知の消費を創造と区別して論じる方がいるが、そういう論者は本を読んだり座学したりするインプットが消費、表現がアウトプットと思っているらしいが、それはΔ知のトランザクションを無視した語法定義による話者中心的誤りの論法です。
座学は誰かの知の消費を受け取っただけに見えるが、それだけで、受け渡した人に知の創造の契機を与えて取引はイーブンになっている。故にアウトプットはトランザクションが有ればなんらかのΔ知の創造である。逆に言えば出力側にとって知識がどんなに真理真実であってもトランザクションを経ない知識、相手に渡らない知識の胎蔵は知の創造ではない。くだらない空疎な日常であってもSNSで読み回される行為は知の創造である。炎上さえ知識の増加である。なぜならトランザクションのネットワーク自体が知識であり資本だからである。
人間の根底的絶望は一貫して食糧不足と疫病の蔓延と死だった。その絶望を乗り越える知恵が資本主義と金利だった。Δ知の知恵が無ければ、人間社会はふたたび原始の絶望に支配されたことだろう。
このようにわれわれは自分が育った半生とは全く違う時代に生きる。知識の消費が資本である社会は非常に分権的で、行為を前提に進化する。システムではあるが社会ではない資本主義。これこそが資本主義の生産性の停滞に発破を仕掛ける。最も生産性の低い官僚制と文書主義がAIの力で無意味になる。典型的には裁判所判事の判決恣意性が徹底して排除される。それも内部からではなくシステムではあるが社会ではない評価集団が決める。