公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

柳田国男 布川のこと 「考えてみれば播州の三木家についで、布川の小川家は第二の濫読時代を与えてくれたのであった。」

2024-06-22 09:05:33 | 今読んでる本
布川のこと


 私は十三歳で茨城県布川ふかわの長兄の許に身を寄せた。兄は忙しい人であり、親たちはまだ播州の田舎にいるという淋しい生活であったため、私はしきりに近所の人々とつき合って、土地の観察をしたのであった。布川は古い町で、いまは利根川の改修工事でなくなろうとしている。
 最初驚いたのは子供らがお互の名を呼び捨てにすることであった。トラ、クマといったような呼び方は、播州の方では従兄弟か伯叔父甥、あるいは兄弟でなければしなかったのであるから、私にすれば、彼らがみな親戚の間柄だと思ってしまったのである。ところがそうではなく、ただ一緒に育ったというだけである。それも子供同士であれば符号みたいなものでいいわけだが、大人たちもやはり、他家の子を呼び捨てにする。例えば私の隣家は元地主の大きな商家だったが、そこの市五郎というめっかちの下男が、主人の子供を「ジュン」などと呼び捨てにしているから驚いてしまった。
 私の故郷辻川では呼び方に「ヤン」と「ハン」の二つがあり、「ハン」の方が少し尊敬の意がこもっている。私たち兄弟はあの時代にちょっと珍しい名で呼びづらく、「作」とか「吉」とかがついていずに、下の三人ともみな字の違った「オ」がついている。学校でも男、雄、夫の違いには随分困ったらしいが、私たちは「クニョハン」(國男はん)「シズォハン」(静雄はん)「テロハン」(輝夫はん)と呼ばれていたものだった。
 布川の町に行ってもう一つ驚いたことは、どの家もツバイ・キンダー・システム(二児制)で、一軒の家には男児と女児、もしくは女児と男児の二人ずつしかいないということであった。私が「兄弟八人だ」というと、「どうするつもりだ」と町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情は、子供心ながら私にも理解できたのである。
 あの地方はひどい饑饉に襲われた所である。食糧が欠乏した場合の調整は、死以外にない。日本の人口を溯って考えると、西南戦争の頃までは凡そ三千万人を保って来たのであるが、これはいま行われているような人工妊娠中絶の方式ではなく、もっと露骨な方式が採られて来たわけである。あの地方も一度は天明の饑饉に見舞われ、ついで襲った天保の饑饉はそれほどの被害は資料の上に見当らぬとしても、さきの饑饉の驚きを保ったまま、天保のそれに入ったのであろうと思われる。
 長兄の所にもよく死亡診断書の作製を依頼に町民が訪れたらしいが、兄は多くの場合拒絶していたようである。
 約二年間を過した利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。
 その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。
 地蔵堂があった場所は、利根川の屈折部に突き出し、そこを切ったことがあることから「切れ所しょ」と呼んだが、足利時代の土豪が築城した場所で、空濠があった。その空濠の中に、件の地蔵堂は建っていたのであるが、その向うに金比羅様があり広場があって、毎年春になると土地の景気の金比羅角力が興行された。
 面白いことにそこに一茶の句碑が建っていた。いまではもうその句碑も誰かに持ち去られた[#「持ち去られた」は底本では「持ち去された」]ということである。
 後年調べてみると、土地の古田という問屋の隠居が一茶に師事しており、一年に二、三回一茶が訪れているという事実が判明した。碑に刻まれた句は「べつたりと人のなる木や宮角力」とあり、私は子供心に一茶という名の珍しさと、その句の面白さを感じたものであったが、まだ一茶を知る人もないころのことである。


