公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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映画「桜田門外ノ変」

2014-01-01 00:00:00 | 日本人

 この映画は国会議事堂のカットで始まり、国会議事堂のカットで終わる。
 これだけでも、映画が今の政治に対するメッセージであることがわかるだろう。


 桜田烈士を単なるテロリストのように扱う歴史教科書やこれまでの明治維新史観とは異なる描き方をしている。
 関鉄之介をかくまう袋田の桜岡家の当主源次衛門

が重要な役目で出てくるのもこれまでに無い桜田門外の変の描き方だ。
 後に諸生党と天狗党の対立が先鋭になり、同じ水戸藩士、郷士同士が斬合う事になった経緯もこの映画を観るとよくわかる。
 水戸藩目付山口徳之進(山口正定*)(山口辰之介の甥 初代茨城県知事山口徳之進:山口は桜田門外の変から2年後の坂下門外の変の謀議に関った激派で、後の新撰組の芹沢鴨とも交流があった、しかし明治維新後のポジション爵位を考えると、山口は長州藩との水長盟約に功績があったと思われる、この投獄分記の文書が本物ならば高杉晋作にも会ったことになる)の地方裁判の補佐職のような仕事をしていたわが先祖岡山織之介(忠恕:天保五年生まれ父は勘右衛門)は、当然その後の水戸藩政治動乱に巻き込まれてゆく、1864年元治元年、おそらくは山口の伴として京都に出て、禁門の変の戦いで一橋慶喜公の遊撃隊《遊撃隊は、奥詰めを発展させた60名ほど集められたエリート親衛隊のち再編成される、五稜郭で戦う人見勝太郎(ひとみ かつたろう、天保14年9月16日1843年10月9日) - 大正11年(1922年12月31日も遊撃隊出身後に茨城県令)として紫宸殿階下を守る。


高橋多一郎時世の歌。

鳥が鳴く あづま建夫の まごころは 鹿島の里の あなたぞ知れ


他方、同門神発流の師匠であった福地政次郎は同じ年、常陸宍戸藩主松平頼徳に従い、天狗党に与して反乱を起こすも、翌年子勝衛門とともに捕らえられ切腹する。
 織之介自身は、中立派だったらしい。とはいえ尊皇攘夷の水戸学の影響下にあった。約四年の間、松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末大名陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主)。京都守護職高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。)公(容保公は桜田門外後水戸征伐中止を説得した水戸藩の恩人でもある)の仮陣屋であった、凝華洞に屯して宮門を守り慶応4年に依上村に帰郷。これを評価されて男爵に推挙されたが旅先で客死した。岡山家桜岡家のような天狗党を支援する行動はしていない。このような師弟兄弟近隣郎党相争う内部抗争と、激派の突出、斉昭の永蟄居中の急逝により、教育水準が高く開明的で、桜岡家のように経済力のある郷士民度の高かった水戸藩も、すっかり人材を消耗払底していた。回天神社に祭られている柱だけでも1,806人となる。

この遠因は、桜田門外ノ変、同挙兵する予定だった薩摩藩大久保利通の進言、敵前逃亡にある。

 

遊撃隊(ゆうげきたい)は、14代将軍徳川家茂死後に結成された幕府軍部隊

慶応2年(1866年10月22日講武所師範や奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成によって「遊撃隊」が結成され、槍術家の高橋泥舟や、剣客榊原鍵吉三橋虎蔵などが頭取を務める。

戊辰戦争では抗戦派と恭順派で意見が分かれ、抗戦派がさらに二派に別れた。一隊は村越三郎が率いて彰義隊と行動を共にする。もう一隊は伊庭八郎人見勝太郎岡田斧吉本山小太郎ら36名から成り、榎本武揚艦隊の協力を得て江戸を脱出。4月3日には請西藩主・林忠崇と同盟を結んで決起した。各地に転戦を続けるうちに脱走兵による隊士も増え続け、およそ300名となった5月上野戦争に参戦を図ったが敗退。その後も奥羽越列藩同盟軍に加わり抗戦を続けたが請西藩が恭順となり両同盟崩壊とともに隊士達の戦死降伏が相次ぐ。伊庭・人見ら90余名のみが榎本艦隊と共に蝦夷地へ渡り、箱館戦争に身を投じた。箱館では主に松前守備を担当した。



