1905年北九州生まれ。1993年(平成5年)1月17日没、日本の陸軍軍人。陸軍大尉。青年将校運動の中心人物の一人で、二・二六事件に連座した。
十月事件前、料亭「梅林」での将官クラスあるいは参謀クラスと尉官の鉄血章二階級特進という噂についての認識ギャップが貴重な証言になる。密室謀議がいつのまにか告示会議のように変化していた。縦割りで基本的に組織を超えた共同行動ができない様になっている陸海軍。この組織で広域の密室謀議はありえないから重要な役割を果たすのは将官クラスなのだが、この階層が極めて無責任だった(橋本中佐は信を置く上司に計画を報告している、信じがたい情報管理方法)ということがクーデター失敗の原因。橋本中佐とは橋本欣五郎のこと。第一次寺田屋事件のクーデターの失敗も同じ。島津久光に知れるような準備で成功は望めない。 橋本の記録では宇垣が担がれる予定だった。その夜、西田税を代々木山谷(現在のこの地名は代々木三丁目;弊社旧本社のあたり新宿にそう遠くない)に迎えに行った三人(佐藤、天野、末松太平)は頑なな西田に虚しく追い返される。背景は西田税と橋本欣五郎の対立だが、低次元の取らぬ狸の論功行賞が次第に失敗のなすり合いに変わってゆく虚しい終わり方が印象的。西田を説得していた井上日召はその場にいて評論家然としていた。
やや自嘲的に「軍服を着た百姓一揆」という当事者の証言はあらゆる歴史解説より正鵠を射たものである。
末松は十月の失敗後、満州国出征となる。見送りには井上日召、四元義隆(帝大七生社。のちのことだが田中清玄の人生を左右する山本玄峰を紹介する、四元は田中の開いた三幸建設の社長になる)、渋川善助(元士官候補生三十九期だが予科で優秀でありながら本科を中途で放校となりのち思想家になる。後年田中清玄は渋川を会津の親戚だと言っている。実際に弘前高校時代に接触があったのは大岸頼好少尉と末松太平中尉)がいた。「あとは菅波と相談してやるよ。安心してゆきなさい。」と大蔵中尉。菅波とは菅波三郎(当時大尉・禁錮5年)。本人は禁錮4年だった。十月事件自体の首謀者に対する責任の追及は、永田鉄山らによる極刑論も一部あったものの、同志の助命を橋本に嘆願された杉山茂丸が、西園寺公望に口添えを行った。
杉山茂丸は、
星亨に対して曰く、『「政党に吠えさせるのは、藩閥を自覚に導く或程度までの便利である。若し夫れ根本的に自覚改悛をせぬ時は、止むを得ず一刀両断である。その礼儀が済んだ後、今度は政党にとりかかるのである、・・・』と。政党が自覚せぬ場合はやはり一刀両断と言っている。今ならば、彼はテロリストの首謀者とよばれる人種であろう。事実大隈伯爆弾事件では疑われて拘束されている。曰く『「藩閥が窃盗なら、政党は強盗であるから、政盗(せいとう)と云うたほうが早道じゃ。」』(「腹一杯軍鶏を食う」より)
このような人間である。
橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳部に圧力をかけたりすることで、結果的には曖昧なままにされることとなった。橋本は重謹慎20日、長・田中は同10日といった処分の後、地方や満州に転勤という軽いものだった。結局翌年の陸軍に遅れまいとした海軍による五一五事件も、その後の十月事件の二番煎じとなる尉官クラスの二二六事件が『軍服を着た百姓一揆』になった理由も、自信過剰のアマだった点にあった。
末松の目には全く見えていないが、他方でスターリンに粛清されるまでのアドルフ・アブラモビッチ・ヨッフェ(1922年 第一次国共合作のソ連共産党側の立役者 自殺?)の交渉のつなぎ役であった藤田勇も間接的にクーデター資金の流れに関わってくる。その資金取得きっかけの交渉は当時ソ連であったロシアとの交渉。その背後には非合法組織オスム(OSM)の上海拠点に移動してたカール・ヤンソン、コミンテルンの極東ビュロー責任者となっていた人物が関わっていたと思われる。
The OMS was supervised by the "Illegal Commission," sion," made up of senior Comintern officials but usually including an official of the foreign intelligence arm of the KGB as well. In 1923, for example, the Illegal Commission consisted of two senior Cominternists along with Mikhail Trilisser, the KGB's foreign intelligence chief in the 192os. In May of that year it met to consider whether the American Communist party was maintaining the proper balance between legal and illegal work. After a discussion with Israel Amter, the CPUSA's representative to the Comintern, it issued a number of directives designed signed to enhance the CPUSA's capacity for "secret work."6