饑饉の体験


 饑饉といえば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、饑饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入らせる動機にもなったのであった。
 北条町にいた明治十八年のことである。それがおそらく日本における饑饉の最後のものだったろう。私は貧民窟のすぐ近くに住んでいたので、自分で目撃したのであるが、町の有力な商家「余源ようげん」をはじめ二、三の家の前にカマドを築いて、食糧のない人々のために焚き出しをやった。人々が土瓶を提げてお粥を貰いに行くのであるから、恐らく米粒もないような重湯であったかと思われる。約一カ月も、それが続いたように憶えているから、よほど大きな饑饉だったのであろう。私の母親も用心をして、人のうらやむようなものを食べてはいけないと、近所の人づきあいの配慮もあったのであろうか、毎日私たちもお粥を食べさせられたのであった。
 子供心に、こうした悲惨事が度々起るのではたまらないと思ったのが、学校を出るまで「三倉」(義倉・社倉・常平倉)の研究をやった動機である。その研究ノートが論文にならない前の形で、このほど発見された。そうした子供心の印象から、私は『救荒要覧』などを読まずにはおれなかった。確かまだ十三歳のそのころ、それを読んだのを記憶している。
 やがて私の長兄の家は、茨城県布川町から利根川を隔てた千葉県の布佐ふさ(現我孫子あびこ市)へと移った。兄は布川に永住する気は最初からなく、ある程度の産を成した上で帰郷する心積りであった。ところが借りていた家はその身内の人が移住してくるというので、とりあえず布佐へ移ったのが、そのまま兄の墳墓の地となり、同地に家族が永住することになってしまった。
 そのころ布佐の町は街道の、利根川を挾む中継所でもあり、相当繁華な所であった。早朝、土堤の上から眺めると、掛り舟が朝餉あさげの煙をあげており、美しい河川風景であったように記憶するが、その後川床が高くなるにつれて、地形も往時の面影のないまでに変容した。そこに住みついてすら有為転変を如実に感じさせる所である。この町は昔、芭蕉が『鹿島紀行』を書いたころは、網場(あじば)といって魚を獲る網を置いたところで、「夜の宿なまぐさし」などとも芭蕉は記している。茨城県側より水深も深く一時は栄えた宿場もあったが、それも位置を変えた。私は十五歳の時東京へ出て来て、時折帰った程度で、転変の歎きをそれほど身に沁みて感じなかったものの、やはり懐しい土地である。そこには両親も二人の弟たちも、私より二年ほど遅れて辻川から移り住んだのであった。


