本社に中途採用されて数年後
新しい会社の専務に抜擢された昼あんどんの藤村。
当面、週の半分は新しい会社のある大阪
もう半分はこちら広島に滞在することが決まり
新しい名刺を作って有頂天だった。
夫は、彼の昇進を心から祝福した。
行く所が無いので毎朝我が社に来て
昼までタラタラする、暇な藤村…
何も知らないのに仕事を牛耳ろうとして
滅茶苦茶にしてしまう、迷惑な藤村…
誰よりも遅く入社しながら、兄貴気取りで
うちの息子たちを呼び捨てにする、横柄な藤村…
高校球児だったのが自慢で
話すことといったらそれしかない、退屈な藤村…
その彼が、たとえ週の半分でも消えてくれるのは
夫にとって誠にめでたいことであった。
さて、夫の友人、田辺君をご記憶だろうか。
長い間、任侠系の建設会社に営業として勤めていたが
後継者争いで破れた専務と共に退職し
現在は別の建設会社に転職して、やはり営業をしている
玉木宏似のイケメンだ。
少し前、その田辺君が夫の所へ来て
大阪にある船舶関係の会社が
破格の安値で身売りしたがっている話をした。
しかしその会社には反社会的勢力が絡んでいて
利益を吸い上げている…
そのため使途不明金が莫大な額になり
経営不振に陥った…
経営者は一刻も早く会社を手放したくて
四国のブローカーを介し、買ってくれる会社を探しているが
軒並み断られている…
このブローカーというのが、これまた怪しげな人物で…
黒い話は延々と続く。
田辺君は散々きな臭い話をしたあげく
「ヒロシさんとこの本社は安値に飛びつくのが好きだけど
広島の田舎モンが知らずに手を出すと
あっちは本場だから大変なことになりますよ」
そう言って帰った。
こうして文字にすると、いかにも心配そうな感じだが
田辺君、実際には期待の笑みを浮かべていた。
「気ぃつけとくわ」
そう答える夫も、何に気をつけるつもりなのか
やはり期待の笑みを浮かべるのだった。
夫が藤村から買収の話を聞かされたのは、その数日後。
「大阪にある船舶関係の会社が売りに出ていて
売却額は破格の安値。
本社は買収を検討中」
…どこかで聞いた話。
夫は、彼に言った。
「関西進出なんて、すごいじゃん!
海路を抑えれば、本社グループ全体の仕入れが強化される。
本社はますます飛躍するだろうから、話を進めるべきだ」
夫の「気ぃつけとくわ」は、こういうことだったらしい。
夫の意見に自信を得た藤村は、会議で買収をプッシュ。
藤村の主帳は通り、本社はすぐさま買収した。
買収推進派の藤村は行きがかり上、その会社の面倒を見ることになり
肩書きが無くては動きにくいだろうということで
専務の肩書きをもらった。
行きがかり上とは、彼の熱意が汲まれたわけではなく
もしも関西進出が失敗したら
全てが彼のせいになることを表している。
会社組織とは、そういうものだ。
ここで誠実な方は、首をかしげるだろう。
「実情を知っているなら、止めるのが常識ではないのか?
