『明治三年七月 、薩藩士横山安武 (後の文部大臣森有礼の実兄 )が 、時勢に慷慨して 、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に提出して太政官正院の前で自殺したことがあったが 、後に安武の碑が立つ時 、西郷は身参議でありながら 、自ら筆を取って 、その激烈な慷慨の情に共鳴同感する意味の碑文を草している 。安武の不満は西郷の不満であったのである 。』
西郷隆盛は日本国家再統一の父である。イタリアの統一は明治三年、ドイツは明治四年ということを忘れてはいけない。
横山 安武(よこやま やすたけ、天保14年(1843年) - 明治3年7月26日(1870年8月22 日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての薩摩藩士。初名は正太郎。 ... 生涯[ 編集]. 天保14年(1843年)、薩摩藩士・森有恕の四男として誕生。弟に森有礼がいる。横山の墓は東京杉並区にある大円寺と、鹿児島市・福昌寺跡墓地の由緒墓もあり、その隣に西郷隆盛起草(明治五年八月)の顕彰碑がある。
『史談と史論』より、
『明治三年七月二十六日に 、薩摩藩士横山安武 (後の文部大臣森有礼の実兄 )が 、新政府の腐敗を慷慨して 、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に差し出し 、太政官正院の前で切腹して死んだという事件がおこった 。その十ヵ条を少し上げてみよう 。
一 、旧幕府の悪弊が新政府にも移って 、昨日非としていたことを今日では是としている 。
一 、官吏らその高下を問わず 、から威張りして外見を飾り 、内心は名利のとりこになっている 。
一 、政令朝に出でて夕べに改まり 、民は疑惑して方向に迷っている 。
一 、駅毎に人馬の賃銭を増し 、その五分の一を交通税として取っている 。
(鉄道運賃の値上げなどこれですな )
一 、政府が心術正しき者を尊ばず 、才を尊ぶがために 、廉恥の気風は上下ともに地をはらっている 。
一 、愛憎によって賞罰する 。
一 、官吏が上下ともに利をこととし 、大官連がわがままで勝手なことをすること目にあまる 。
この横山の碑が明治六年に東京に建てられた時 、西郷はその碑文を書いているが 、その中にこうある 。 「この時にあたり 、朝廷の百官 、遊蕩驕奢にして事を誤るもの多く 、時論囂々たり 。安武すなはち慨然として自ら奮つて謂く 、王家衰弱の極ここに兆す 。いやしくも臣子たるもの 、千里万慮もってこれを救はざるべからず 、而も尋常の諫疏は 、百口これを陳べ力むといへども 、矯正する能はざらん 、寸益なきのみ 、一死もつてこれを諫むるにしかず 、もし感悟するところあらば 、豈に小補なからんやと 。すなはち諫書を作り 、持ちて集議院に至り 、これを門扉に挿みて退き 、津軽邸の門前にて屠腹す 」西郷は横山の憤りに同感し 、その行為に共鳴しているのだ 。身参議でありながらだ 。』
再び「雲竜の巻」より
『板垣退助の談話としてこんな話も伝えられている 。西郷が一向太政官会議にも出勤しないので 、板垣が病気と思って見舞に行くと 、西郷は病気ではなかったが 、ひどく憂欝げな顔をしている 。 「どうなさったのです 」と 、板垣が言うと 、西郷は答えた 。 「わしは近々に役目をひいて 、北海道に行って百姓になろうと思うとります 。今の世の中は 、わしなどの言うことはまるで行われはしもはん 。わしはもう精が切れました 」板垣は容を正し 、声をはげまして言った 。 「これは心得んことを申される 。一体 、旧幕を倒して新政府を立てた中心人物は 、あんたじゃありませんか 。そのあんたが 、そんなことを言って逃げようとなさるのは無責任でありますぞ 。政府に悪いところがあるなら 、なぜこれを正すことに努力なさらんのです 」すると 、西郷は満面真赤になり 、汗を流し 、ガタガタふるえ出した 。あの巨体だから家鳴り震動した 。ポロポロと涙をこぼしながら 、西郷は押し出すように言った 。 「すまんことを申しもした 。いかにもあんたの仰っしゃる通りでごわす 。お互いしっかりやりもそ 」この話は 、西郷の無比の誠実さを物語る話であるが 、同時に 、彼がいかに新政府のありように不満であったかを語るものである 。』
