自分と信じているものがそもそも幻影である。これは死と同じく必ず出会う人生の関門、これこそが素心自覚のための試練煉獄。
生きている限り、理も情も己も幻影であり、死という鏡に写すならば山より高い理も、海より深い情も無色透明の影のようなものである。死の鏡に映る道理と情動の影の本体が素心であり、死を賭さなければ見えないのが素心。
凡人は自己を理解するために死を賭すことができぬゆえ、古来幾重にも重なる山脈のように理屈をこね、海溝のように深い欲望を永劫持ち続ける。このやり方では永遠に実のある真を問う創造が無い。これが業である。
しかし業にも効用はある。
人の業は人間存在の大きな矛盾ではあるが、業自身は悪でも善でもなく、生きていることそのものの欠陥として常に受容されるのであれば放置してよい。
人はいずれ望まなくとも平等に肉体の消滅とともに理と情の己の限界点(死に対する恐れ混乱)に直面する。このような死の効用が近づくだけでも人は生きることとして受容していた自己中心的価値が小さくなったことに気づく。だから生きながら死ぬという死の鏡に価値を写す習慣が大切になる。