内田樹氏と著作はこのブログで何度も登場している。ふむふむ実存主義のサルトルは世間では其のように権威を失ったのか、ふむ。私とぜんぜん違う否定の仕方よ。などと
一度目は電車の中での寝ながらの読了だったので、今度は姿勢を正して、読了せねば。
感想は後ほど。
『サルトルは 「歴史 」を窮極の審級とみなします 。それは未開から文明へ 、停滞から革命へと進む 、単線的な歴史プロセスの上ですべての人間的営みの 「正否 」を判定するということです 。しかし 、レヴィ =ストロ ースによれば 、サルトルが 「歴史 」という 「物差し 」をあてがって 「歴史的に正しい決断をする人間 」と 「歴史的に誤りを犯す人間 」を峻別しているのは 、 「メラネシアの野蛮人 」が 、彼ら独自の 「物差し 」を使って 、 「自分たち 」と 「よそもの 」を区別しているのと本質的にはまったく同じふるまいなのです 。』
『そして 、レヴィ =ストロ ースはこう断定します 。
「サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される 。それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである 。逆に 、民族学者にとって 、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である 。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ 、これを研究することが不可欠であるだろう 。 」
この批判は戦後のあらゆる論争を勝ち続けてきた 「常勝 」のサルトルを一刀両断にしました 。傷ついたサルトルは 、構造主義は 「ブルジョワジ ーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギ ー的障壁 」であるという定型的な反論を試みました 。サルトル主義者たちは領袖に唱和して 、構造主義はブルジョワ ・テクノクラ ートの秘儀的学知であり 、「腐敗した西欧社会 」の象徴であり 、構造主義を叩き潰す 「自由な精神 」は 、 「ヴェトナムの稲田 、南アフリカの原野 、アンデスの高原 」から 「暴力の血路 」を切り開いて西欧に攻め寄せるだろうと予言したのです 。 「歴史の名においてすべてを裁断する権力的 ・自己中心的な知 」として実存主義は批判されたわけですが 、それに対して 、サルトルは 「歴史の名において 」死刑宣告を下すという無策をもって応じました 。こうして実存主義の時代はいかにも唐突に終わったのでした 。』
なんとも無残なサルトルの最期。私は実存主義が自由こそが自分たちの歴史的戦利品だと浮かれているその足元を攻撃したが、「1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において」、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日)は思考に内在する虚構を攻撃した。
なぜ思考が虚構を内在するのか?それは私という意味の三重性に原因がある。魂の内在を内に感じている私とそれが見ている動く実在の私、そして実在から遊離した私という表象の三重が、思考を文字にした思想(絶対価値)になった時には、どの私にとっての絶対価値を言っているのか動く私を混乱させるので、虚構がこの混乱を実在(実存)として補正する。例えるなら、狂った時計の針を「正しく」読み取るための補正思想が実存主義である。補正には主体や能動がない。空っぽである。
一度目は電車の中での寝ながらの読了だったので、今度は姿勢を正して、読了せねば。
感想は後ほど。
『サルトルは 「歴史 」を窮極の審級とみなします 。それは未開から文明へ 、停滞から革命へと進む 、単線的な歴史プロセスの上ですべての人間的営みの 「正否 」を判定するということです 。しかし 、レヴィ =ストロ ースによれば 、サルトルが 「歴史 」という 「物差し 」をあてがって 「歴史的に正しい決断をする人間 」と 「歴史的に誤りを犯す人間 」を峻別しているのは 、 「メラネシアの野蛮人 」が 、彼ら独自の 「物差し 」を使って 、 「自分たち 」と 「よそもの 」を区別しているのと本質的にはまったく同じふるまいなのです 。』
『そして 、レヴィ =ストロ ースはこう断定します 。
「サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される 。それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである 。逆に 、民族学者にとって 、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である 。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ 、これを研究することが不可欠であるだろう 。 」
この批判は戦後のあらゆる論争を勝ち続けてきた 「常勝 」のサルトルを一刀両断にしました 。傷ついたサルトルは 、構造主義は 「ブルジョワジ ーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギ ー的障壁 」であるという定型的な反論を試みました 。サルトル主義者たちは領袖に唱和して 、構造主義はブルジョワ ・テクノクラ ートの秘儀的学知であり 、「腐敗した西欧社会 」の象徴であり 、構造主義を叩き潰す 「自由な精神 」は 、 「ヴェトナムの稲田 、南アフリカの原野 、アンデスの高原 」から 「暴力の血路 」を切り開いて西欧に攻め寄せるだろうと予言したのです 。 「歴史の名においてすべてを裁断する権力的 ・自己中心的な知 」として実存主義は批判されたわけですが 、それに対して 、サルトルは 「歴史の名において 」死刑宣告を下すという無策をもって応じました 。こうして実存主義の時代はいかにも唐突に終わったのでした 。』
なんとも無残なサルトルの最期。私は実存主義が自由こそが自分たちの歴史的戦利品だと浮かれているその足元を攻撃したが、「1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において」、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日)は思考に内在する虚構を攻撃した。
なぜ思考が虚構を内在するのか?それは私という意味の三重性に原因がある。魂の内在を内に感じている私とそれが見ている動く実在の私、そして実在から遊離した私という表象の三重が、思考を文字にした思想(絶対価値)になった時には、どの私にとっての絶対価値を言っているのか動く私を混乱させるので、虚構がこの混乱を実在(実存)として補正する。例えるなら、狂った時計の針を「正しく」読み取るための補正思想が実存主義である。補正には主体や能動がない。空っぽである。