離農
この言葉は、私が子供の頃の黒い不安の口が開いたままの地獄を思い起こさせる。
この言葉は、私が子供の頃の黒い不安の口が開いたままの地獄を思い起こさせる。
昭和28年、29年、31年の連続した北海道東部冷害はひどく、借金を背負いながら一家は開拓した農地から逃げた。農業がもし順調だったらどこかの高校を出て農業をしていたハズだった。
近隣の冷害を生き延びた農家も昭和35年頃にはほとんど離農していた。
しかし離農家族の地獄から奇跡のように蘇った人がいる。
しかし離農家族の地獄から奇跡のように蘇った人がいる。
関根恵子さん。
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我が家にとっていつかは農業に戻るつもりだった畑、親父が文字通りの原野を一人で拓いてつくった畑は、いつまでも借金の向こう側で遠かった。
我が家にとっていつかは農業に戻るつもりだった畑、親父が文字通りの原野を一人で拓いてつくった畑は、いつまでも借金の向こう側で遠かった。
曲折を経て標茶熊牛原野の親戚一家の間借から流浪、決意して我が家族は近隣のなかでは「大きな」街、釧路に出てくるが、農業に戻るには借金の返済は程遠い食うだけの状況で、結局10年後、血と汗と涙の土地も判を付いて手放すことになった。
昭和40年代好景気の日本でも、学歴のない両親、予科練卒の元海軍航空兵の父の学歴は世間では高等小学校卒相当、現在の中卒並み(なぜなら戦後長い間履歴書に軍の教育歴は書けなかった)、どこに就職しても一時雇用の嘱託採用で、どんなに飛び込み営業で数字を頑張っても正規社員になる見込はなく、北海道一位の営業成績を上げても受賞メッキの金杯で勝手に回し飲みされ、地縁のないことを小馬鹿にされ、プライドも捨てなければならず。
釧路での暮らしは安定せず楽にはならなかった。
その頃母は理由も言わずに駅前青果市場のバナナ叩き売りという流行の口上売りの仕事をやめてどこかへ出奔 (まだ若い親父の心得違いによっては、私が捨て子になる可能性さえあった。)
私の家族(私と父母)は生きる稼ぎを得るために、離婚こそしなかったが、ついに父母暮らしが離れ離れの仕事となり、昼間は私一人、遠い親戚の家に居候していた。それも母が居なくなって責められる逆縁の居づらさだったのか、新たな住所新川町のアカの他人であった近隣の大人に末っ子の様に預けられた。
アパート暮らしとは言っても薄給の保険調査員で父は出張留守がち、ありがたいことにアパートの廊下を挟んだ向かい側の人情厚い他人の後藤家の末っ子扱いをしていただいたのが唯一の頼りで、子供心に安全なところは他人の家だった。その後藤家の兄弟の皆さん、新川町の川人商店さんには本当に感謝している。
しばらくして母の消息がわかりカルルスで仲居の仕事をしていたようだ。
この新川町時代は完全に父子家庭。廊下を挟んで向かい側のアパートの住人の子供たちが、学校から帰ると、まだまともに口もきけない昼間の私の面倒をみてくれた。貧乏庶民人情の困った時はお互い様の互助精神のおかげだった。
いろいろあったのだろうが、幼児の私にも母はもう帰ってこないと思い、いつもみていた写真を破った記憶がある。
やがて父がより出張の少ない職種を市内の集金人の仕事を見つけ夜は家にいてくれるようになる。化粧品代理販売の卸営業を始めることになる一家は釧路に再集合できた。
この会社も三年ほどで厚生省の法改正してもなくならない無届け化粧品摘発をメーカーが受けその会社は在庫を抱えて突然倒産(ペルローズ化粧品の幹部が逃げる)する。今も夕食どきのTVでNHKが報じた白黒画面にペルローズ商品が出たことを覚えている。
離農の後この一家にはどこまでも不幸がついてきた。しかし両親のおかげで健康面だけは不安なく身体は丈夫だった。感謝である。二人とも他界した。
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同じ頃、同じ様な境遇の離農農家、磯分内熊牛原野から釧路に出てきた同じ年頃の女の子がいた。その関根家の父は保険外交員に仕事を帯広に求め、母と子は標茶熊牛原野を見捨てて東京に出た。一家の運命は3年後娘の芸能界入りで花開く。
高橋惠子 (当時:関根恵子)
「みゆきさんのことは、はじめ銀座のヤマハでポスター見て、その後で北海道の人だって知って、ずーっと関心もってたの」
中島みゆき
「私も惠子ちゃんのデビューのときからのファン。あれ『高校生ブルース』でしょ。それと同郷よね。私は札幌生まれだけど、それから岩内、小樽のほうと転々…」
高橋惠子
「私の生まれは、阿寒湖の近く」
中島みゆき
「それで“近所の人”って感じがしたわけ(笑)」
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一方私たち離農一家は借金と一緒に苦労した弟子屈町跡佐登(アトサノボリ)の開墾を捨てた直後、標茶熊牛原野に離農して居場所をそこの親戚に頼った。もしかしたら境遇だけでなく、ほんのこの時期だけ、物理的にも彼女の一家とは近かったのかもしれない。
その子は後に東京に出て幸運を掴み、関根恵子として15歳映画デビューする。現在の高橋恵子さんだ。本人には会ったことがないが高橋さんの旦那さん映画監督の高橋伴明さんとは恵比寿のバーOu(休業中)で会ったことがある。縁が掠ってる。
15歳フルヌード演技にはブルーリボン賞が与えられた。
追補 以下の、世代は大きく30歳以上違うが私が地元中学から進学した釧路湖陵高校の後輩にあたる阿部幸大氏が指摘する地方出身者のギャップ指摘は文化環境という意味で、正しい。金銭だけでない、受験一つにしても、社会環境がリアルを空気で知っているのは有利だろう。私も違う観点から同じようなことをハビトスとして以下に書いている。
地方から出た人間として地元はロケット発射台であって行き先ではないのです。
記事は、以下のツイートの拡散をきっかけに執筆依頼を受けて執筆している。
家庭が貧しいと教育が受けられず貧しさが再生産されるという話、もちろん大問題だけど、同時に知ってもらいたいのは、教養のない田舎の家庭に生まれると、たとえ裕福でも教育には到達できないってこと。教育の重要性じたいが不可視だから。文化資本の格差は「気付くことさえできない」という点で深刻。
— 阿部幸大/Kodai Abe (@korpendine) 2018年3月15日
高橋恵子2.5億円豪邸売却へ…50周年の陰にあった人生の転機
2020年3月27日
「昨年11月に、『引っ越すことになりまして……』と、惠子さんからご挨拶いただきました。