なかなか図書館貸し出しが見つからないので、ついに購入を決断。運良く入手したのは初版本である。まずは戦中編が届く。続いて戦前編の初版本も19日に届く。
「若き高杉一郎【妻の妹が宮本顕治夫人】―改造社の時代ー」とは違う本。ちなみにだが、小林秀雄は1928年、長谷川泰子との同棲生活を放棄、1929年、奈良から帰ると、「改造」の懸賞論文に「様々なる意匠」で応募し、宮本顕治の「「敗北」の文学」と争い、二席になる。そのためにかプロレタリア文学を批判する立場を選ぶ。そのくらいに大正8(1919)年に創刊された総合雑誌「改造」は影響力がある高級誌だった。1~3号は返品の山だったが『表紙を変え、「労働問題・社会主義」号と銘打った4号は、予想に反して発売2日で3万部を売り切った』とあるらしい(改造社と山本実彦 松原一枝 南方新社 2000)『『死線を越えて』はたちまち10万部を売り、なんと次の1年では80万部が売れた』【同】『石坂洋次郎の『若い人』や林芙美子の『放浪記』や火野葦平の『麦と兵隊』になっていく。いずれも大当たりを記録した。』【同】『大正15年、山本は新聞に『現代日本文学全集』全巻の予約申込み大広告を打ち、第1回配本「尾崎紅葉集」「予価1円」と大書させた。』『改造社の円本は、その後も「マルクス・エンゲルス全集」「経済学全集」「日本地理大系」「日本短歌全集」』【同】
追補2017.2.24
1919年はいろいろと面白い年である。『改造』創刊の他、国粋主義の雄北一輝が大川周明らによって「日本改造法案大綱」の草稿段階の『国家改造案原理大綱』を運ばせたのが、大正8年1919年だった。中村天風が東京実業貯蓄銀行頭取の席が本当の自分に気づいて、急につまらなくなって上野や芝で辻立ち講演を始めるのも大正8年1919年6月8日のことであった。28日、パリ講和会議ベルサイユ条約調印。後の昭和天皇、皇太子裕仁親王は18歳成人の年である。
1919年は国際主義を紐解くうえで面白いし、私の主張が的を外していないこと、だれもがピンとくるだろう。
『ジョージタウン大学の戦略国際問題研究所(CSIS)は、イエズス会神父エドマンド・アロイシャス・ウォルシュ(Edmund Aloysius Walsh(どういう人物なのかはリンクを見て、メキシコやイラクという固有名詞がでたり、ナチスの地政学理論家カール・ハウスホーファーを援護したり、赤狩りの首魁マッカーシーを批判する発言履歴があったり国際主義者のパッチワークの奥底今でいうDSディープステートを流れる裏のマスターマインドの穴を埋めてくれる立場が極めて面白い)、1885年10月10日 - 1956年10月31日)が、1919年に同大学内に創った「エドマンド・A・ウォルシュ外交学院」(Edmund A. Walsh School of Foreign Service、略称SFS)が改組されたものである。ウォルシュは地政学者カール・ハウスホーファーの弟子であり(ルドルフ・ヘスも弟子だったHe became disillusioned after Germany's loss and severe sanctioning; he retired with the rank of major general in 1919. At this time, he forged a friendship with the young Rudolf Hess, who would become his scientific assistant.)、その学問をアメリカに移植することを目的とした組織であった。