『史談と史論』より、百姓というキーワードはこういう姿勢にも見られる。西郷は一貫して経国済民の考えるで貫かれている。これは若き日の斉彬への意見書と同一で、本当は北海道の地で農業と殖産により力をつけてから再度の維新で創り変えようと計画したのかもしれない。
『「おはんはどちらに味方したかのでごわす 」 「そりゃ百姓共に味方しとうごわす 」すると 、西郷は言ったというのだ 。 「それでようごわす 。常に百姓に接しとる者が百姓に味方せんで 、どうして百姓が立ち行きもすか 。常に百姓に接していながら 、百姓の味方をせんでお上の言いなりになっとるようなものは姦吏でごわす 」西郷が常に庶民の側に立っている人であったことがよくわかるのである 。同時に 、ここが彼が明治政府の一員としてとどまっておられなかったところでもある 。彼が政府から去ったのは征韓論のためではない 。征韓論は動機であったに過ぎない 。彼は官僚にはぜったいになれない性格であった 。あまりにも庶民的である故に 。』
あまりに引用が長くなってしまったので、最後に海音寺潮五郎の評価を記載して終える。
『西郷は軍人として 、戦さ上手であったとは言えない 。政治家としては上述のような意味で失格だ 。けれども 、彼が英雄であったことは疑うべくもない 。しかも最も良心的で 、最も誠実で 、最も清廉で 、最も愛情深い英雄であった 。こんな英雄は 、宗教的英雄以外には 、東西古今に例がない 。彼が哲人的英雄であるといわれるゆえんだ 。江戸時代三百年の 、最もよき意味の儒教にあって陶冶された武士教育の産んだ 、最も見事な花であると 、ぼくは見ている 。』
戦さ上手の軍人として優れていたのはやはり榎本武揚であろう。
政治家としては人材豊富な幕府側に軍配があがる。井伊直弼、長野主膳、勝海舟あたりのどれが欠けても明治維新は到来しなかっただろう。特に1680年以前の出来事でもっとも重要な政治的出来事としては、戊午の密勅と言われている指令書。この発信者である孝明天皇の政治を抜きに描く維新はどこかおかしい。
西郷隆盛は日本国家再統一の父である。イタリアの統一は明治三年、ドイツは明治四年ということを忘れてはいけない。
横山 安武(よこやま やすたけ、天保14年(1843年) - 明治3年7月26日(1870年8月22 日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての薩摩藩士。初名は正太郎。 ... 生涯[ 編集]. 天保14年(1843年)、薩摩藩士・森有恕の四男として誕生。弟に森有礼がいる。横山の墓は東京杉並区にある大円寺と、鹿児島市・福昌寺跡墓地の由緒墓もあり、その隣に西郷隆盛起草(明治五年八月)の顕彰碑がある。
『史談と史論』より、
『明治三年七月二十六日に 、薩摩藩士横山安武 (後の文部大臣森有礼の実兄 )が 、新政府の腐敗を慷慨して 、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に差し出し 、太政官正院の前で切腹して死んだという事件がおこった 。その十ヵ条を少し上げてみよう 。
一 、旧幕府の悪弊が新政府にも移って 、昨日非としていたことを今日では是としている 。
一 、官吏らその高下を問わず 、から威張りして外見を飾り 、内心は名利のとりこになっている 。
一 、政令朝に出でて夕べに改まり 、民は疑惑して方向に迷っている 。
一 、駅毎に人馬の賃銭を増し 、その五分の一を交通税として取っている 。
(鉄道運賃の値上げなどこれですな )
一 、政府が心術正しき者を尊ばず 、才を尊ぶがために 、廉恥の気風は上下ともに地をはらっている 。
一 、愛憎によって賞罰する 。
一 、官吏が上下ともに利をこととし 、大官連がわがままで勝手なことをすること目にあまる 。
