記憶に残る昭和天皇は引退に近い昭和日本創業者の風貌と敬愛を集めていた。しかし忘れているが若き摂政の宮は議会に拘束されない自由な政治家だった。アジア植民地の解放は、世界史に最も影響を与えた政治家だったと思う。
だから信用できる近臣と組織財源を必要としていた。秘密資金貸し付けとして杉山茂丸の持ち込んだ2億ドルは渡りに船だった。むしろこの大正天皇の不順(コレにも大正天皇がガーター騎士団長になったあたりからの、仕掛けがありそうだが)にチャンスとみて皇太子迪宮裕仁に目をつけたモルガン商会の情報網はさすがである。商売が悪徳すぎる。
杉山茂丸がJPモルガンから1億弗の資金を約束させたのが明治31年、1898年これが幻となる興業銀行プラン。昭和天皇となる迪宮誕生は、明治34年1901年4月29日、摂政の宮となるのが1921年11月 大正10年。23年のギャップがあるが金は歳をとらない。30年償還とすると1929年には何があったか思い出すといい。1月トロツキー亡命、10月24日暗黒の木曜日。いずれもロスチャイルドの没落を象徴していた。
勿論、秘密資金貸し付けの利払い管理人としてJPモルガン商会から駐日大使、後に日米開戦と戦後政策に重要な役割を果たすジョセフ・グルーが派遣(1932年~開戦まで駐日大使、1948年~American Council on Japan, ACJ名誉会長)されている。
ニニ六事変に素早くカウンタークーデターを喰らわすことができたのも裕仁の諜報網と事前準備の成果だろう。誰が信用できるかあらかじめわかっていなければカウンタークーデタは準備できないものだ。昭和天皇独白録(真偽の議論がある)『「参謀本部の石原完[莞]爾[作戦部長]からも町尻[量基]武官を通じ討伐命令を出して戴き度いと云つて来た、一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない、満州事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであつた。」『昭和天皇独白録』(文春文庫版39頁)』これこそがカウンター・クーデターであり、それを永久に隠したかった昭和天皇の工作文書が「独白録」である。隠ぺいの馬脚を露わにしたというべきだろう。石原らの実行部隊は以降7月まで戒厳令を解除しなかった。ここに秘密にされた既定路線がある。
(渡辺錠太郎が意図的な憲兵の警備解除により殺される【渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」『文藝春秋』2012年9月号、pp.320-323】、これは明らかにー天皇機関説ーへのテロルだった)ジョセフ・グルーの友人であった斎藤実には内内に『二・二六事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。』らしいが斉藤は泰然として覚悟していた。おそらく警視庁の情報元は駐日大使グルーだろう。