8年前、倒産しかけた義父の会社を救ってくれた
大恩ある本社にみすみす損をさせて平気なのか?」
…平気だ。
なぜならその買収額は、本社にとって屁でもない。
バーゲンで衝動買いしたシャツが
似合わなかったという程度のものだ。
そして関西進出は、重役たちにとってゲームに過ぎない。
年齢がそろそろ70才に達する彼らには、最後のゲーム。
負けたって、責任を取るのは中途採用の流れ者、藤村。
倒産や転職が原因で結婚と離婚を何度も繰り返し
現在は独身の彼に、泣かせる家族はいない。
認知症の母親はわけわからんし
交際中のフィリピン人ホステス、テレサも
多分泣かずに次のカモを探すだろう。
そもそも、ゲームをやりたがる者を止めるのは難しいのだ。
勝つ気でいるからやりたいのに
それを止めようとしても言うことを聞くわけがない。
なまじ聞いて、その時は踏み止まったとしても
日が経つにつれ
「やっていれば成功したはず…」
そんな思いが強まってくるのが人間。
だからその後は、何につけ言われるのだ。
「あの時、お前が止めさえしなければ…」
これって、面倒くさいではないか。
止めるより、どうなるかを見る方が楽しい。
それに近年の我々夫婦は
本社を冷めた目で眺めるようになっていた。
合併して9年目になるが、その間に多くの人が本社を辞め
多くの人が入社した。
最初の頃にいた良識ある紳士はいなくなり
知らない中途採用の中高年ばかりになって
早い話、どうでもよくなったのだ。
例えば今年の正月。
我々一家は例年通り、広島駅にほど近いホテルで行なわれる
本社グループの新年会に行った。
正社員でない私に参加資格は無いため
やはり例年通り、ホテルのロビーで家族と分かれ
地下道を歩いてデパートへ向かっていた。
と、向こうから、どす黒い集団が…。
30人くらいが、地下道いっぱいに広がり
対向する歩行者に進路を譲るそぶりもないまま
地下に響き渡る大声でしゃべりながら向かって来る。
至近距離まで近づいてわかった。
どす黒い集団の中に、藤村を発見したからだ。
このドブネズミのような塊は、在来線で広島駅に集合した
本社、あるいはグループ会社のおじさんたちだった。
どす黒く見えるのは皆が皆、新年会に似つかわしくない
くたびれた安背広を着用しているからであった。
その上にコートでなく、黒いダウンを羽織る者が多いので
ますますどす黒い。
酒好きが多いのか、シワシワの顔色もどす黒い。
この、きちゃない群れが通行人に迷惑をかけつつ
地下道を闊歩するのをよけながら、私は思ったものだ。
「ここまで堕ちていたのか…」
夫の日々の苦労がしのばれた。
《続く》
新しい会社の専務に抜擢された昼あんどんの藤村。
当面、週の半分は新しい会社のある大阪
もう半分はこちら広島に滞在することが決まり
新しい名刺を作って有頂天だった。
夫は、彼の昇進を心から祝福した。
行く所が無いので毎朝我が社に来て
昼までタラタラする、暇な藤村…
何も知らないのに仕事を牛耳ろうとして
滅茶苦茶にしてしまう、迷惑な藤村…
誰よりも遅く入社しながら、兄貴気取りで
うちの息子たちを呼び捨てにする、横柄な藤村…
高校球児だったのが自慢で
話すことといったらそれしかない、退屈な藤村…
その彼が、たとえ週の半分でも消えてくれるのは
夫にとって誠にめでたいことであった。
さて、夫の友人、田辺君をご記憶だろうか。
長い間、任侠系の建設会社に営業として勤めていたが
後継者争いで破れた専務と共に退職し
現在は別の建設会社に転職して、やはり営業をしている
玉木宏似のイケメンだ。
少し前、その田辺君が夫の所へ来て
大阪にある船舶関係の会社が
破格の安値で身売りしたがっている話をした。
しかしその会社には反社会的勢力が絡んでいて
利益を吸い上げている…
そのため使途不明金が莫大な額になり
経営不振に陥った…
経営者は一刻も早く会社を手放したくて
四国のブローカーを介し、買ってくれる会社を探しているが
軒並み断られている…
このブローカーというのが、これまた怪しげな人物で…
黒い話は延々と続く。
田辺君は散々きな臭い話をしたあげく
「ヒロシさんとこの本社は安値に飛びつくのが好きだけど
広島の田舎モンが知らずに手を出すと
あっちは本場だから大変なことになりますよ」
そう言って帰った。
こうして文字にすると、いかにも心配そうな感じだが
田辺君、実際には期待の笑みを浮かべていた。
「気ぃつけとくわ」
そう答える夫も、何に気をつけるつもりなのか
やはり期待の笑みを浮かべるのだった。
夫が藤村から買収の話を聞かされたのは、その数日後。
「大阪にある船舶関係の会社が売りに出ていて
売却額は破格の安値。
本社は買収を検討中」
…どこかで聞いた話。
夫は、彼に言った。
「関西進出なんて、すごいじゃん!
