を聞いた15人の役員は張り切り
全員、白塗りのバカ殿ふうメイクをした。
この頃になると、役員達にも私の芸人魂が感染しており
ニヤつきながら顔を差し出す。
みんなを白塗りにし、そこでやめときゃいいものを
マブタに目玉を描いた。
目を閉じたら、別の目玉が現れる仕掛けだ。
これは非常に怖かったらしく、激しく泣き叫ぶ子供、続出。
先生達の当惑をよそに、大満足した一同であった。
「卒園式が来なければいいのに…」
役員一同は口々にそう言ったが、来るものは来る。
楽しかった一年は終わった。
23年前のその年は、次男の幼稚園の会長をやりながら
長男の小学校の役員もしていた。
さらにどうしたことか、子供会の役員と
ママさんバレーのキャプテンの順番が回ってきていた。
全部ひっくるめても、家事よりずっと楽だった。
幼稚園の台所から見上げた未明の空を
今でも時々思い出す。
家族に役立たずと呼ばれて久しかった。
家ではこのていたらくでも、外ではそうでもないらしいと知った。
「私、生きてていいのよね?」
そう問いかけたら、星々がウィンクで答えてくれた…
ような気がした、あの空である。
昔から行事が派手なことで有名だったが
私があえてそこを選んだのは、催しが好きだからではない。
町で唯一、給食とバス送迎があったからだ。
初めて役員になったのは、長男が年中クラスの時。
なり手が無いので、クジ引きで決まった。
が、途中で次男を妊娠。
周りの人がカバーしてくれて、ほとんど働かずに終わった。
3年後、次男が入園。
翌年、やはりクジ引き制度で役員になったが
その他大勢の一人としてチャラチャラしているうちに終わった。
そして次男は年長クラスになった。
またクジ引きで役員が当たってしまう。
ま、いいか、去年もやったし…とタカをくくっていたら大間違い。
年長クラスの役員は、会長以下三役を決めなければならなかった。
緊迫した空気の中
「会長だけは嫌なので、責任の少ない役に立候補します」
という合理的な理由により、副会長と会計が決定。
残った者でジャンケンをすることになり、私は負けた。
会長、決定。
この幼稚園は行事が派手なだけでなく、頻繁だ。
そして行事の大半に、役員の料理が登場する。
幼稚園を運営するお寺には、古くから
「功徳膳」や「おふるまい」の習慣があるからだ。
料理をする機会は毎月あり、行事によって数十人から数百人分を作る。
役員は15人、アタマ数は充分だが
シロウトが大人数の調理と給仕をこなすのは大冒険。
父兄は皆、これを恐れて役員を敬遠するのだった。
毎月のお誕生会は夕食どきに行われ
園児とその家族で合計100人前後が招待される。
役員は午後から集まり、幼稚園の役員専用キッチンで
会食のオードブルとおにぎりを作る。
夏、年長クラスのお泊まり保育にはカレー
翌日は流しソウメン。
秋の敬老会には園児の祖父母を招待して、ちらし寿司や吸い物を出す。
冬にあるバザーでは、うどん、おでん、イカ焼き
ぜんざい、甘酒なんかを午前4時から作る。
必要な物は幼稚園が準備してくれるが、レシピは無い。
味付けは会長の仕事だ。
歴代の会長に、旅館の女将や大家族の嫁が多かったのは
このためだと初めてわかった。
ここは「責任重大!」とおののいて見せたいところだが
私でもどうにかなるような気がした。
夫の家では年に何回か、社員や友人知人を20人ほど招いて
宴会をするのが恒例行事。
食事どきの急な来客もしょっちゅう。
「お客をする」という行為には、多少慣れていたのだ。
お客をする上で肝心なのは、味より段取り。
それが私の主義。
取りかかりから配膳、片付けまでの時間配分がすべてだ。
お客に慌ただしさや大変そうな雰囲気を感じさせないのが
一番のもてなしだと思っている。
味の方はどうにかなる。
よそでいただくごはんは、誰でもおいしく感じるし
大量の食材を強い火力で調理すれば、量と火が味方してくれ
どうやってもそこそこの味に仕上がるので心配はない。
段取り主義は、幼稚園の料理にもうまく適合した。
加えて各自の役割分担を明確にし、集合時間を自由にした。
早い時間から全員集合をかけると、人があふれて動きにくい。
私一人でできることは、先に一人で行って済ませ
来たい者が好きな時間に来る方が、かえって仕事が早い。
副産物として、幼稚園伝統の大奥的ムードが無くなり
乙女の部活みたいになった。
役員が料理を出すという不思議習慣を嘆いたり
改革する気は全く起きなかった。
仲間の結束も楽しかったし、何より園児が喜ぶのが嬉しい。
どの子も行事を楽しみにして、全身で喜びを表わす。
それを見ると
「よしよし、ナンボでも喜ばしちゃるぞ!」
という気持ちになる。
行事は他にもある。
花祭、筆供養などの仏教関係、七夕祭、運動会
クリスマス会にお遊戯会…
それらの準備と後片付けだ。
日本古来のフライパン的調理器具、ホウロクを使って
豆まきの豆も炒る。
プールや遊具のペンキ塗りなど、奉仕活動もある。
クリスマス会では、園児に配るお菓子の袋詰めをした後
お楽しみが待っている。
変装して、園児全員にお菓子をプレゼントするのだ。
「誰かのお母さんだとわからないように、メイクしてください」
幼稚園の要望を聞いた15人の役員は張り切り
全員、白塗りのバカ殿ふうメイクをした。
この頃になると、役員達にも私の芸人魂が感染しており
ニヤつきながら顔を差し出す。
みんなを白塗りにし、そこでやめときゃいいものを
マブタに目玉を描いた。
目を閉じたら、別の目玉が現れる仕掛けだ。
これは非常に怖かったらしく、激しく泣き叫ぶ子供、続出。
先生達の当惑をよそに、大満足した一同であった。
「卒園式が来なければいいのに…」
役員一同は口々にそう言ったが、来るものは来る。
楽しかった一年は終わった。
23年前のその年は、次男の幼稚園の会長をやりながら
長男の小学校の役員もしていた。
さらにどうしたことか、子供会の役員と
ママさんバレーのキャプテンの順番が回ってきていた。
全部ひっくるめても、家事よりずっと楽だった。
幼稚園の台所から見上げた未明の空を
今でも時々思い出す。
家族に役立たずと呼ばれて久しかった。
家ではこのていたらくでも、外ではそうでもないらしいと知った。
「私、生きてていいのよね?」
そう問いかけたら、星々がウィンクで答えてくれた…
ような気がした、あの空である。