
観月山から見た構図 左端が御文庫、御殿(正面)と守護宅(右奥)
実際に行ってみてわかることがある。光圀の隠居所のように伝えられる西山荘は破却された古い砦跡に建っているということ。水源があり狭い谷間に幾つかの家臣屋敷を前衛とする配置から見て砦の形跡がある。当時近隣の太田城跡がどれほど機能していたか情報がないが、佐竹転封{慶長7年(1602)9月後}それほど時を経ていないので遺構も残り太田城は少しの整備で城に戻すこともできたのではないだろうか。どうして水戸の北方なのに西山なのか、多分だが、その名、西山は太田城との関係を示唆していると思った。
この地形をみて徳川光圀に興味を持った。最も小さな見積でも少なくとも3000石積載という巨船快風丸の死後3年破却(建造がそもそも違法のお目こぼしであったという説もある)あるいは(土)人払い下げも不思議な始末である。故に幕府とは対立することが多かったのだろう。
今となっては想像の域を出ないが、この砦単独で幕府を覆す兵をあげることはできない。挙兵や籠城には西山荘は狭すぎるのだ。見方を変えれば光圀はこの砦に(逼塞させられた外見を見せ)隠居した元藩主と言えなくもない。
それほど光圀の行政能力、陸と海の機動力は恐れられていた。元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継いだ。翌15日、権中納言に任じられ11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山の隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳ら60余人が伺候(多くないか)した。しかし光圀は三年後の元禄7年には隠居後初めて江戸に登り、人を、それも重用した家老の藤井徳昭を能の鐘馗を演じる前殺し、平気に能を仕舞えて帰っている。水戸藩は創立から幕府内野党だったのだろう。
尊神儒而駁神儒崇佛老而排佛老
瑞竜山墓所設置と初代頼房死亡時に殉死を禁止したことは藩主光圀の最初の仕事である。
水戸藩第2代藩主徳川光圀が初代藩主徳川頼房の遺志を受け継ぎ、寛文元年(1661年)に久慈郡のここを墓地と定めた。延宝5年(1677年)には伯父の武田信吉、生母谷久子の墓を改葬した。全山深い木々に覆われ、その所々に歴代藩主の墓がある。一般公開はされていない。残念なことである。