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疫病の所為でこのような行事もなくなったのかもしれない。博多祇園山笠は本来疫病退散祈願の祭りだった。飾り山は出したかな
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新型コロナウイルスの影響で開催見送りとなった夏祭り「博多祇園山笠」。疫病退散を起源とし約780年続く神事だが、歴史をひもとくと、明治時代のコレラ流行期には3度の延期を乗り越えた経験がある。「延期になっても山笠を忘れることはない」。ヤマに魅せられた男衆は来年の実現を目指して前を向いた。
ふくやの川原会長は例年通りに筥崎宮に足を運んだ(1日、福岡市東区)
山笠が開幕するはずだった1日朝、福岡市東区の箱崎浜に、めんたいこの老舗「ふくや」(同市)の川原正孝会長(70)の姿があった。所属する「中洲流(ながれ)」は例年、1日朝に長法被姿の役員がそろって箱崎浜に清めの砂を取りに行く「お汐井とり」をする習わしだが、今年は1人で訪れた。浜の門はまだ開いておらず、門外から静かに手を合わせた。
「中洲」の字が染め抜かれた長法被に袖を通すこともかなわず、背広を「重たく感じた」と川原さん。例年通り、近くの筥崎宮(東区)と櫛田神社(博多区)を参拝してから会社に向かった。「延期はつらいが、気持ちとしては山笠は続いている。昨年の無事への感謝と『今年もよろしく』という願いを忘れることはない」
父で同社創業者の川原俊夫氏が中洲流の結成に携わり、自身も「0歳から山笠に参加してきた」という川原さんは自他共に認める「山のぼせ」。今年は知人が山笠の手拭いで作ってくれたマスクを着用して、仕事に精を出しているという。
博多祇園山笠振興会は4月の総会で開催延期を正式に決めたが、感染症による延期は今回が初めてではない。古い文書などを基に山笠の歴史をまとめた「博多山笠記録」(振興会発行)には、明治時代に少なくとも3回、当時猛威を振るったコレラ(虎列拉)で延期されたとの記述がある。
1886年(明治19年)には「早良郡姪浜村ニ虎列拉病有之依テ旧六月廿八日廿九日ニ祭礼執行ス」と記載。この年は全国的な流行で京都の祇園祭の山鉾巡行も延期となり、山笠も例外ではなかった。
95年(同28年)には「当年ハ虎列拉病流行シ候ニ付御祭礼延期シ」とあり、1902年(同35年)も「虎列拉病流行して延期となり十月五日より三日間許可十月七日朝山にて仕舞となれり」とある。いずれの年も「延期」で、「中止」の文字は見当たらない。山笠に詳しい福岡市博物館の福間裕爾学芸専門員は「疫病退散の祈りとともに、生活の一部である山笠を何としても開催したいという思いがあったのでは」とみる。
箱崎浜でお汐井とりをする人たち(1日、福岡市東区)
箱崎浜では1日夕、普段着姿でお汐井とりを行い、海に向かってかしわ手を打つ人々の姿が数多く見られた。山笠に10年以上参加している男性会社員(43)は、同じ流の仲間らと個人的に足を運んだ。「延期になっても7月1日は大切な日。来年は楽しく実施できれば」と願った。
ふくやの川原さんは「体調を整えて体力づくりに励み、仕事をしっかりこなして周囲の理解を得るのが山笠に向けた過ごし方。延期でもこれは変わらない」と強調する。新型コロナの収束を祈りながら「来年の山笠では2年分の熱い思いをぶつけたい」と意気込んだ。
博多祇園山笠
櫛田神社(福岡市博多区)の奉納神事で、1241年に疫病退散を祈ったのが起源とされる。毎年7月1日~15日に行われ、参加する男たちは地域ごとの「流(ながれ)」に分かれ、6月1日から準備を進める。
流は歓楽街・中洲を区域とする中洲流や、櫛田神社前の土居通り沿いの町でつくる土居流など7つある。各流の男衆が重さ1トンの「舁(か)き山」を担いで早朝の街を駆け巡る「追い山」(最終日)は博多の夏の風物詩だ。沿道には毎年約300万人の見物客が訪れる。2016年には国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。
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