ローマの正史によれば、五賢帝時代、第二次ユダヤ戦争132〜135年で徹底的に破壊されたエルサレム(イェルサレム)にユダヤ人が入ることを許されなかった。これ以降のユダヤ人のディアスポラと、信じられているが、395年以降衰退した東ローマ帝国は分裂以前にはとっくにエルサレムを放棄して撤退したはず。有名なマサダの玉砕は第一次ユダヤ戦争のことです。
約1千人のユダヤ人が籠城したマサダ砦の戦いは、詳細な記録が残されている。マサダは切り立った岩山の上にあり、包囲したローマ軍団の指揮官・ルキウス・フラウィウス・シルバは力攻めは不可能と判断し、周囲の断崖を埋めて突入路を築く作戦を立てた。3年がかりで砦の絶壁が埋められ、完成目前となった突入路を見て敗北を悟ったユダヤ人集団は、ローマ軍の突入前夜に自ら集団自決した。73年の出来事とされるマサダ陥落で、ユダヤ戦争は終結した。
マサダは現代ユダヤ人にとり、民族の聖地となっている。イスラエル国防軍将校団の入隊宣誓式はマサダで行われ、士官学校卒業生は山頂で「マサダは二度と陥落せず」と唱和し、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さないことを誓う。
現代ではマサダの自決ばかり強調しますが、これでユダヤ戦争は終わってないんです。
『その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。』
ではなぜユダヤ人はエルサレムに戻れなかったのか、
一つのくじはアザゼルのためである。ユダヤ人こそがアザゼルであった。アザゼルが神のもとに帰ることはない。
戻る意思がなかったのか?その合理的説明は、公式には379年にキリスト教を国教化したということで全世界が納得しているが、では
ディアスポラ以後キリスト教国にユダヤ人がいなかったわけでは無いのにエルサレムにユダヤ人が戻れなかった、もちろん神殿建設はできないだろうが、居住できない理由はないのではないか?私はディアスポラの本質は大きな嘘でできているのではないのかと思う。詳細は不明だが、ディアスポラの後エルサレムは200年以上続くローマによるパルティア侵略戦争の拠点となったのだろう。しかし、そのパルティアが224年に内部から滅んでササン朝ペルシャの版図の中にエルサレムは入っている。ササン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展この地域を安定させた。この時代のエルサレムから世界に散ったユダヤ人はどこにいたのか?この時まだ宿敵イスラム教は生まれていなかった。
260年エデッサの戦い以降、エルサレムはローマから解放されていたはず。
ローマの正史によれば、五賢帝時代、第二次ユダヤ戦争132〜135年で徹底的に破壊されたエルサレム(イェルサレム)にユダヤ人が入ることを許されなかった。これ以降のユダヤ人のディアスポラと、信じられているが、395年以降分裂衰退し東ローマ帝国、分裂以前にとっくにエルサレムを放棄して撤退していたはず。ではなぜユダヤ人はエルサレムに戻れなかったのか。
戻る意思がなかったのか?その合理的説明は、公式には379年にテオドシウスが即位、なんとか西ゴートを抑えてローマは首の皮一枚で危機を乗り越えた。その協力をキリスト教徒に求めて392年ローマがキリスト教を国教化した。これによるディアスポラ確定という説明で全世界が納得している。
ではディアスポラ以後キリスト教国にユダヤ人がいなかったわけでは無いのにエルサレムにユダヤ人が戻れなかった理由はなんだろう。もちろんエルサレム神殿建設や建国はできないだろうが、居住できない理由はないのではないか?故郷に帰れないディアスポラの本質は大きな嘘でできているのではないのかと思う。詳細は不明だが、ディアスポラの後エルサレムは200年以上続くローマによるパルティア侵略戦争の拠点となったのだろう。しかし、そのパルティア(安息)が224年に内部から滅んでササン朝ペルシャの版図の中にエルサレムは入っている。
一体この時代のユダヤ人はどこにいるのか?260年エデッサの戦い以降、エルサレムは「解放」されていたはず。キリスト教を国教化説=ユダヤ人の流浪説に従ったとしても、少なくとも
260年から392年までの132年間、あれほどエルサレムに戻ることに執着しているユダヤ人は何をしていたのだろうか?
ササン朝は西方のローマ帝国と激しく抗争した。シャープール1世(在位241~272)はアルメニアに進出してローマ軍を破り、260年にはローマ帝国と戦って、エデッサの戦いで皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。シャープール1世は東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫した。ササン朝とローマ帝国の抗争はその後も続き、363年には都クテシフォン付近まで遠征してきたローマ帝国のユリアヌス帝を、シャープール2世のササン朝軍が破り、ユリアヌスは戦死している。
結論はエルサレムにユダヤ人は居住(家は城外の可能性が高い)していたということになる。マイナーな存在だっかもしれないが流浪は民の選択した習慣であって、民族の悲劇ではない。迫害が嫌なら帰れば良いだけのことだった。どこかの在日の言い分と似ている。