写真は釈迦堂遺跡の縄文土器
『世界史では、打製石器が普及してから後に、石を磨いて作った磨製石器が出現し、旧石器時代から新石器時代に移行しますが、日本ではなぜか最も古い年代の石器が磨製石器で、その理由は謎とされています。それどころか、日本各地の遺跡で発見された初期の局部磨製石斧(刃先を研磨した石斧せきふ)は、約三万五〇〇〇年前のもので、現在のところ世界最古の磨製石器です。磨製石器の出現は、考古学上は、文明成立の条件の一つとされていて、日本列島は世界に先駆けてこの条件の一つを満たしたことになります。また、局部磨製石斧が最初に発見されたのは岩宿遺跡で、その後全国一〇〇以上の遺跡から発見されています。そのため、相沢忠洋の発見は、日本にも先土器文化があったことだけではなく、世界最古の磨製石器が日本で出土したことを示す、きわめて重大な発見だったことになります。ただし、先土器時代については不明な点も多く、今後の研究成果が期待されます。』不合格教科書より
あまり教えてもらえてない旧石器時代はもう一度見直す必要があるだろう。3万5千年前の根拠は何処かにあるのだろうか 図のATが姶良丹沢火山灰層
南関東地方の厚い火山灰起源の風成堆積層を有する旧石器遺跡の層位的知見によると、磨製石斧は姶良Tn火山灰(AT:約28,000~25,000年前)降灰層(第VI層)以前で、立川ローム第XI・X層(約40,000~30,000年前)中に集中して発見される。全国の遺跡から出土している同種磨製石斧も、姶良Tn火山灰層前後の地層や、C-14年代測定値で約40,000~30,000年前の文化層に集中している。
岩宿遺跡は、赤城山の南東、渡良瀬川右岸地域の小残丘に立地しており、丘陵の北部は「稲荷山」、南部は「山寺山」および「金比羅山」(琴平山とも)と呼称される。稲荷山と山寺山の境をなす低い鞍部には町道が通っていたが、相沢忠洋によれば、初めてローム層[† 1][2]中で打製石器を発見したのは、この道路の切通においてであった。相沢は当時、納豆の行商をおこないながら熱心に考古学研究にいそしんでいた。
1949年(昭和24年)、杉原荘介の主導による明治大学の発掘調査で、切通の北側がA区、南側がB区と命名され、A区において上下2層の石器文化層が確認された。
下層の黒褐色層岩宿I文化(約3万年前)と呼ばれる石器群は、地表の下約1.5メートルの中部ローム最上部の暗色帯中に包含されており、楕円の形状をなす打製石斧2点の他[† 2][3]、掻器類、2次加工のある刃器状剥片、石核があり、石材には主に頁岩が認められる。同層からは多数の自然礫やクリ材の炭化物もみられた。この結果は、旧石器時代の段階における植物資源の広汎な活用を示唆する。この暗色帯の最上部には姶良Tn火山灰(AT火山灰)が確認されており、このことより、岩宿I文化の年代は今から2.5万年以上前にさかのぼると考えられる。(姶良カルデラは2.9万年〜2.6万年前に訂正されているので、もっと古い)
A区上層の黄褐色層岩宿II文化(約2万年前)は、上部ローム層中に含まれる切出状のナイフ形石器を指標とする文化で、瑪瑙、頁岩、黒耀石、安山岩などさまざまな石材が用いられている。
1949年11月に京都で開催された日本考古学協会第4回総会で岩宿遺跡の発掘調査が報告されたが、誰も問題にしなかった。その後、杉原・芹沢は、つぎつぎと旧石器時代の遺跡を発見し、1965年にそれらを集大成したときには北海道から九州地方までの旧石器時代の遺跡の数は359ヵ所に上った。
15年以上学術誌は無視していた。
姶良Tn火山灰(あいらてぃーえぬかざんばい)は、約2万9千年前~2万6千年前に姶良カルデラの巨大噴火で噴出した大量の火山灰である。(以前は約2万5000年前~2万年前と考えられていた。)Tnは丹沢を示す。この大噴火で噴出した火砕流が陸上を流れて堆積したものが入戸火砕流で、「シラス」の通称でよく知られている。同時に噴出した火山灰のうち、空中高く吹き上げられ、偏西風に乗って東方へ飛んでから地上に降下したものが姶良Tn火山灰 (AT) となった。
日本中に分布する旧石器
日本の旧石器文化に発見される斧形石器の刃部磨製例は、名実共に「磨製石斧」と呼べる形態を示す器種である。世界の旧石器時代遺跡からの磨製石斧の発見例は少なく、オーストラリアにやや集中して発見されている例は非常に特殊なものである。楕円形の扁平自然礫をそのまま打調を行わないで、着柄部に溝が走り自然礫面と研磨痕は明瞭でない。年代は2万年代を最古に、かなり新しい時期にも存続している。日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3~4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。つまり現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある。
平成十年(一九九八)、青森県外ヶ浜町の民家の建て替え工事にあたり、旧蟹田町教育委員会が行った発掘調査で発見された土器が、世界の考古学の歴史を大きく塗り替えることになりました。 発見された土器は、すべて小さな破片で、模様はありませんでした。付着していた炭化物などを試料に行った放射性炭素年代測定法による検査により、出土した土器は、約一万六五〇〇年前の世界最古級の土器であることが分かったのです。この測定の結果、日本における土器の出現がこれまで考えられていた時期より約四〇〇〇年遡りました。 また、この遺跡から出土した石鏃(石でできた矢尻)は世界で最古のものと見られています。また、土器の内側には焦げた炭化物が付着していたことから、この土器は煮炊きに使われていたことが分かっています。そしてこれは、人類最古の調理の跡とされています。 この遺跡は大平山元Ⅰ遺跡という縄文時代草創期の遺跡で、現在は国の史跡に指定されています。 ところで、放射性炭素年代測定法とは、年代を測定する方法の一つです。大気や海水にはわずかな量の「炭素一四」という放射性同位体が含まれていて、生物の体内にも取り込まれます。大気中の炭素一四の量はほぼ一定ですが、炭素一四は五七三〇年ごとに半減する性質を持っているので、動植物の遺物に含まれる炭素一四を測定すれば、死んだ年代を特定することができます。 世界史においては、磨製石器と土器を使う時代を新石器時代といいます。日本では、世界的に見てかなり早い段階で素焼きの土器に縄の模様をあしらった縄文土器が作られるようになりました。それをもって縄文時代の始まりと定義していました。大平山元Ⅰ遺跡の土器には縄の模様はありませんが、この土器の出現で、縄文時代の始まりが遡ったことになります。この時代の文化を縄文文化といいます。縄文時代は水田稲作が広まる紀元前十世紀頃まで続きます。
最近の発見によりこの説は訂正を必要としている。
平成十七年(二〇〇五)、岡山県の彦崎貝塚の約六〇〇〇年前の地層から大量の稲のプラントオパールが見つかって、縄文中期には陸稲栽培(稲を畑で栽培すること)をしていたことがほぼ確実となりました。日本の稲作の開始は、陸稲栽培が約六〇〇〇年前、水稲栽培(稲を水田で栽培すること)が約三〇〇〇年前まで遡れることになります。プラントオパールとは、イネ科の植物が枯れたときに、土に残るガラス質の物質で、植物の種類によって形状が異なり、一万年以上たっても消滅することはありません。 不合格教科書