前にも話題にしたことですが、普通の会社で来年も再来年も存続が保証されているのに、サラリーマンとしてストレスを感じるというのは私から見るととても贅沢な悩みです。ここではそういう適応障害的ストレスではなくて、トラウマのように何度も襲いかかってくるストレスについてちょっとメモしておきましょう。
記憶は時間的順番のあるエピソードとほとんど反射的に蘇る刷り込みとがあります。どちらも消すことなどできません。どんなつらい経験も、惨めな体験も、苦手な人物、動物、場所、状況も消し去ることはできないのです。ただ、変形することができます。これが人間の脳の優れて自己都合にできているところです。
まず、エピソードと刷り込み(反射的に蘇る記憶、言葉、色、音、臭い)を分離しましょう。そうしておかないと、刷り込みの断片からエピソードが蘇ります。エピソードは比較的変形しやすく、自分の都合で欠落(忘却)させることもできる様に出来ていますが、刷り込みの方はなかなか消えません。だから、エピソードを少しずつ変形(抽象化)して積極的に嫌な体験を思い出すようにします。いわば逆療法です。これは自分自身の辛い体験に対決できなければ成り立ちません。そういう時期が来るまで、時には20年も30年も待たなければならないかもしれませんが、生死に関わるストレスでもない限り数年以内で立ち向かえるものです。本当は明日にでも解決してしまいたいストレスかもしれませんが、少しずつ事象を変形させれば、不思議と現実の残響から離れてゆきます。忘れることができれば心配は必要ありませんが、忘れない内に自身のつらい経験、腸が煮えくり返る経験に対決変形できれば、いつか経験が自分から離れた遠いこととなって、自身の人生の糧にもなります。
どんなに今は出口がないと思えても、いずれ対決する時期が来て解決するという見通しに確信があれば、日々のストレスは、右から左と先送りして楽になることができるのです。ここでは見切りという経験でしか得られない能力が大切です。深層心理学や夢解釈と箱庭療法などに造詣の深かった河合隼雄は「うそは常備薬、真実は劇薬」とどこかで言ったか書いたかしていたらしいが、ここで言う先送りも一種の嘘であろう。同時に事象が変形できずに真実としてとどまり続ければ、いつまでも劇薬は劇薬のままであろう。しかし劇薬も薬の一種というのは根本的楽観による河合隼雄流の宗教的救済であろう。
私は不遜にも宗教の再発見を通じた死を体験しようと努力している。答えが見えた以上はもう後戻りはできない。ここに苦しみがある。55歳を過ぎてこのブログで始めた、死を論理的に体験するという探求の旅も、広い意味では死という究極ストレスの事前変形である。まだ旅の途中であるが。。。死そのものはむしろ解放であって、そこまでの道のりが誰しも苦しみ、あるいは後悔する。これほど明確な結末、究極的解決が待っているにもかかわらず、人は苦しみを抱える。苦しみは最後に清算される。そういう確信さえあれば、受け入れるか、変形するか、あるいは当面忘却する。しかし三番目の策は無策にすぎる。これまでの支配的宗教はこの無策に装飾したものにすぎないから人類は死に至る恐怖から逃れられず、まるっきり進歩していない。
私による、私のリンク集
記憶は時間的順番のあるエピソードとほとんど反射的に蘇る刷り込みとがあります。どちらも消すことなどできません。どんなつらい経験も、惨めな体験も、苦手な人物、動物、場所、状況も消し去ることはできないのです。ただ、変形することができます。これが人間の脳の優れて自己都合にできているところです。
まず、エピソードと刷り込み(反射的に蘇る記憶、言葉、色、音、臭い)を分離しましょう。そうしておかないと、刷り込みの断片からエピソードが蘇ります。エピソードは比較的変形しやすく、自分の都合で欠落(忘却)させることもできる様に出来ていますが、刷り込みの方はなかなか消えません。だから、エピソードを少しずつ変形(抽象化)して積極的に嫌な体験を思い出すようにします。いわば逆療法です。これは自分自身の辛い体験に対決できなければ成り立ちません。そういう時期が来るまで、時には20年も30年も待たなければならないかもしれませんが、生死に関わるストレスでもない限り数年以内で立ち向かえるものです。本当は明日にでも解決してしまいたいストレスかもしれませんが、少しずつ事象を変形させれば、不思議と現実の残響から離れてゆきます。忘れることができれば心配は必要ありませんが、忘れない内に自身のつらい経験、腸が煮えくり返る経験に対決変形できれば、いつか経験が自分から離れた遠いこととなって、自身の人生の糧にもなります。
どんなに今は出口がないと思えても、いずれ対決する時期が来て解決するという見通しに確信があれば、日々のストレスは、右から左と先送りして楽になることができるのです。ここでは見切りという経験でしか得られない能力が大切です。深層心理学や夢解釈と箱庭療法などに造詣の深かった河合隼雄は「うそは常備薬、真実は劇薬」とどこかで言ったか書いたかしていたらしいが、ここで言う先送りも一種の嘘であろう。同時に事象が変形できずに真実としてとどまり続ければ、いつまでも劇薬は劇薬のままであろう。しかし劇薬も薬の一種というのは根本的楽観による河合隼雄流の宗教的救済であろう。
私は不遜にも宗教の再発見を通じた死を体験しようと努力している。答えが見えた以上はもう後戻りはできない。ここに苦しみがある。55歳を過ぎてこのブログで始めた、死を論理的に体験するという探求の旅も、広い意味では死という究極ストレスの事前変形である。まだ旅の途中であるが。。。死そのものはむしろ解放であって、そこまでの道のりが誰しも苦しみ、あるいは後悔する。これほど明確な結末、究極的解決が待っているにもかかわらず、人は苦しみを抱える。苦しみは最後に清算される。そういう確信さえあれば、受け入れるか、変形するか、あるいは当面忘却する。しかし三番目の策は無策にすぎる。これまでの支配的宗教はこの無策に装飾したものにすぎないから人類は死に至る恐怖から逃れられず、まるっきり進歩していない。
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