曖昧批評

調べないで書く適当な感想など

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見てきた(後編)

2021-03-21 14:08:56 | テレビ・映画
シン・エヴァンゲリオン劇場版感想の続き、本編です。ネタバレするので、まだの人は読まない方がよろしいかと。



YouTubeで公開された映像通りの冒頭シーンから。もうエヴァ的な大型人型兵器を大量に作れるようになってるのだということがいやというほど分かった。下半身だけエヴァの台座みたいなのとか数百体出てきて、マリにまとめて殲滅される。やられるために出てくるエヴァ。消費される無数のエヴァ。

だが、一国3機までとか決まりのある高価な兵器を使い潰せる工業力と経済力がどこからくるのかは分からない。敵である新ネルフにスタッフがおらず、ゲンドウと冬月だけなのも分からんが、気にせず進む。

Qで赤砂の荒野に放り出されたシンジ、アスカ、綾波初期ロットは、第3村という集落で保護される。ニアサー(ドインパクト)で死ななかった人類がネルフ関係者以外にも僅かにいたのだ。そこには、なんと28歳?のトウジ、ケンスケもいた。トウジはヒカリ(委員長)と結婚して子供も生まれている。ヒカリの声は本当に岩男潤子なんだろうか。もう声覚えてない。

シンジとアスカは村で何でも技術屋やってるケンスケのところで世話になる。初期ロットはトウジの家に居候。ケンスケもトウジも、ものすごく優しい。すっかり大人。それに対して外見も中身も子供のシンジは機能停止して毎日アスカに詰られる。

初期ロットは田植えを手伝ったり、銭湯に入ったりする。(綾波の)そっくりさんと呼ばれて村の人たちに可愛がられる。次第に感情を身につけていく初期ロットと交流することで、シンジもやる気を出してくる。

このような、限定されたエリアで暮らす生活感のある話はかなり好き。箱庭みたいで。RPGの序盤の村、みたいな。「進撃の巨人」もそうだし、エヴァンゲリオン云々以前にこういうのはかなり好きなのだが、これは文字通り束の間の平穏なのだった。

電池が切れたのか、初期ロットの頭部がシンジの目の前で爆発。またか。シンジは何回これ見るのか。でも今回はこれでいじけたりせず、立ち直ったまま自分の意思でアスカと共にヴンダーに戻る。

突然、加持さんがフィーチャーされる。彼はニアサー後に種を残したくていろいろやってたらしい。ブンダーにはノアの箱船よろしく、地球上の様々な種が保存されていた。そして、彼とミサトさんの間に生まれた男の子がいたりする。シンジが寝てる間にエヴァンゲリオンは第二世代に移行しつつあった。エヴァンゲリオンZでは、加持リョウジJr.が主人公かもしれない。

新ネルフのフォースインパクトだかアディショナルインパクトだかを阻止すべく、ブンダーはセカンドインパクトの地、南極へ向かう。また非現実的な能力で謎の異空間に突入し、乗員がいるのかどうか分からない(多分いない)新ネルフの戦艦と砲撃戦。蝿か蜂の大群のように湧いてくる無数のエヴァ(インフィニティ)の霧を突き抜け、ミサトさんとゲンドウが甲板上で対決。と思いきやリツコさんが発砲。ゲンドウの頭蓋が粉砕。だが、ゲンドウはすでに人以外のなにかになってて平気。三隻のヴンダー級戦艦を用意し、数えきれない様々なエヴァを操るゲンドウ、この時点では無敵だった。

無敵ゲンドウのゲンドウ式人類補完計画、アディショナル~を阻止すべく、ミサトさんだけ残ったヴンダーと、マリの8号機が、さらなる異空間、裏宇宙へ。もうなんでもあり。槍をその場で生成し、シンジは何らかの方法で8号機から初号機に乗り移った。

そしてシンジの初号機とゲンドウの13号機の一騎討ちが始まる。壮大且つ矮小な父子喧嘩。謎空間でガチり、スタジオ?でガチり、ミサトさんのアパートでガチり、実写?の町でガチる父子エヴァ。