設立にあたっては、アーレイ・バーク(最終階級は大将:当初日本人を嫌っていたが軍人として日本人を見直し親日になる)およびデイビッド・マンカー・アブシャイア(David Manker Abshire)が主導。1987年にジョージタウン大学から独立した研究機関となった。設立の経緯から、アメリカ陸軍などアメリカの国家安全保障グループとの繋がりを強みとする。』
地政学者カール・ハウスホーファー左 ルドルフ・ヘス右
赤狩りで名前の上がったロークリン・カリー大統領補佐官(FDR当時)は、ソ連に極秘情報を漏らしていた。ソ連暗号解読プロジェクトが機密扱いを外された1995年公開されたVENONA文書と呼ばれる暗号解読によると40年台の後半のソ連代表部とモスクワ間の交信記録を米特殊機関(戦後の国家安全保障局=NSA)が暗号解読した。それによるとカリー補佐官はカナダ生まれの経済学者で、39年から45年まで大統領補佐官(経済担当)をつとめた。41年初頭には対日戦略を調整するため米国の中国支援担当特使に任命され、F.D.ルーズベルト大統領と中国国民党の蒋介石間のパイプ役をしていた。中国大陸からの日本爆撃計画の推進者だったロークリン・カリー。
五月九日に、ロークリン・カリー大統領補佐官が、大統領に『JB―355』計画について覚書を提出した。カリーがホワイトハウスで、『JB―355』計画を仕切っていた。」ケント・ギルバートhttps://www.kk-bestsellers.com/articles/-/3977/ より
『何でもかでも古い伝統を打破しようとする時代であった。クロポトキンから新マルサス主義、ギルド、レニン、リッケルト、フッサールなど目まぐるしいまで変わった学説が歓迎される。森戸君が大正八年クロポトキン事件に坐して大学を逐われてから、思想的厄難がつぎつぎに起こって来た。
越えて大正十年一月から思想界の第一人者バートランド・ラッセルが我が『改造』に執筆したときは、異常のセンセーションを惹起した。また同年七月彼が来朝したときの如き、神戸埠頭には全神戸の労働者四、五万が出迎うるの謀議が熟していたのを、そうしては、いろいろ面白からぬ現象の到来を予想して、官憲の許すところとならなかったが、それでも岸壁はものすごいまでの人の山であった。』山本実彦「十五年」より。
バートランド・ラッセルやチャップリンを招聘した山本実彦に相変わらずの興味(不自然さ、違和感、異物感)を持っているので、この男の周辺を掘っている。 明治37年(1904年)には東京へ出て働きながら大学へ通います。明治41年(1908年)23歳のときに「やまと新聞社」に入社し、2年後には特派員としてロンドンで1年間生活します。渡英前であろうか、25歳の年1911年に山本実彦は清国分割派の宇都宮太郎に面会している(陸軍大将宇都宮太郎日誌よりやまと新聞山本某と記載、片谷伝造とともにと記載するあたりから推量して満蒙独立に軍の支援が出るかどうかという話題だったのだろう、第一次には宇都宮の部下明石元二郎も加わっているからおそらく薄益三に人物を紹介したのだろう、参謀本部第二部長時代)。この時点で新聞記者の枠をすでに超えている。薄益三と同類の陰謀家と言っても良い。大正2年(1913年)後藤新平からの用立てで経営不振の「東京毎日新聞」の買収の話がまわってきて、山本実彦はこれを買う。
28歳のとき東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本的関係はない。)の社長となり経営を引き受け、大正8年(1919年)34歳「改造社」を創業して、総合雑誌『改造』を創刊した山本実彦はやはりロンドンでの一年が転機になっている。ロンドンでは乃木希典や東郷平八郎と親しくしたそうだが、この組み合わせ1906年2月21日にもヒントは隠れている。特派員とはいえ誰に会って何をしたか今のところ調査中だ。
