「資本論第一部草稿 直接的生産過程の諸結果」
光文社古典新訳文庫 マルクス/著 森田成也/訳
2016年7月12日発売
定価(本体1,240円+税)
ISBN 978-4-334-75335-1
古典新訳文庫
判型:文庫判ソフト
「マルクスは当初、『資本論』を「商品」から始まり「商品」で終わらせる予定だった。資本主義的生産過程の結果としての「商品」は単なる商品ではなく、剰余価値を含み資本関係をも再生産する。ここから見えてくる資本主義の全貌。『資本論』に入らなかった幻の草稿、全訳!」
直接的生産過程の諸結果においてマルクスは言う。「資本制生産過程は、労働過程と価値増殖過程の統一である」と、マルクスのこの見解は実体論のレヴェルで間違っている。第一に労働者は賃労働以外の労働の選択肢を売ったのであって働く能力を売ってはいない。ここが崩れるとマルクス経済学の独自性である剰余価値の労働由来、能力の対象化という体系も崩れる。資本主義的労働過程は生産手段と生産対象の集中に特徴があるが、労働の能力まで倉庫に入れて、油をさして、グルグル回し絞りとることなど出来ない。ただ労働者に他の労働を諦めさせて、工場に集めるだけで、集めることが容易となった暴力の時代が先行している。歴史的解明を得意としていたマルクスがエンゲルスに押し切られた形で労働価値説に妥協している。
第二に実体のレヴェルで労働過程は同時に価値付加となるとは限らない。価値を認め決定するのは、商品を購入する流通過程の反対側の環境条件である。だからたとえ資本家に鞭打たれて労働した結果であったとしても、その時点では労働者は、従って労働者を支配している資本家もまた、主観的にはどうであったとしても、何らの価値も付け加えてはいない。JSミルの資本の解釈が正しい。すなわち第三に資本は過去の労働のストックである。ストックは分配しても良いし、再度同じ直接的生産過程に投じても良い。ただ後者だけが目的になる場合、ストックは産業資本である。賃労働発明以前つまりストックが産業資本ではなかったとしても、価値増殖する資本投資形態だけが最終的に社会に残存するというのは労働過程が価値増殖に支配されていなかったとしても自然な成り行きである。この過程に道徳的抑制も宗教的抑制も、ましてや政治的抑制も干渉も労働過程間の競争、賃労働の流動化により、無効になる。これはマルクスの結論からも論理矛盾なく成り立つ。
それではマルクスの直接的生産過程の諸結果は本質論のレヴェルでは正しいのだろうか?結論から言って価値増殖する資本制生産様式だけが最終的に共産主義社会にだけ労働過程=価値増殖が残存するという帰結は誤り。
なぜならばその投資形態が資本制生産関係だけとは言えない。自然環境が変われば投資の形態も変わりうる。歴史の中でストックの再利用は循環しながらその歴史的社会的(したがって科学水準の規定に制限され)投資形態が変化する。労働過程の歴史性を無視して、剰余価値がいつも生まれると考えるのはあまりにも浅はかな夜郎自大である。本質論のレヴェルで残るマルクスの労働過程理論の遺産は、唯一、労働の交換対価もまた競争と歴史的過程によって決定されるという慧眼である。
この自然な投資形態の歴史的淘汰過程(資本の原始蓄積と呼ばれるようになるもの)には私有財産の拡大が随伴する。どのような直接的生産過程を選ぼうとも、仮に資本制生産過程を廃止したとしても投資に伴う資産占有の本質は変わらない。資本家の占有から委員会の占有に変わるだけである。
さらに労働過程に対応する階級が直接的生産過程によって生じたり強化されたりするのではない。単に高度な生産過程に高度な管理が必要なだけである。マルクスは生産過程に含まれている労働過程と剰余価値過程を祭り上げることで、新たな物神崇拝を発明している。価値増殖の実際ははるかに不確実なプロセスである。
マルクスは再投資されて生産される(労働の対象化ともいう)成果物である商品と、そういう社会の前提となった過去の労働の成果物である原初の商品を区別して歴史的に商品の発展形態を概念的に把握しようと努力した(広告に書かれている商品から始めて商品に終わるという資本論の構成構想)形跡がある。しかし最終的には放棄されている。それはより一般的な理解では共産主義の必然性が導けないからだ。
概念についてヘーゲルは「概念は、向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念は、また体系的な全体であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。従って概念は、自己同一のうちにありながら、即時かつ対自的に規定されているものである。」と小論理学で述べている。デカルトは「あらゆるものの観念あるいは概念のうちには存在が含まれる。なぜなら我々は存在するものの相のもとにおいてでなければ何物も把捉し得ないのであるから。」と述べている。
(岡山メモ)
概念把握的思惟の場合は、《概念が対象自身の自己であり、自己が対象の生成として現れる》。この部分、神は存在(述語)であり同時に存在は神自身の生成である。よく見ればこのヘーゲルの主張は完全な汎神論である。それ故に多くの本で当時概念的に把握すると訳されていたBegreifenをしっかりと理解することが当時の自分に必要だった。
試みに対象と自己を入れ替えて《対象が自己の生成として現れる》としてみれば唯物論になる。これがヘーゲル左派であったマルクスの天才的発見=天才的悪の詭弁である。この詭弁もヘーゲル学徒マルクスがシェリングから学んだものだ。 《悪とは諸原理の積極的な転倒もしくは逆転に基づくもの》というシェリングの悪の研究『悪の起源について』(1792年) が根拠だ。
つまり繰り返すが、資本主義では、労働が流通過程を間に挟んだ反対側の環境条件、ストック流動と市場機会に支配されているのであって、資本制生産様式は社会的物理的条件と労働の実体である成果物を媒介する、現時点での社会システム過ぎない。その証拠にこのマルクスの説明では経営者労働を説明することができない。さらに次の疑惑を引用しておこう、マルクス『が書いた劇曲『オーラネム』には、サタニスト教会で行われる黒ミサの儀式が描かれていた。ヘレンさんはマルクスの最期の様子をこう語った。「彼は神に対して敬虔でした。最期を迎えるころは1人で部屋に閉じこもり、頭に帯を巻いて一列に並んだロウソクに向かって祈りを捧げていました」。『オーラネム』というタイトル自体はキリストの聖なる名の逆さづりであり、黒魔術ではそのような倒置に魔力があるとされる。
『オーラネム』の「演奏者」という詩のなかで、マルクスは自分のことを次のように書いた。
地獄の気が舞い上って、やがて私の脳を充満した
私は気が狂い、心が完全に変った
この剣を見たか?
闇の大王がそれを私に売った
私のために、彼は拍子を取り、合図をする
私の死の舞もますます大胆になる
』マルクスは社会を根底から破壊するために、その時世界を占有していた資本主義の根底を研究した。彼の超人的制作の動機はこれだけのことである。スポンサーがこれに目をつけた(あるいはマルクス自身が売り込んだ)結果、20世紀の終わりまでに数千万人が命を失った。
翻訳者に付け加えるなら、資本論を大月版で参照している限り、草稿も理解することはできないだろう。
すくなくとも心あるならば、マルクスを考察するためにはマルクスの批判しなかったものを知らなければならない。マルクスが継承したプロレタリアートという語彙の歴史も含めて。