帰国発程ニ三日前の事なりしか、水藩士山口徳之進に出会し、色々と議論の後、余は両君公の誠意述べしに、徳之進余程感心致せしなり、日本国中に只今にては、尊皇攘夷の藩は水長両藩而已と申す論に立ち至る、左すれば合力同心し尽力致さるへけんやと切迫に論せしに、徳之進断然曰く、然れば君と同行、御国へ罷出、君公並公卿方に拝謁し、同心合力の契約を成さんとなり、余亦喜て諾之、遂に、久坂・山口・岡繁、山甲同行にて京師を発せり。

帰国の途につく2、3日前のことだったか、山口徳之進という水戸藩士に出会った。色々と議論した後、僕が両殿様の誠意について述べた所、徳之進はひどく感心していた。

そして、「日本国中で、今、尊皇攘夷の藩と言えるのは、水戸藩と長州藩だけだ」ということになった。「それなら、互いに心を合わせ、尊皇攘夷のために尽力するべきではないか」と切迫した面持ちで論じたところ、徳之進は「それなら君に同行して長州藩に赴き、君公ならびに公卿方に拝謁して、同心合力の契約を結ぼう」と言った。

僕は大喜びして山口に同意し、遂に、久坂、山口、岡部、山県、同行で京都を後にした。

*山口 正定(やまぐち まささだ、1843年10月18日(天保14年9月25日)- 1902年明治35年)3月21日[1])は、幕末水戸藩士、明治期の侍従海軍軍人茨城県参事侍従長宮中顧問官、海軍大佐男爵。通称・徳之進[1]明治天皇の側近[2]

水戸藩士・山口正直の長男として生まれる。尊皇攘夷派として活動。万延元年(1860年)、大番組となる。文久3年(1863年)、藩主徳川慶篤の上洛に随行し、京都の警護に従事。慶応4年(1868年)、藩政を勤皇に回復するよう命ずる勅を奉じて帰藩した。同年7月、北越追討軍を編成して戊辰戦争に出征[1][2]

 

  • 1^ a b c 『明治維新人名辞典』「山口徳之進」1031頁。
  • 2^ a b c 『朝日日本歴史人物事典』1736頁。


この映画はそのような水戸藩の激動と維新後の水戸藩の政治的没落につながる維新第一世代桜田烈士のひと太刀1860年から2年間の物語だ。二太刀が坂下門外の襲撃となる。

西郷隆盛の最後 海音寺潮五郎から
『私は 、 「晋どん 、もうよかろ 」と言った西郷のことばに 、 「もう天命がつきた 、死んでもよかろう 」という 、どこまでも天命にまかせ切った 、天の信者である西郷の心が出ていると思うのです 。それでは 、もし西郷が敵弾を受けず 、ついに官軍に捕えられたとしたら 、どうしたでしょう 。彼は生きつづけて 、裁判の場において 、大久保らと対決して 、堂々と所信を開陳し 、大久保らを難詰し 、維新の初一念を回復せよと要求してやまなかっただろうと思います 。この形で 、天は自分に使命を課しているのだと信じたはずです 。死をいさぎよくするなどということは 、彼においては小我の所為としか考えられなかったはずです 。』

流血の1860年~1877年これで20年の嵐が終わる。

山口正定 やまぐち-まささだ

1843-1902 幕末-明治時代の武士,官僚。
天保(てんぽう)14年9月25日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。尊攘(そんじょう)派。京都の守護にあたり,慶応4年帰藩。戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に参加。維新後は宮内省にはいり,侍従長,宮内大書記官などを歴任。海軍大佐。明治35年3月21日死去。60歳。通称は徳之進。


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