山本実彦自身はこう語る「 雑誌『改造』が品川浅間台の一角で呱々の声を挙げたのは、ちょうど、欧州大戦が片づいた大正八年の桜花ほほ笑む四月で、我が国は社会運動や労働運動に漸く目が開けそめたときであった。」拠点となる品川浅間台に豪邸を建てた資金は久原から分捕った補償金六万円である。
しかしこの本の著者水島治男(みずしまはるお、生明治37(1904)年2月2日~昭和52(1977)年10月28日 没 編集者。「世界文化」初代編集長)は世代としては改造社設立後10年ほどしてからの入社であるから、事業は大いに隆盛を極めはじめ、円本が大ヒット。文学全集ブームが起こっていた、そのため山本実彦について直に語るところは少ない。
しかしその言論潮流のカタログ的な水島の証言「改造社の時代」は貴重である。山本実彦は「この頃からジャーナリズムに(中略)社会思想の根拠のないものはだんだん指導性を失って来た。雑誌『改造』がそれらにたいし鋭き批判を下だすと、刺激と感激とが極端に起こってきた」「我が誌は決して啓蒙運動の境を出でなかった。批判的境地を厳守した。全面的に我が国の方向を誤らしてはならぬ。世界にいわれなく孤立してはならぬ。こうしたモットーの前に進んで来たのであった。」(「『改造』の十五年」、『改造』1934年 昭和9年4月号所収)引用元マイクロフィルムを販売しているらしい昭和九年と言えば、1928年小林が二席になった前年である。
水島氏は、わずかに退社後の人物評として「改造」的影響を受け臭いがつたというのみ、専制君主のような存在であったことは確かであろう。存外に得るところのない本であったが、戦前戦中の左翼リベラルのリストは見ておく必要がある。
日本初のマルクス・エンゲルス全集(編集主幹向坂逸郎)の発行に参加した人々、左翼リベラルあるいは国家改造主義者たち。
資本論を初めて(七年半もの年月をかけて)日本語にした高畠素之(大島治清担当)は山川均(第一次日本共産党総務幹事1922年11月のコミンテルン(1919年設立)第4回大会に代表を派遣して、コミンテルン日本支部として正式に承認)、荒畑寒村(1981年、93歳で死去)らとともに平民社の同志だったが、その後国家主義者になったとして左翼に無視されている。こういう草創の記録が大切なのだ。
服部英太郎
河野密
後藤信夫
石浜知行
栖崎烽
新明正道
喜治隆一
堺利彦 山川均、荒畑寒村らとともに参加するものの、山川らに同調して共産党を離脱、後に労農派に与する。昭和7年(1932年)の6月頃発狂。翌年の1月に脳溢血で死去(享年64)。
稲村順三
鳥海篤介
小林良正
水野富
笠信太郎 1962年まで朝日の論説主幹。近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」に参加してその中心メンバーの一人となり、近衛を取り巻く朝食会(水曜会:朝日新聞社論説委員の佐々弘雄や記者の尾崎秀実らと)のメンバーだった。このころの主張は「日本経済の再編成」中央公論社 1939年参照、スイス終戦工作の頃からアレン・ダレスに率いる米国情報機関後のCIAのエージェントになり、日本の知識人の親米化工作を行っていた。湯川秀樹らと共に世界連邦運動を提唱し続けており、1958年の元旦と1月16日の朝日新聞には「世界連邦を日本の国是とせよ」という社説を掲げている。宮沢喜一と極秘に接触し、次の首相に朝日新聞OBの石井光次郎(同じく米国工作員と疑う人物:1918.7台湾総督府秘書課長兼外事課長、1919.11台湾総督府参事官、1921.2〜22.5欧米出張、1922.5退官。1922.7朝日新聞社に入社、1940.5朝日新聞社専務取締役、1945.11朝日新聞社退社)を就任させることを宮沢を介して池田勇人に要求するなど、政治的なフィクサーとしても活動した(2009年9月12日毎日新聞/岩見隆夫「近聞遠見」より)。1967年12月4日、心筋梗塞のため死去。66歳 ここにもすでに墓石となったNWOの布石が出てくる。