この横山の碑が明治六年に東京に建てられた時 、西郷はその碑文を書いているが 、その中にこうある 。 「この時にあたり 、朝廷の百官 、遊蕩驕奢にして事を誤るもの多く 、時論囂々たり 。安武すなはち慨然として自ら奮つて謂く 、王家衰弱の極ここに兆す 。いやしくも臣子たるもの 、千里万慮もってこれを救はざるべからず 、而も尋常の諫疏は 、百口これを陳べ力むといへども 、矯正する能はざらん 、寸益なきのみ 、一死もつてこれを諫むるにしかず 、もし感悟するところあらば 、豈に小補なからんやと 。すなはち諫書を作り 、持ちて集議院に至り 、これを門扉に挿みて退き 、津軽邸の門前にて屠腹す 」西郷は横山の憤りに同感し 、その行為に共鳴しているのだ 。身参議でありながらだ 。』
再び「雲竜の巻」より
『板垣退助の談話としてこんな話も伝えられている 。西郷が一向太政官会議にも出勤しないので 、板垣が病気と思って見舞に行くと 、西郷は病気ではなかったが 、ひどく憂欝げな顔をしている 。 「どうなさったのです 」と 、板垣が言うと 、西郷は答えた 。 「わしは近々に役目をひいて 、北海道に行って百姓になろうと思うとります 。今の世の中は 、わしなどの言うことはまるで行われはしもはん 。わしはもう精が切れました 」板垣は容を正し 、声をはげまして言った 。 「これは心得んことを申される 。一体 、旧幕を倒して新政府を立てた中心人物は 、あんたじゃありませんか 。そのあんたが 、そんなことを言って逃げようとなさるのは無責任でありますぞ 。政府に悪いところがあるなら 、なぜこれを正すことに努力なさらんのです 」すると 、西郷は満面真赤になり 、汗を流し 、ガタガタふるえ出した 。あの巨体だから家鳴り震動した 。ポロポロと涙をこぼしながら 、西郷は押し出すように言った 。 「すまんことを申しもした 。いかにもあんたの仰っしゃる通りでごわす 。お互いしっかりやりもそ 」この話は 、西郷の無比の誠実さを物語る話であるが 、同時に 、彼がいかに新政府のありように不満であったかを語るものである 。』
『史談と史論』より、百姓というキーワードはこういう姿勢にも見られる。西郷は一貫して経国済民の考えるで貫かれている。これは若き日の斉彬への意見書と同一で、本当は北海道の地で農業と殖産により力をつけてから再度の維新で創り変えようと計画したのかもしれない。
『「おはんはどちらに味方したかのでごわす 」 「そりゃ百姓共に味方しとうごわす 」すると 、西郷は言ったというのだ 。 「それでようごわす 。常に百姓に接しとる者が百姓に味方せんで 、どうして百姓が立ち行きもすか 。常に百姓に接していながら 、百姓の味方をせんでお上の言いなりになっとるようなものは姦吏でごわす 」西郷が常に庶民の側に立っている人であったことがよくわかるのである 。同時に 、ここが彼が明治政府の一員としてとどまっておられなかったところでもある 。彼が政府から去ったのは征韓論のためではない 。征韓論は動機であったに過ぎない 。彼は官僚にはぜったいになれない性格であった 。あまりにも庶民的である故に 。』
あまりに引用が長くなってしまったので、最後に海音寺潮五郎の評価を記載して終える。
『西郷は軍人として 、戦さ上手であったとは言えない 。政治家としては上述のような意味で失格だ 。けれども 、彼が英雄であったことは疑うべくもない 。しかも最も良心的で 、最も誠実で 、最も清廉で 、最も愛情深い英雄であった 。こんな英雄は 、宗教的英雄以外には 、東西古今に例がない 。彼が哲人的英雄であるといわれるゆえんだ 。江戸時代三百年の 、最もよき意味の儒教にあって陶冶された武士教育の産んだ 、最も見事な花であると 、ぼくは見ている 。』
戦さ上手の軍人として優れていたのはやはり榎本武揚であろう。
政治家としては人材豊富な幕府側に軍配があがる。井伊直弼、長野主膳、勝海舟あたりのどれが欠けても明治維新は到来しなかっただろう。特に1680年以前の出来事でもっとも重要な政治的出来事としては、戊午の密勅と言われている指令書。この発信者である孝明天皇の政治を抜きに描く維新はどこかおかしい。