そこからまさかのゲンドウ自分語り。なんと幼少期から自分の半生をシンジに語る。人を信じられなかった。裏切るから。信頼できたのは本とピアノ。そんな自分がユイに惚れて幸せを知った。コミュ障の自分を受け入れてくれたユイ。シンジは重荷だった。ユイを甦らせるために私は云々云々。

いやこれ庵野じゃないの? 庵野の悩みを聞かされるセラピストか何かの気分になった。

シンジは一皮むけており、ゲンドウに説教。なんか知らんが立場が逆になってる。愛する妻と再会したいという一心で地球をほぼ滅亡させつつある自らの行為を恥じ、反省しているような感じ? この辺よく覚えてない。

その後、各登場人物を一人一人浄化していく。カヲルくんが加持さんに「渚司令」と呼ばれたりする。テレビCMで見た不機嫌そうな知らない幼女はアスカの幼少期だった。昔のチビアスカはもっと可愛かったけどなあ。レイは髪が伸びた。すごいくせ毛だった。

ミサトさんは壮絶に戦死。息子のためにしてあげられるのは、生きていける地球を取り戻すこと、的な理由で。

浄化は人だけではなかった。初号機から名のあるエヴァを順番に破壊、あるいは成仏させた。続いて下半身だけのやつとか雑魚のエヴァとかも。まさに「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」だった。

裏宇宙に入ってから、ちょいちょい実写が挟まっていた。嫌な予感。もうメタ表現でいくんだなとわかってたけど。見続けるしかない。俺はあの夏エヴァで感じたやるせない気持ちに決着をつけるために、二十数年ぶりに映画館でエヴァを見ているのだ。見届けるしかない。

最後の最後、なぜか普通の駅のシーンに。どうやら年相応の風貌になったシンジとマリがいちゃつく。向こうでは、なぜかカヲルくんがレイ?といちゃついている。なぜマリ? そうか、アスカは式波型のうちの一体だったんだよな。空母の名前じゃなくなった時点で気づくべきだった。



公開される前、この映画を見に行く気はなかった。また裏切られるから。またやるせない気持ちになるから。でも今回は、気分よく見終えたという感想をいくつか見た。どういう話で終わるかはともかく、読後感がいいなら、それだけでも行ける。と思った。どんだけハードルが低いんだエヴァは。

その通り、読後感は悪くない。少なくとも「気持ち悪い」とは言われてない。リアル感のあるバトルは諦めてたし、結局庵野秀明の苦悩に満ちた半生を見せられただけのような気もするし、何がどうなってこうなったのか分からないが、雰囲気はハッピーエンドだった。

ネタバレを恐れて情報を遮断する日々は終わった。これからは、この文中に頻出する「なぜか」を解明すべく、徐々に出てくるであろうネット上の有識者の解析を漁ることになる。まずは明日の「プロフェッショナル仕事の流儀・庵野秀明SP」だな。

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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見てきた(前編)

2021-03-21 11:35:10 | テレビ・映画
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」は、本編に入る前に「新劇場版のこれまでのあらすじ」が流れる。それに倣って、まず僕とエヴァンゲリオンのこれまでを語る。

・・・・・

当時僕は、テレビ版の再放送第弐拾伍、弐拾六話で、物語の結末が普通の映像で描かれなかったことについて、大いに失望した。

無数に出版されていた解説本のうち、よさげなのを二冊ほど買い、そうなのか、ああ、そうなのかと意味ありげに散りばめられた伏線のようなものの意味を何となく理解し、今では旧劇場版と呼ばれている「シト新生」を、友人と封切り日に見に行った。まだネットで予約なんてものができる時代ではなく、朝から吉祥寺の映画館に並んで整理券をもらった。夕方の回だった。ぶらぶらして時間を潰し、ようやく見られた「第25話」は、アスカの中途半端なセリフで終わった。