平野常治
東井金平
塚本三吉
浅野正一
岡田宗司
羽田貞一
木島健児
荘原達
河西太一郎
菊川忠雄
宇野弘蔵 やっと知った名前が出てきた
平井新
高井三郎
山村喬 「哲学の貧困」、カール・マルクス著、山村喬訳で見知る名前
小岩井浄
まだまだ
宋道太
三輪寿壮
細野三千雄
亀井純
有沢広巳
小菅省三
八木沢善次
川村又介
加田哲二
山川均 (生1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日没)労農派マルクス主義の指導的理論家
後藤貞治
片瀬住
阪本勝
住谷悦治 (生1895年12月18日 - 1987年10月4日没)同志社大学名誉教授。同大学元総長。大正時代における民本主義(Democracy)の言論家として知られる吉野作造の門下生
堀真琴 元国体主義者のち安保破棄論者「私は労農党を代表して平和条約と日米安全保障条約の承認を求めるの件に関して、反対を表明する。」
松沢兼人 戦後日本社会党の旗上げ学者
林要
蝋山正道 (生1895年11月21日 - 1980年5月15日没「)東大教授、朝日新聞論説委員の笠信太郎、哲学者の三木清が中心になって1933年につくった昭和研究会が近衛文麿の組織である昭和研究会設立構想に参加、日中戦争下の1938年には『改造』に掲載した論説により「東亜協同体」をめぐる論争の口火を切った。軍部主導による国家改造を計画し、五・一五事件を肯定的に評価した。
まだまだ
猪俣津南雄 (生明治22年(1889年)4月23日 - 昭和17年(1942年)1月19日没)は、日本の経済学者。マルクス経済学労農派。日本大衆党に入党するが、山川均らと対立して除名される。
桑田悟郎 「ドイツチエ・イデオロギ-」聖マックス(桑田梧郎訳)
横川次郎
平井鎮夫
不破信一
向坂逸郎 (さきさか いつろう、1897年2月6日 - 1985年1月22日没)は、日本のマルクス経済学者・社会主義思想家、マルクス主義文献の収集家。九州大学教授・社会主義協会代表を歴任。「ソヴィエト社会主義社会になれば、お前の病気(オカマ)は治ってしまう」「こんな変な人間を連れて来るなら、もう小学館の取材には一切応じない」等の暴言を吐く。池内信行の薫陶を受け、同性愛者ではあるものの、自らの結婚歴や子供の存在を否定していない東郷健は、『自らは百坪超の豪邸に住まい、都心のアパート家賃の相場さえ知らない向坂は、全くブルジョアにしか見えなかった』と対談後語る。他人の力でマルエン全集を発行したのだからさもありなん。今にして思えば所蔵図書の厚みで正統派を自認しているオタクに過ぎなかった。
荒畑寒村 (あらはた かんそん、1887年(明治20年)8月14日 - 1981年(昭和56年)3月6日没)は、日本の社会主義者・労働運動家・作家・評論家。日本共産党と日本社会党の結党に参加するが、のち離党。
浜島正金 マルクスの歴史社會並に國家理論 訳
土屋喬雄 (つちや たかお、1896年(明治29年)12月21日 - 1988年(昭和63年)8月19日没)日本資本主義論争(大方はくだらない論争)では労農派の論客として活躍。
大森義太郎 1928年4月に三・一五事件に関連して東大を辞職し、以後は講壇ジャーナリストとして生活
榎本謙輔 近代唯物論史 : ドルバック・エルヴェシウス・マルクス プレハーノフ 著 ; 榎本謙輔 訳
