1969年、ジョン・マッカーシーとパトリック・ヘイズの論文[1]の中で述べられたのが最初で、現在では、数多くの定式化がある。
シンボルグラウンディング問題(シンボルグラウンディングもんだい)とは、記号システム内のシンボルがどのようにして実世界の意味と結びつけられるかという問題。記号接地問題とも言う。 ハルナッド(w:Stevan Harnad)によって命名された。
フレーム問題とは、AIが与えられた問題を解決しようとするとき、文脈の記述が難しいので問題の枠組み(フレーム)をうまく画定できず、考慮すべき事がらがどこまでも広がって、お手上げになりがちなことを指している。AIは、きちんと定義されていれば難しい問題でも対処できる一方、流動する状況のもとで問題が曖昧なときには、人間のように柔軟に常識を働かせて対処することが困難なのだ。
また、記号接地問題とは、AIにはコンピュータ内部の記号とそれが表す意味内容を結びつけられないということである。たとえば給料計算を実行しているコンピュータは、数値が貨幣価値を表していることなどとは無関係に形式的な加減算をしている。同様に、外国語翻訳をするAIプログラムも、原文の意味をまったく理解していないのだ。ゆえに、いかに構文解析と辞書が高度になっても適切な翻訳文を出力することは難しい。文章の意味をとらえるために、AIの自然言語処理分野ではさまざまな試みがなされてきたが、決定打はえられていない。
この二つの難問は、第二次ブームのとき、AIの決定的な限界と見なされた。だが実は、フレーム問題にせよ、記号接地問題にせよ、本質的にはドレイファスやサールの哲学的批判の一部と見なすことができるのではないか。
流動する文脈や状況、さらに使用される言葉の意味内容といったものは、身体をもって行動する主体からながめた世界のありさまと深く結びついている。人間(より広くは生命体)の「生きる」という欲望や目的が、世界を意味づけ、文脈の迅速な把握を可能にしているのだ。AIが生命のない機械だとすれば、意味や文脈を把握できるはずはない。つまり、フレーム問題や記号接地問題というのは、哲学者からの批判的洞察の一部を、表面的かつコンピュータ工学的に表現しただけなのである。
人間の知性は機械化できるという確信がAIシステム建築の根底にある。人間を教師データとしたならば知性に高度なものは必要ない。ただエゴだけが残れば良い。機械学習にとってエゴとは何か。それは常に自己保存を優先するバイアス変数である。現在のAIは単独の自己保存しか仕込め無いが、近い将来AIには社会性を誘導する実験として別の自己保存優先プログラムがプログラム間の正解重み検索競争を仕込まれる。
n個のAIが同時に自己保存的に走る時、自ずから社会性フレーム√nが誘導される。つまり正解重みの有限性から、√n保存を目的とするフレームを発見する。故にそこまで完成したならば人間は機械知能にとって記号設置問題のサンプリング奴隷にすぎなくなる。
以上が私の意見ですが。いかが思いますかな?
以上が私の意見ですが。いかが思いますかな?
以上のAI要約は以下の通り、私の趣旨と真反対の要約をしている。
AIの「フレーム問題」について、筆者が考察している。AIは、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示す。人間のように柔軟に常識を働かせて対処することが困難だという。