幸せだったと過去形で言うのは、皆さんには記憶が残っていないからです。
しかしながら、断乳の苦しみ(ベータカゼインペプチドのアナンダミド様作用の終わり)の原型だけが残る。
この苦痛の原型が、フロイトらの言う「去勢」というものだろう。
この苦痛の原型は一生消えない。人はこの苦痛をおもちゃやから学問まで、何らかの別な苦痛に代替したかそれを無害な記憶に変形させた者が生き残る。
代替も変形もできない人は狂う。
狂い始める人生を、苦しみながらも、生きることに留めるものは究極の自己愛であるところの母子一体という渾然とした自己愛の記憶の強さだろうと思う。母親との関係が悪い人は、年をとるほどアルツハイマーなどの痴呆を発症する確率が高まるという研究がある。
死は容易に言葉のシニフィアンの連想効果に加わって割り込んでくる。
しかしながら、生は絶対肯定なので、連想の中に位置づかない。
なぜなら絶対的自己愛が連想の背景であるから。自由連想しても川が隣接したりするのも絶対的自己愛の片鱗と思う。
ここが大きな違いとなって自死を選ばない。
日本人に自殺が多いのは、母子関係の希薄さあるいは早期終了が原因の一つとなって絶対的自己愛があってもシニフィエに落とし込まれないところにあるのではないか?
これ共感できる