利根川のほとり


 下総の布川ふかわへ行ったのは明治二十年秋の初め、私の十三歳の時のことであった。それから約二年の間、私にとっては一日一日が珍しいことばかりに思われた。たんに親元を離れ、郷里から遠ざかっているというだけでなく、医者を開業している兄は新婚だし、書生として、われわれとまるで違った代診や薬局が三人ばかりいるし、その上、近所の人とは言葉が通じない、そんな状態であった。こんな中で私はいろいろと新しい経験をした。
 自分ではすっかり忘れていたが、布川の二カ年間、別れていた郷里の両親にやたらに手紙を書いたらしい。二年後に親がやって来ていっしょに住むようになったとき、「お前少し嘘を書いてよこしたね」といわれた。親を面白がらせようとして、いくらか文学的表現や、誇張を用いたのかもしれない。後に話すが、二匹の狐と隣家の刃傷沙汰など、異常心理にかられたと見えて、非常に詳しく報告したのであった。
 面白い二カ年であった。淋しいことは淋しかったが、誰も特別にかまってくれず、しかも新しいものは見放題。ザクロは酸っぱいものと思っていたのに、そこで食べてみると甘いザクロがあった。そういう種類の新発見、子供に利害の深い新発見というものが非常に多かった。私は学校へ入らず、身体が弱いからというので、兄貴は一言も怒らないことに決めてあったらしく、素っ裸で棒切れをもってそこら中をとびまわっている。それだけなら普通の悪太郎なのだが、帰って来るとやたらに本を読む、じつに両刀使いであった。
 そのころ東京では、尾崎紅葉が硯友社の仲間といっしょに『我楽多文庫』という同人雑誌を出していた。四六倍判で十六号まで出た。江見水蔭はまだいなくて、石橋思案その他四、五人の道楽者が集まってやっていた。明治二十一年のことだと思う。狐事件の時に手頸を斬られた隣の小川の小父さんがそれをもっていて、私は子供のくせに、その雑誌を見せてもらっていた。東京にいる石合いしあいという学者が、どういう知り合いか、小川家に新しい雑誌ばかり送ってよこしたものらしい。
 それが見たいために、小川さんを訪ねてゆき、傷をして退屈している小父さんの読み役をつとめていた。おそらくは上方訛で読んだろうと思うが、自分も楽しみ、小父さんも喜ばせたものだった。いちばん私の頭に残っているのが硯友社の『我楽多文庫』であった。今日では珍本といっているものを、出た当座読んでいたのであった。中には今考えて、本当に読まなければよかったというくらいに馬鹿げたことも書いてあったのを思い出す。あの時分はやっと坪内逍遙さんの『書生気質』が世の中に認められはじめたころだが、『小説神髄』などは見ていなかった。
 もっと愉快なことには、一方ではいちばん新しいはしりの文学に触れたと同時に、一方では非常に旧式なものも読んでいたのである。兄貴の家には代診と薬局の書生たちがいたが、その連中のとっていた雑誌は硯友社とは反対の側のもので、一つは『浮世雑誌』とかいった悪いことばかり書いてあったものと、今一つは『親釜集おやかましゅう』といって、都々逸の流行に乗じて皆がその競争をする雑誌であった。
 花柳界のもので、四六判の表紙に三味線の撥ばちを描き、中に『親釜集』と書いて、その脇に猫が聞いている画が描いてあった。書生がそれをとっていたので、そこへ行ってこういう花柳雑誌をよむ。一方では硯友社のはしりの文学や坪内逍遙の作に触れる。どうも博識ならざるを得なかったわけである。
 布川の小川氏に、東京からそのころとしては珍しい新刊書を送ってくれた石合という人は、幕末の有名な学者、田口江村の息子さんということであった。名前は震といった。小川家のどの代の人か知らないけれども、大変に学者を愛する人がいた。田口江村が維新の際に行くところがなくて困り、この家に来て、邸内に三間ばかりの長屋風の細長い家を建てて住んでいた。江村が東京へ帰るときに、家をそのまま小川家に引渡していった。
 その家を私の長兄が利用したのであった。幕末のころ江戸の周辺に縁故を求めて逃げていた人々が多かったが、これもその一つで、幕末の裏面史としては哀れな話であった。郷里から父がやって来たころには、まだ戸棚の中に羽倉外記はくらげきの文章なども残っていた。
 私は子供のことで、どうも分らないでしまったのだが、たぶんあの手頸を斬られた小川の小父さんにかなり世話になったものと見えて怪我の見舞いもよこすし、本や雑誌などもしょっちゅう送ってよこしたものらしい。隣の小父さんの方では、何を送って来たっていいんだと威張っていたが、ちょうど文学上にも新しい気運の向いている時分で、まだ『都の花』などの出ていないそのころに、退屈しているだろうからといって新刊を後から後から送ってくるということは、よほどの熱心と親切とがあってのことだろう。いずれにしてもなかなかできないことであった。
 こうして新刊書を読む一方、『親釜集』なども読み、その上、東京にいた次兄が、自分の読んだ本を読みきれないくらいたくさん送ってくれた。歌集などが多く、いくら読んでもさし支えのない本ばかりであった。
 県居あがたいの門下のものの著書とか、村田春海の歌集、千蔭の歌集など、どうしてそんなにたくさんの本を送ってくれたか、どんな方法で送ってくれたか、憶えていないが、ともかくついでのある毎に送り届けてくれるのであった。
 読書力のついた子供に、こんな古典ばかり送って知識欲を塞いでおこうとしても無理である。こちらはもっと事実が知りたいのだから、送ってくれたものは全部読んでしまうが、それだけでは物足りない。他のものも猟あさって読んでいた。学校へ行かなかったから、いくらでも時間がある。兄の方ではこっちに引張りつけようと努めていたのだろうが、私の方ではむやみにいろいろのものに目を通していた。後に両親が来てからは、まるで形勢が一変してしまった。やかましいことばかりいうものだから、私もだけれど、長兄も大変緊張してしまった。
 この二十二年の秋までの二カ年というものは、悪いこともいろいろおぼえたけれども、何だか自然の生活といったものが分ったような気がした。
 考えてみれば播州の三木家についで、布川の小川家は第二の濫読時代を与えてくれたのであった。
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