↑いちいち相手がまともなことを前提に相手にするだけ馬鹿馬鹿しいことに彼は気づいていない。どんな相手にも好意を持てるというのも一つの人徳だが、猫に小判という時もある。
但し宮崎駿は単なる左巻きではない。文藝春秋での半澤との対談でこういうことを言っている。「戦後、源田は東京大空襲を指揮したカーティス・ルメイにわざわざ勲章をあげた人間ですよね。そんな連中のことを真面目に描きたくなかったんですよ。」仁義はわきまえている。
カーティス・ルメイ
『我々は東京を焼いた時、たくさんの女子どもを殺している事を知っていた。やらなければならなかったのだ。私は我々の所業の道徳性について憂慮する幹部やパイロットたちに対してこういったものだ。道徳? ふざけるな! 我々は今戦争をしているのだ。戦争に道徳などあるものか。勝つか負けるかそのどちらかだ。そんな事を言うなら最初から軍人になどなるな!』
但し宮崎駿は単なる左巻きではない。文藝春秋での半澤との対談でこういうことを言っている。「戦後、源田は東京大空襲を指揮したカーティス・ルメイにわざわざ勲章をあげた人間ですよね。そんな連中のことを真面目に描きたくなかったんですよ。」仁義はわきまえている。
カーティス・ルメイ
『我々は東京を焼いた時、たくさんの女子どもを殺している事を知っていた。やらなければならなかったのだ。私は我々の所業の道徳性について憂慮する幹部やパイロットたちに対してこういったものだ。道徳? ふざけるな! 我々は今戦争をしているのだ。戦争に道徳などあるものか。勝つか負けるかそのどちらかだ。そんな事を言うなら最初から軍人になどなるな!』
以下は、提供された古文書の内容を現代日本語に変換したものです。
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康平5年、父・頼良に次ぐ日本の将軍・厨川太夫貞任が戦死しました。その子・髙星丸は幼いながらも乱世を逃れ、東日流平川に身を隠します。十三湊の安倍氏・季の助けを得て、東日流平川の藤崎に館を築き、その主従を落ち着けました。東日流を大きく分け、上磯を氏季の領と定め、下磯を髙星の領としました。これを称して、東日流外三郡、内三郡としました。
古くからこの地は安東浦という大きな入り江で、東日流大内泻とも呼ばれています。それゆえ、安東を姓とし、一族の宗家を安東氏とし、庶家を安藤としました。東日流六郡に移り住んだ旧臣と旧領民が、東日流大里の葦を開墾し、また上磯の浜に漁民として安住しました。わずか五年で再興を遂げました。これが安倍一族が古くから備えてきた奥州金山の宝を交易に使い、衣食住の急を賄った結果です。このような活動は、一族を救うための不断の心掛けによるものです。戦前には十三湊に住まわせ、その後生保内に館を備え、さらに遠野や荷土呂志、火内にも穏やかな郷を開きました。安倍一族の金蔵はこの時に開かれ、それが所用に使われました。
そもそも安倍氏は、古代からの阿毎氏の頃より、人命の重要性を第一に考え、今に至っています。東日流において山靼との流通は欠かせない海上交易で、その船は満達や高麗などに速く向かいます。その積荷は海産物であり、千島や日高渡島の住民によって供給されていました。北海の水先人たちが共に乗船し、その利益は大きかったと言われています。古代から荒覇吐神が一貫して信仰され、世代を経て迷うことのない信仰がありました。この大要は神の構成であり、山靼の深い西に入り、古代ギリシャのカオス神、シュメールのルガル神、エジプトのラー神、モンゴルのブルハン神、中国の西王母、女媧、伏羲神、高麗の白山姫神などの信仰が日本古来のイシカホノリガコカムイに併せて神格されることが荒覇吐神の称号となりました。したがって、この流通においては、多様な神々の神伝が尽きることはありません。
安東高星は成長し、西域の海上交易を中国およびその南の藩に求めるようになりました。そのため、仏教が天竺から渡り、その他のゾロアスター教やマニ教、ラマ教、ヘンジー・ベイダ・バラモン・クシャトリアなどが多く入り、これを願い祀りました。全体的にこれは摩訶道行とし、荒覇吐なる陰道神としての信仰のようです。商品の交易で東日流に入ったこれらの神像や石塔は、石山に残ったのはこれが理由です。安東一族の造船技術はその工程が特に優れており、羅漢柏や松、杉などの材を適切に選ばれ、腹胴張りの二柱帆とともに斜帆を張り巡らされました。そのため、船はまるで潮のように速く進みました。しかし、海難に遭遇したものも多かったと言われています。
元文丁巳年の9月2日
談:吹浦住、磯野佐太郎
古くから世にある文献は多くありますが、事実には隠れた枝葉のような情報が多いものです。世に勢をなしている者の語りはこのように残ります。安東水軍が起こったのは、萩野台内乱に依り安東太郎貞季によって盛んになりましたが、実際の航海においては安倍氏の季が日本将軍頼良の命令で山靼との交易を急ぎ、結果的に大船航潮を成功させたのです。
康平5年にわたる陸奥の戦乱は10年以上続き、敗れた安東一族が再興したのは、興国の大津波に乗じてのことです。応永33年から嘉吉2年にかけての戦乱も、その資金の大半を安東一族の異土交易による利益で支えられました。平氏・源氏・藤原の武家の世襲が残されたのは、異土に通じていた安倍一族の資があってこそです。
大宮における権謀や術数、今昔にわたることで民を不安にさせる兆しを生み出し、代々に戦の歴史を残すのは、国政の不振を反映しています。殿上人が栄華を享受することが、民の労苦を下敷きにし続け、武家の成長を促進しました。世が不穏であれば、群盗の出現が神出鬼没する。安定した世は民の安寧から治政が及ぶものです。一年一作の丑寅の民は、和を重んじているのは、日本将軍以来の士農工商の階級を作らなかったことに起因しています。
このような和の重要性から、異土との交わりも欠かさないのです。安東船が倭に知られていないのは、倭との親交がないからです。海産物が得られるのは流鬼、渡島、千島の地領であるためです。地域の長であるエカシを尊重し、海産物に見合った物交換によって商利益を得て、シャモの渡り党を制し、地域の人々を助ける安東船の信頼を得られたからです。
安東船の玄武廻りは北海の海産物の船舶です。山靼廻りは満達やモンゴルへ湖の道を通り、高麗廻りや黒龍江廻りもあります。さらに揚州船や天竺船も中国の元帝のころからありました。安東船が倭国との寄湊地は、三浦と塩釜を東廻り、西廻りは土崎、砂泻、加賀、犀川、若狭小浜、肥前松浦で商いがあります。応永17年、南部守行が糠部に入った際、十三湊も津波で廃れました。安東船がなくなり、一族は多く散り、さらには東日流の大乱の長期化により故地を放棄し、時の安東尋季は以前の地を捨て、米代川の領主に移り、檜山城に主を受け継ぎました。
天明2年7月13日
油川与之介
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