海路を抑えれば、本社グループ全体の仕入れが強化される。
本社はますます飛躍するだろうから、話を進めるべきだ」
夫の「気ぃつけとくわ」は、こういうことだったらしい。
夫の意見に自信を得た藤村は、会議で買収をプッシュ。
藤村の主帳は通り、本社はすぐさま買収した。
買収推進派の藤村は行きがかり上、その会社の面倒を見ることになり
肩書きが無くては動きにくいだろうということで
専務の肩書きをもらった。
行きがかり上とは、彼の熱意が汲まれたわけではなく
もしも関西進出が失敗したら
全てが彼のせいになることを表している。
会社組織とは、そういうものだ。
ここで誠実な方は、首をかしげるだろう。
「実情を知っているなら、止めるのが常識ではないのか?
8年前、倒産しかけた義父の会社を救ってくれた
大恩ある本社にみすみす損をさせて平気なのか?」
…平気だ。
なぜならその買収額は、本社にとって屁でもない。
バーゲンで衝動買いしたシャツが
似合わなかったという程度のものだ。
そして関西進出は、重役たちにとってゲームに過ぎない。
年齢がそろそろ70才に達する彼らには、最後のゲーム。
負けたって、責任を取るのは中途採用の流れ者、藤村。
倒産や転職が原因で結婚と離婚を何度も繰り返し
現在は独身の彼に、泣かせる家族はいない。
認知症の母親はわけわからんし
交際中のフィリピン人ホステス、テレサも
多分泣かずに次のカモを探すだろう。
そもそも、ゲームをやりたがる者を止めるのは難しいのだ。
勝つ気でいるからやりたいのに
それを止めようとしても言うことを聞くわけがない。
なまじ聞いて、その時は踏み止まったとしても
日が経つにつれ
「やっていれば成功したはず…」
そんな思いが強まってくるのが人間。
だからその後は、何につけ言われるのだ。
「あの時、お前が止めさえしなければ…」
これって、面倒くさいではないか。
止めるより、どうなるかを見る方が楽しい。
それに近年の我々夫婦は
本社を冷めた目で眺めるようになっていた。
合併して9年目になるが、その間に多くの人が本社を辞め
多くの人が入社した。
最初の頃にいた良識ある紳士はいなくなり
知らない中途採用の中高年ばかりになって
早い話、どうでもよくなったのだ。
例えば今年の正月。
我々一家は例年通り、広島駅にほど近いホテルで行なわれる
本社グループの新年会に行った。
正社員でない私に参加資格は無いため
やはり例年通り、ホテルのロビーで家族と分かれ
地下道を歩いてデパートへ向かっていた。
と、向こうから、どす黒い集団が…。
30人くらいが、地下道いっぱいに広がり
対向する歩行者に進路を譲るそぶりもないまま
地下に響き渡る大声でしゃべりながら向かって来る。
至近距離まで近づいてわかった。
どす黒い集団の中に、藤村を発見したからだ。
このドブネズミのような塊は、在来線で広島駅に集合した
本社、あるいはグループ会社のおじさんたちだった。
どす黒く見えるのは皆が皆、新年会に似つかわしくない
くたびれた安背広を着用しているからであった。
その上にコートでなく、黒いダウンを羽織る者が多いので
ますますどす黒い。
酒好きが多いのか、シワシワの顔色もどす黒い。
この、きちゃない群れが通行人に迷惑をかけつつ
地下道を闊歩するのをよけながら、私は思ったものだ。
「ここまで堕ちていたのか…」
夫の日々の苦労がしのばれた。
《続く》