(そもそも藤田の金の出どころは1923年春ヨッフェ帰国に同行し、インド産阿片を船ごと接収された高田商会の船を50万円でロシアから払い下げ交渉から始まった。交渉成立後阿片を日本海上で別船に移して上海に入港、売り捌いて800万円の利益を挙げたのが始まりだ。藤田は高田商会から謝礼として150万円の手形を受け取り、うち40万円を現金化、この資金の一部が橋本欣五郎らにまわった。今風に言えばマネロンによる資金出し側コミンテルンの隠蔽である)。
カール・ヤンソンは大正十四年から昭和二年(1925年〜1927年)まで日本で重要な革命のコミンテルン日本支店を作った(クーデターによる武装革命路線の導火線が藤田の金)。佐野博は1928年(昭和3年)の暮れ、コミンテルンの日本委員会が出した党大会を海外で開けという方針を持ってモスクワを出発。上海で赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)代表のカール・ヤンソン1と接触し、鍋山貞親とともに朝鮮を経由して帰国、いっしょに最高幹部のアジトに住んだ。四・一六事件でほとんど幹部が逮捕された後、佐野は友人の佐多忠隆(企画院事件により治安維持法違反の嫌疑で検挙・投獄された後の革新官僚)の所に匿われ、コミンテルンとの連絡法を知り、党本部の状況を知る唯一の人物となった。田中清玄と連絡がついたところで共産党再建運動が始まった。和歌浦事件で武装路線2は根こそぎ壊滅する。ヤンソンは謎の人物なので日本に来る前にどこにいたかは不明だが、
- ^ Carl Jansen、ラトビア出身もちろんそのころはロシアの一部。1925年5月頃-1927年1月、日本で活動した。--渡部富哉 「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの(連載2-5-2)」
American Communism and Soviet Russia 著者: Theodore Draper のなかに米国共産党でCharles E. Schottという名前で活躍していたという記載がある。この記載は日本国内の共産党運動は米国に対するシャープシューターというグループで危険な運動と連動していたことを証拠付ける文献がある。日米戦争の謎が知りたければコミンテルンの世界戦略を知る必要がある。
- 四・一六事件後、第2次共産党の幹部が根こそぎ逮捕されてしまったため、1929年7月、田中清玄が23歳の若さで、日本共産党の中央委員長になる。そして、佐野博、前納善四郎らと党の再建運動にあたることになる。翌1930年5月に田中が逮捕されるまで、彼らが指導した時代の共産党は武装共産党と呼ばれる。モスクワのコミンテルンの指示に基づき、党員に武装して公然活動し、場合によっては、警官を殺傷することも辞すなと命じていたからである。その結果、数々の官憲との衝突事件を起し、1930年5月には、武装メーデー事件を起こす。
中共の古参幹部もヤンソンをよく知っていると田中清玄は戦後中国を訪問した体験を証言している。ヤンソンはコミンテルンの業務としてヨッフェには秘密裏に会っていたはず。ヤンソンが1月に日本を去った年1927年の11月はトロツキーが追放される年、同志ヨッフェの葬儀スピーチ(時期不明)が最後のロシア国内の演説となる。ヤンソンの上海移転はスターリンの権力掌握と関係していたのだろう。
十月事件は藤田が現金化した形のコミンテルンの金を取得してから6年後のことだ。つまり武装革命の左の資金もクーデターの右翼の資金も結局はコミンテルン頼みだったという経済無自覚が実に情けない。まさに軍服を着た百姓一揆である。
末松太平
1931年8月から3ヶ月間陸軍戸山学校に甲種学生として派遣され、相沢三郎ら青年将校運動の中心人物たちと交流する。同8月秋のクーデターに向けて青年将校や右翼が集まった郷詩会と称する会合に参加し、同年秋の十月事件に連名した。桜会の橋本欣五郎と西田税を引き合わせたが、後に末松ら皇道派青年将校と橋本ら幕僚将校が対立する契機となった。満州事変の勃発により、1931年11月満州に出征。歩兵砲隊長として熱河作戦に参加した。1934年3月帰国、陸軍歩兵学校学生を経て、1935年8月陸軍大尉に任官。1935年9月不穏文書を配布したとして重謹慎30日。
1936年2月の二・二六事件には青森連隊所属の大尉であったため直接参加しなかったが、「「昭和維新」に進むべきだとする意見具申・電報発信等」[1]を行い、3月に収監、8月に反乱者を利する罪で起訴された。1937年1月陸軍の軍法会議で禁固4年(求刑禁固7年)の判決を受け、免官となった。1939年4月仮釈放。