公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

田中角栄の勤労観

2010-09-23 11:45:01 | 日記
たまには田中角栄の言葉を思い出してみよう

p176.「本当に病気をしてみなければ病気の苦しみがわからないように、本当に貧乏しなければ貧乏の苦しみはわからない、と言う人がおりますが、勤労しない人が、勤労の価値を論ずることはできません。勤労をしない人がどうして勤労の価値を評価することができるのでしょうか。私はいま、本当に政治の責任の立場に立って考えますときに、勤労ということは何か、勤労というものが本当にどんなに正しく、どんなに必要であるかということが、このごろ論じられることよりも、勤労は生きるための一つの手段でしかないというような考え方が、このごろ充満しつつあるような気がいたします。もし、あるとすれば、それは政治の責任でありましょう。勤労というものは自分たちの生活だけではなく、人類の歴史を永遠に支えるために不可欠なものであります。勤労なくしてどうして人類の向上があるでありましょう。だから勤労青少年には、自らの環境が、環境でやむを得ないものであるというような憐憫の情は禁物であります。学校へ入るのも、勉強するのも、それは自らに適合した勤労をして、より効率的、合理的なその人に適した職場を与えられたときに、能力を発揮できるように勉強するのだ、そしてその結果、自らのためにもそしてそれが社会のためにも、人類のためにも絶対不可欠なものなんだ。お互いは、忽然としてここに現れたのではありません。何千年、何万年、何十万年、何億年の歴史の上にあります。われわれの生命もまた、久遠に続くのであります。無限に続く人類の生命のなかの一コマ一コマをつないでいるのであります。われわれの祖先が、人類の生命をつなぐために、たゆまざる努力をしたように、われわれも後代の生命のために、たゆまない努力を続ける義務があるのであります。私はその意味で、勤労青少年に自信を持ちなさい、そして自らの置かれている立場にほのかな誇りと、感謝を覚えるべきだと言いたいのであります。」

名演説です。
この様に勤労を位置付ける動機は國と国民に責任がある自覚と権力の義務の自覚にある。
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