『その頃 、幕府がいよいよ五月十六日に江戸を将軍が進発するという軍令を出したことが 、京都に伝わって来た 。歩兵を従え 、砲兵は馬に砲を曳かせ 、老中四人 、若年寄四人が供をし 、従う大名は総督紀州藩主徳川茂承以下 、親藩 ・譜代合して十六家ということであった 。この時のことを 、松平春嶽がその著 「逸事史補 」にこう書いている 。「後で聞くと 、長州再征については 、幕府は大いに明るい見通しを持っていた由である 。巨石をもって卵を圧するがごときもので 、速かに勝利を得ることが出来ると信じていたという 。こんどの再征を非とするのは 、第一は薩藩であり 、第二は土佐藩であり 、次に多数の外様諸藩があった 。幕府部内では 、天下が現在のように動乱するのは 、つまりは薩 ・土をはじめ尾州 ・越前 ・熊本 ・肥前 ・筑前 ・因州等の諸藩が勝手に朝廷に入説するためである 。これらの諸藩は天皇にたいする一筋の勤王を唱えて 、幕府にたいしてはその倒るるを待っている憎むべきやつばらであるとして 、長州を攻め潰した後は 、薩 ・土 ・越 ・尾 ・肥前 ・筑前 ・因州等を次々に追討せんとの遠謀があった由である 。これは事実であったと思われる 。余にたいしても 、貴下には幕府も厚遇しているが 、それは表面だけのことであるから 、決して油断なさるなと忠告してくれた人もあった 」この春嶽の追憶談と 、フランス公使レオン ・ロッシュの暗躍とを考え合せると 、幕末維新史の最も興味ある側面があざやかに浮かんで来る 。ロッシュはこの後しばらくすると 、全力的に幕府に肩入れして 、 「金も貸しましょう 。兵器も用立てましょう 。先ず長州をたおし 、次に薩摩をほろぼしなさい 。この両藩を潰せば 、あとは手に立つ藩侯はありませんから 、全部廃止して 、日本を徳川氏の主宰する郡県制度の国にしなさい 」とすすめ 、幕府はその気になるのだが 、それがもうこの頃からはじまっていたと見てよかろう 。』
慶応元年に改元される年の五月、日本はフランスの植民地になる歴史岐路の瀬戸際にあったことがわかる。
『別にフランス公使レオン ・ロッシュは 、腹心の通訳官メルメ ・デ ・カシヨンをつかわして 、閣老らに説かせたばかりか 、口上書まで持たせて差出している 。カシヨンに言いおとしがあってはならないという配慮からである 。これは外国人の書いた日本文で 、まことにわかりにくいから 、ぼくが書きなおして 、次にかかげる 。意味は正確なつもりである 。
わがフランス政府は 、大君殿下 (将軍 )が長州征伐を猶予しておられることを理解に苦しんでいます 。大君殿下は軍を進めずして 、彼が悔悟して降伏して来るのを待って 、日を費しておられますが 、今日までそれは何の効もありませんでした 。この分では 、あるいは彼は偽って降伏の申立てをしたり 、あるいは彼を取りなす者が出て来たりして 、せっかくのご進発がウヤムヤな結果になるのではないかと 、心配になりましたので 、私はまいったのです 。そもそも国民にたいして仁恵のあるのは 、人君の本務でありますが 、そのために決断を欠くようなことがあっては 、天子よりあずけられ 、先祖から受けついで来られた天下が乱れを来たして 、その仁恵はかえって不仁となるでありましょう 。今の日本の情態を考えますに 、上には天子の叡慮の一定せざるあり 、下には非義なる大藩の叛逆があって 、この二つこそ 、貴国の泰平を阻害するものでありましょう 。幕府が外国と条約を締結されたのは 、幕府が天子から委任されている大権によって 、世界の情勢の変化にかんがみて 、時宜に従われたのです (勅許はなくても少しも違法でないことを言ったのである ) 。すでに条約が結ばれた以上 、天子も諸侯方も 、幕府の処置に従わるべきで 、これに異議をとなえて不服従であっては 、かえって不慮の擾乱がおこることになりましょう 。我ら外国政府においては 、幕府にそむいて内乱をなす逆徒らを伐つ相談がすでにまとまっていますから 、それが実行に移されたら 、幕府としてももうこれを制止は出来ないでありましょう 。なかんずく 、イギリス政府の行動を見ますに 、交易をもっぱらにして自国の利益のみを追求して 、幕府にたいしては今や次第に疑惑を抱き 、大君にはもはや条約を履行する誠意はなく 、もっぱら鎖国を考えていると思いこんでいます 。その上 、薩州侯と長州侯とがイギリスに密使をつかわし 、我々の藩はいつでも開国貿易するであろうと申し入れましたので 、英国は 、諸大名は外国と親しく交際したい考えでいるのに 、幕府だけが鎖港を考えていると 、一層疑惑するようになりました 。私のこのことばをあるいはお疑いかも知れませんが 、私はたしかに見定めるところがあって申しているのです 。英国公使パ ークスは 、英国のこれらの疑惑を明らかにするために上坂して 、実否を弁別しようとの考えでありますから 、私は過日熱海で 、外国奉行山口駿河守殿 、栗本瀬兵衛 (明治になって鋤雲 )殿にことづけて 、大君殿下が早く勇断して 、条約の実行にふみ切られるようにと 、閣老方にまで申し上げておきました 。この頃 、英国公使がしきりに上坂を言いはりましたが 、それは前述の通り 、薩摩や長州が自ら開港して外国と貿易し 、親和したいなどとうまいことを言っているため 、それに乗せられて幕府に不満を持っているからであります 。私は英公使をいろいろ説諭して一時は上坂を猶予させたのでついには駄目でした 。これ以上 、両都両港の開港を延期なさるべきではないのです 。いつまでも延期しておられては 、ついには諸外国との戦争に発展しましょう 。そうなりましては 、日本にとってこれ以上の災厄はありません 。〈略〉』