最近の私の心境を表したわけではないが、同じ問題意識を、武道という全く別の角度から著書にした内田樹先生の存在を最近知る。「修行論」(2013年4月)で先生は合気道とユダヤ教の哲学を研究して到達した修行の落とし穴が、合理主義、達成目標、我執(小我)にあると述べる。
修行というものに含まれる身体性、勘の磨きは、第三の直感に通じるものが大いにあり、鍛錬によって直覚が合理的な身体性である二者のキメラ的身体性を与える自然の答えが先に見えてくる。我執の無いものには身体的な解が見えるのだと言っている。
内田樹の言うところの「非常時には自我がリスクになる。」とは、まさしく武道的発想である。これはこれまで私が脳の虚構性で論じたもの、<分別という、ありもしない己に克つ>と極めて近い。人間は見たいものしか見ないという脳の性質を通した虚構と幻想の中に生きているから、思考の本体は自分を肉体的に非常時(死)に追い詰めなければ、降りては来ない。考えるということはまず身体的なことなのだと思う。そういう意味で武道は非思考の思考を見事に証明している。現時点の私の問題意識という投射である、死の論理的体験という私のアプローチにもそういう意味につながるものがある。まあしかし、内田樹からみれば、これも「居付き」という修行を阻む憑きもの、安岡正篤の言う「小成に安んじがち」という傾向の一種かもしれないのだが。
人は答えからしか悟ることができない。
耶蘇教の旧訳聖書に書かれ、伝説的に信じられているように、モーゼはシナイ山で十戒を刻まれた石版を神からもらった。私はモーゼはただ降りてきたものを書き写すだけだったと思うのである。
悟るとは、瞑想とは動きのない静寂ではない。瞑目することでもない。思いの枠組み(内田樹はこれを額縁のようなものと言っていたが)から自由になることである。自由になるためには、まず身体が答えを持つことに気づかなければならない。そのためには火事場の如き非常時に見る目を移して感を研ぎ澄ますということにほかならない。そのために同じ物を同じものとして見続ける怠惰な生き物である自分自身を追い詰めるのが修行。
合理主義からみれば極めて遠回りで、非合理的な世界観なのだが、これが本質から見た時に全く合理的な結論。
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