公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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下総国という要衝の分割

2021-03-27 18:27:00 | 日本人
要約
美しい常世の国下総国について、東北大田中教授が解説している。古代の東北地方にあった日高見国が大和の国に併合されたという。著者は下総国は交通の要衝であり、富の源泉だったと指摘している。【常世の国とは本来なら死後の平和な世界のことだけれども、天国のような別次元という用法で現代は十分だろう】


美しい常世の国下総国(しもおさのくに)は今でこそ茨城千葉東京に分割されているがここは近世まで関東の動脈だった。古代神代はさらに重要で、下総国こそ高天ヶ原という説(東北大田中教授)がある。そういえば下総国には鹿島神宮と香取神宮があり筑波山はイザナギ、イザナミ男体女体二峰が揃った山がある。これは重要で古事記よりも古いとされる上記(上つふみ)ではイザナギ・イザナミは、共に黄泉から帰り、筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原で禊をして、イザナギ・イザナミからアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三貴神が誕生する。

『景行天皇25年に武内宿禰は北陸・東方諸国の巡察を命じられ、2年後に戻ってくる。そして、「東夷の国に日高見の国があります。この人々を蝦夷といいますが、豊かでいい土地です。これを取りましょう」と報告した。』正統「竹内文書」の謎 古神道の秘儀と後南朝 電子版
 2016年11月 version1.0発行
 著者   竹内睦泰

少なくともヤマト皇権成立前に日高見国(ひたかみのくに)という広域の縄文を継承した日本の母胎の一つ、おそらくは出雲系の母国があった。以前から記紀に東国の記載が少ないこと、せいぜい白山までで、なにより富士山の記載が無いことが気になっていた。それも道理で景行天皇が武内宿禰を北陸に派遣したのも、日高見の圀が外国であった証拠がある。

天孫降臨の前の天は地上の天国、常世の国【死者の住む国】と呼ばれた下総出雲系の神域だったのかもしれない。



日高見国(ひたかみのくに)は、日本古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。
諸説あり

金田一京助は、「公望私記」が「四望高遠之地」とするのを批判し、「北上川」は「日高見」に由来するという説を唱えている[10]高橋富雄は、この「日高見」とは「日の本」のことであり、古代の東北地方にあった日高見国(つまり日本という国)が大和の国に併合され、「日本」という国号が奪われたもの、としている[11]歴史書などの史料による裏づけがあるわけではないが、いわゆる東北学のテーマとして、話題になっている[12]

概要
現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。

『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが「しもふさ」「しもうさ」に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。

徳川家康の関東入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。また、豊臣秀吉から所領安堵を受けた結城氏は結城城で11万石余を領して家康の次男である結城秀康を養子に迎えて後を継がせていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に秀康が越前北庄(現・福井市)に転封されると、名字も松平氏と改め、結城城も破却されてしまい、結城氏は事実上滅亡することになった(結城氏の祭祀自体は秀康の子孫の1つである(姫路藩→前橋藩)松平家が行った)。

結城氏の移封後、下総国の諸藩のうち比較的に規模が大きいのは古河藩(最大16万石)、佐倉藩(最大14.2万石)、関宿藩(最大7.3万石)のみで、その他の藩はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。ほかに幕府領や旗本領が入り組み、古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合するような政治文化は醸成されなかった。近世初期(1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年 - 1643年)に、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。国内の村数は天保期には約1620か村を数えた。

江戸時代は強国にならないように気をつけていた。


この図面が表示する下総国は交通の要衝であり、富の源泉だった。江戸の物流と軍事の防衛線として絶対に落とされてはならない地域だった。故に水戸藩は江戸のヒンターラントとして設置された。常陸国の方が下総国よりも戦略上格下であったと見るべき。




下総国 A1:葛飾郡 (印旛県)
A2:千葉郡 A7:相馬郡 (印旛県) A8:印旛郡
A3:猿島郡 A9:埴生郡
A4:結城郡 A10:香取郡 (新治県)
A5:岡田郡 A11:匝瑳郡
A6:豊田郡 A12:海上郡
常陸国 (新治県)B1:筑波郡 B2:新治郡 B3:信太郡 B4:河内郡 B5:行方郡 B6:鹿島郡
常陸国(茨城県)B7:真壁郡 B8:茨城郡 B9:那珂郡 B10:久慈郡 B11:多賀郡






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