平 貞蔵 佐々弘雄の紹介で、奉天において後藤隆之助らに会い、これが縁で昭和研究会の支那問題研究会に参加することになり、多くの軍人と接触した。昭和13年(1938年)5月に大山岩雄とともに中支視察のため上海へ赴き、6月に野田清海軍少将らと現地視察談を昭和研究会で発表。
伊東好道 『「コムモンウェルス」からの論説』 エンゲルス著他2篇 伊藤好道訳
近江谷晋作 『自由論』ジョン・スチュアート・ミル 近江谷 晋作 訳
井上信
山田盛太郎 (やまだ もりたろう、1897年(明治30年)1月29日 - 1980年(昭和55年)12月27日没)野呂栄太郎(日本資本主義論争においては山田盛太郎、平野義太郎とともに講座派の中心人物 実妹・美喜は、日本社会党衆議院議員だった横路節雄夫人。節雄の息子である孝弘(元北海道知事・衆議院議長)・民雄(弁護士)は甥にあたる。)らと『)日本資本主義発達史講座』(岩波書店)を編纂。 1934年の代表作『日本資本主義分析』で講座派の代表者と目されるようになり、櫛田民蔵、猪俣津南雄、向坂逸郎らの労農派と「日本資本主義論争」或いは「封建論争」を繰り広げた。
田中九一 満鉄東亜調査局員となり、1936年「支那経済及北方調査」の主査を務める。部下に西沢富夫、満鉄調査部事件で逮捕1944年釈放。終戦後1945年から1949年までソ連鉄道管理局にて、満州経済を調査するも、ヨシフ・スターリンによる粛清のためスパイの罪で13年の重労働の刑に服す。「世界経済」青木書店より。
まだまだ
河元真澄 『聖書-信仰の勝利』 エンゲルス 河元真澄 訳
大塚金之助 1933年、治安維持法違反で東京商科大学教授職を追われるが戦後復帰。遠見一郎(アララギ派)岩波新書戦後第1号『解放思想史の人々』を執筆。主な弟子に高島善哉(一橋大学名誉教授 卒業論文「経済静学と経済動学の国民経済学的意義:ヨセフ・シュンペーターの研究」)、水田洋(名古屋大名誉教授)、杉山忠平(元一橋大学教授)、末永隆甫(神戸商科大学元学長、北九州市立大学元学長)、都築忠七(一橋大学名誉教授)、富永祐治(大阪市立大学名誉教授)、良知力(元一橋大学教授:社会史研究を定着させるにあたっても、一橋大学社会学部で同僚であった阿部謹也らと共に主導的役割を果た)など
独房歌 枕もとにやもりのうごくけはいにも生きもののゐる親しさのあり
山本実彦の出発点は戦前のやまと新聞記者(松下軍治らが山本権兵衛内閣(1913年(大正2年)2月20日から1914年(大正3年)4月16日まで続いた)打倒の急先鋒だった)、この新聞最終的に戦後1949年に児玉の子分から三浦義一に経営権が移譲される人脈もまた面白い。1915年(大正4年)に東京毎日新聞社社長(まだ30歳、大正2年という説もある)に就任。改造社のあたりは出光ビルと同じく空襲で焼け残った一角らしい。
戦後の日本共産党幹部、昭和42年 初記者会見より 野坂 宮本 袴田 岡が実質の指導部だが、野坂は1992年100歳でソ連のスパイであったことを理由に除名処分となり、本人はこれを認め翌年死去。
共産党からの参加者は二十三人(肩書きはその当時)
宮本顕治・書記長、袴田里見・常任幹部会員、岡正芳・常任幹部会員、春日正一・幹部会員、米原昶・幹部会員、下司順吉・幹部会員候補、藤原隆三・幹部会員候補、市川正一・書 記局員、茨木良和・書記局員候補(選挙対策部長)、上田耕一郎・書記局員候補(第一政策 委員長)、金子満広・書記局員候補(統一戦線部長)、諏訪茂・書記局員候補、豊田四郎・書 記局員候補(宣伝部長)、浜武司・書記局員候補(赤旗編集局長)、不破哲三・書記局員候補(第一政策委員会副委員長)、宮本太郎・中央委員候補(宣伝部副部長)、松本善明・代議士、紺野純一・赤旗編集局政治部長、樋口見治・赤旗編集局日曜版編集長、五明英太 郎・国会議員団事務局長、小笠原貞子・婦人部副部長、ほかに宣伝部員ら二人。小笠原貞 子