同年夏に公開された第26話「Air/まごころを君に」、いわゆる夏エヴァは一人で見に行った。友人は、もうエヴァに対する情熱を失っていた。

夏エヴァは、テレビ版のような抽象的心理描写ではなく、起きていることを具体的に見せてくれたが、その内容は現実的ではなかった。

僕は庵野秀明、というかガイナックスの作品のリアルさが好きだった。「王立宇宙軍オネアミスの翼」では、麻雀の点棒に似た硬貨や、この惑星には近くの目標物としての月がないので、人間は宇宙に行きたいと思わなかったというリアルな設定によって、地球とは違う星の世界に説得力を持たせていた。

エヴァでいえば、例えば使徒殲滅後に大勢の作業員が被害を受けた街を修復してたり、損傷したエヴァにシートがかけられ、アスカがKEEP OUTのテープをひょいとくぐって立入禁止区域に入るシーンとかに僕は痺れていた。戦闘が終われば色々片付けなきゃならないし、アスカは関係者だからフリーパスなのだ。シンジはVIPだからボディガードが常に監視しているのだ。使徒が襲ってきたらテレビ放送は中断されて綺麗な景色の静止画になるし、日本の発電所の送電を全てポジトロンライフルに集めるなら、各自治体は広報車を走らせて停電を知らせるのだ。

そういった、それまでのアニメでは、いや、実写映画でも描いてこなかった「こういうことが起これば他のところはこうなるはず」「こういうシーンを描きたいなら、あっちはこうしておかないと」を想像してきちんと描くところがガイナックスの素晴らしさだと思っていた。そこをきちんとやってるから、エヴァのための電源ソケットのためだけのビルがあったり、ビル群が地下に沈んだりしてもOKなのだ。だってその理由がきちんと描かれているから。荒唐無稽なアイディアに説得力を持たせるためのリアルな設定。それが僕がエヴァにハマった理由だった。

しかし、夏エヴァのクライマックスにはリアリティがなかった。何でそうなるの。なんで綾波が雲を突き抜けるほど巨大化すんの。初号機はどういうエネルギーで空飛んでるの。

分かってる。リリスとレイが合体したからでしょ。初号機がアダムのコピーだからでしょ。そういうのが宗教的にコラボして超常の現象がブワーッと発生してぐわーってなって人類がみんな生命のスープに溶けて、それが人類補完計画なんでしょ。

ケーブルが伸び切ったからいったんアンビリカルケーブルを抜いて別のコンセントに差し替えるとか、強羅絶対防衛線とか(強羅は実在の地名)、零号機がJAXAからスペースシャトルの耐熱パネルを強奪するとか、そういうリアル感のある戦いのラストが見たかったのに、説得力のないグロテスクな超常現象を見せられ、途中からアイドル(当時)声優の実写になり、最後はアスカに「気持ち悪い」と言われて終わる。

今はなき渋谷東急文化会館の大スクリーンでそれを見させられた我々は無言だった。誰も何も言わなかった。オレンジ色の西陽が差し込む廊下を、表情をなくしてふらふらしながら歩くゾンビみたいな数百人の若者を僕は今でも覚えている。その中に僕もいた。

結論。庵野秀明は、物語をきちんと終えられない人だ。だから僕は新劇場版は劇場に行かなかった。

だがテレビ放映時に見た「序」は結構よかった。アスカの姓が惣流から式波に変わったのが気になった。女性陣は旧海軍の空母の名前を姓に持つことになっている。レイだけ駆逐艦の名前なのは、彼女に生殖能力がないからだ。

「破」はダメかなと思った。場違いな童謡が流れて、ああまた思わせぶりだ、深読みしてもらうための一見意味ありげなシーンが多すぎると思った。

そして「Q」。罵倒され続ける主人公。こっちも居たたまれなくなった。この不快な映像を作るという作業を3年も続けていたのか。庵野はともかく、スタッフが精神をやられてないか心配になった。

その後、続きが公開される気配がないまま何年も過ぎた。エヴァンゲリオンは、ちゃんと終われないアニメ、完成しないサグラダファミリアのようなものとして、僕の中のイメージが固定化した。

(続く)

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