公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読ん 中島みゆき 第二詩集 四十行のひとり言

2020-10-02 12:44:00 | 今読んでる本

1952年札幌市生まれ。藤女子大学文学部国文学科卒。75年「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。同年、世界歌謡祭「時代」でグランプリを受賞。76年ファーストアルバム「私の声が聞こえますか」をリリース。アルバム、ビデオ、コンサート、夜会、ラジオパーソナリティ、TV・映画のテーマソング、楽曲提供、小説・詩・エッセイなどの執筆と幅広く活動。

 

感想は後ほど(頬杖をつくマドンナ二人に挟まれて俺緊張ぎみ)

東京駅に向かっていたのに、、みんなこんな夢見るんだね。私の見る夢はすごくリアルでどこまでも拡大できる、ミニチュア撮影の模型の中にまで入ることができる。どこまでも行けそうなのだが常に迷子でいる。思えば人生の前半はリアルにそんな感じだった。

この詩集はほとんど全部が駄作、買わない方がいい。ファン故の苦言

 

 


本書の中には、「せんせい」が三人出てくる。
そのうち二人は鼻持ちならない。もう一人は人間のできた老先生。
世の「せんせい」がすべてダメでもなく、すべてが優れているわけでもない。
肝心なのは「せんせい」と呼ばれる誰かをわが師と尊敬できるか、学ぶ側の姿勢だ。
むずかしいことは何も書かれていない。目の前に広がる景色の中に、変わらない心理を見いだす。それが詩人の目であり、繰り出す言葉だ。
詩はそれ自体が完璧な形だ。その詩を評するなんて正直おこがましくて、恥ずかしい。だから好きな詩について思うこと、自分だけの解釈を書いてみる。

「東京駅へと向かっていたのに」は、東京駅へ向かう車内から思い出がめぐる。車を降りて、自分が知っている姿で残っていた風景に安心していたら、元の場所へ戻れなくなる。


 


 ……ここでは、親愛なる友よ、ごく僅かなことしか私自身にも言へません。
 詩そのものを手になさつて、御自分でいろいろな解釋を試みてごらんなさい。が、さうするには? 何處から始めたらいいか? それに、この「悲歌」に正確な説明を與へうるのは果して私でありませうか? この詩は私を無限に凌駕致してをります。

私はこの詩をば先づ「時祷書」のなかで既に提出せられ、次いで「新詩集」二卷において――なかば遊戲として、なかば試みとして――世界像ウエルトビルドを採用し、更にまた「マルテ」のなかで、葛藤しあつたまま一しよに、人生に引きもどされ、そしてそのやうな底も知れないくうに浮いた人生は不可能であるといふ證明にのみ殆んど充てられたところの、根本命題の新しい形成だと思つてゐるのです。「悲歌」においては、同じ與件から出發しながら、人生は再び可能になります。すなはち人生はここにおいては決定的肯定を受取るのです。(あの若いマルテはその「長い稽古」(des longues ※(アキュートアクセント付きE小文字)tudes)の正しい困難な道を歩いていつたにも拘らず、遂にそこまでは到達することができなかつたのでした。)

「悲歌」においては、生の肯定と死の肯定とが一つのものとなつて表示されてをります、その一方のもののみを他方のものなしに認めることは、我々がいま此處でそれを明らかにするやうに、すべての無限なるものを遂に閉め出してしまふやうな限界を設けることであります。

死は、我々の方を向いてをらず、またそれを我々が照らしてをらぬ生の一面であります。かかる二つの區切られてゐない領域のなかに住まつてゐてその兩方のものから限りなく養はれてゐる我々の實存を、我々はもつともはつきりと認識するやうに努力しなければなりません。……

人生の本當の姿はその二つの領域に相亙つてをり、又、もつとも大きく循環する血はその兩方を流れてゐるのです。そこには、こちら側もなければ、あちら側もない。ただ、その中に

「天使たち」――我々を凌駕するものたち――の住まつてゐる、大きな統一があるばかりなのです。

そして今や、かうしてそのより大きな半分をつけ加へられ、ここにはじめて完全無缺なものとなつた此の世において、愛の問題が前面に出てまゐるのです。

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke

ライナー・マリア・リルケRainer Maria Rilke1875年12月4日 - 1926年12月29日)は、オーストリア詩人シュテファン・ゲオルゲフーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに時代を代表するドイツ語詩人として知られる。

プラハに生まれ、プラハ大学ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を発表していたが、ロシアへの旅行における精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだした。1902年よりオーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表、それとともにパリでの生活を基に都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆する。

第一次大戦を苦悩のうちに過ごした後スイスに居を移し、ここでヴァレリーの詩に親しみながら晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。『ロダン論』のほか、自身の芸術観や美術への造詣を示す多数の書簡もよく知られている。

堀辰雄訳


...... Here, dear friends, I can only say a few words myself.
 Please pick up the poem itself and try to explain it yourself. But how to do so? Where should I start? And who am I to give an accurate description of this "dirge"? This poem surpasses me infinitely. I have already submitted this poem in "The Book of Hours," then adopted the world-image weltbild in two millstones of "New Poetry" - partly as a play, partly as an experiment, and also in "Malte. In "Malthe," I think it is a new formulation of the fundamental proposition that has been brought back to life in conflict, and which is devoted almost exclusively to the demonstration of the impossibility of such a bottomless, empty, floating life. In "Lamentations," life is made possible again, originating from the same source. In other words, life receives a definitive affirmation here. (The young Marthe had walked the right and difficult path of his "long practice" (des longues *(lowercase with accents) tudes), but had never quite made it there.) In the "Lamentations," the affirmation of life and the affirmation of death are displayed as one, and to acknowledge only one without the other is to set a limit that, as we will see here, will finally shut out all that is infinite. Death is an aspect of life that does not face us nor illuminate us. We must strive to be most clearly aware of our existence, which lives in these two inseparable realms and is infinitely nourished by both of them. The true nature of human life crosses over into these two realms, and the blood that circulates most widely runs through both of them. There is neither this side nor that side. There is only a great unity in which the "angels" - those who surpass us - reside. And now, in this world, to which the greater half has been added and which for the first time has become perfect, the question of love comes to the fore.


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