アホな私の受験勉強はコメントに記載。
一部引用
同世代の子供と比較して、突出した知性や精神性を兼ね備えた子供は「ギフテッド」と呼ばれることが多い。いわば“才能がある”ということで、これまでアメリカでは「ギフテッド」であることを祝福し、伸ばそうとする傾向が強かった。 しかし、カリフォルニア州では学校教育の「数学」を巡って、この「ギフテッド」という概念をなくそうとする動きが起こっている。
ちょっとスコット・ギャロウェイの経済不安と子供の関係、これを読んでみてくれ
金持ちにはわからない「経済不安」の現実
自由奔放な資本主義を支持する人々は、増え続ける富裕層の特権のことなど気にせず、満ち潮はすべての船を持ち上げると言う。
彼らはこう信じている。たしかに労働者階級のアメリカ人は、近年の好景気の恩恵を自分たちと同じようには享受していないかもしれない。しかしそれでも、彼らの生活は10年前、1世代前、なんなら100年前よりはよくなっている、と。そして彼らは安心する。
彼らは経済不安ということについて、根本的な誤解をしている。
私が子どもだったころ、経済不安は「サウンドトラック」だった─―つまり背後でつねにそのノイズが聞こえていた。
わが家が裕福であったことはなく、両親の離婚後は、経済的なストレスが経済不安へと変わった。おまえたちは価値がない、落伍者だ、というささやきが母と私を苦しめた。
9歳の冬、私は適当な上着を持っていなかったので、母と一緒にシアーズに出かけた。上着は33ドル、母の1日分の給料に近いことはわかっていた。
私たちは大きすぎるサイズのものを買った。それで2年、あるいは3年はもつと、母は考えたのだろう。息子がとにかくモノをなくす人間であることまでは、思い及ばなかった。
2週間後、私は上着をボーイスカウトのミーティングで忘れてきた。次の週に必ずとってくると言ったが、結局、上着は戻らなかった。
母は別の上着を買ってくれた。このとき母は、これはクリスマスプレゼントだと言った。これを買ってしまうとプレゼントを買えないからだ、と。
それが本当だったのか、母が私に教訓を与えたかったのかはわからない。おそらくどちらも本音だろう。それでも私は早めのクリスマスプレゼントに喜んでいるふりをした。しかしその数週間後、私はまた上着をなくした。
その日の放課後、家で母の帰りを待っていたとき、貧しいわが家の家計に自分が深刻な打撃を与えたと感じていた。たかが1枚の上着だったが、私は9歳だった。
この話のポイントは、私が困窮した生活をしていたということではない――どんな合理的な尺度を持ってしても困窮はしていなかった。ポイントは、「たかが1枚の上着」である。
私は経済不安を感じるようになっていて、たかが1枚の上着をなくしたことがこのうえなく恐ろしかった。あの日、感じた恐怖と自己嫌悪はこれからも決して忘れないだろう。
「上着をなくしちゃった」。私は母に告げた。「でも大丈夫、いらないから……本当だよ」。本当は泣きわめきたかった。
しかしもっと悪いことが起こった。母が泣き始め、やがて息を整えると、私のほうに歩いてきて、こぶしをつくって私の脚に数回打ちつけた。会議室で発言しているときに、テーブルを叩いているようだった。
母の怒りが高まったのか、きまりが悪くなったのかはわからない。母は2階の自分の部屋へ行き、1時間後に降りてくると、もう2度と上着の話はしなかった。
私はいまでもモノをなくす。サングラス、クレジットカード、ホテルのルームキー。家のカギすら持ち歩かない。必要ないから。
昔との違いは、それは不便だが、すぐに対処できることだ。資産は、ちょっとした打撃─―上着をなくす、未払いの電気料金、タイヤのパンク─―の痛みを和らげてくれる。経済不安は、その痛みを何倍にも増幅させる。
昔、高校に理数科が設置された頃、中学校教師や父兄から差別教育とか特殊クラスは不公平とかいう声が上がった。今はどうか知らないが、昭和40年代当時42〜3年はそういう牧歌的な均一公平な教育が善であるとする思いこみが強かった。
実際設置後数年して私が入学したこの理数科は学区が著しく広く、領域に含まれる根釧台地だけで5,000k㎡、和歌山県4,724.64km2丸ごと入るくらいの平野に阿寒と釧路根室の低地が加わる過疎地域から卒業する中学3年生約2万人をベースにそこから40人選抜するという学級だった。
個人的には理数科受験にあたり出身中学では様々な妨害を教師から受けた。あからさまに教室で受験する者を想定して面罵する教師もいた。その名前東条は一生忘れない。
一般に理数系特に数学の才能は若い頃から始まるので、私の知る天才秀才は皆、教育とは関係なく自然になんでもできた。だがその程度の教育では歴史に名を残す数学者など理数科から生まれるはずもない。やはり才能は巨人の肩を借りてその上で伸びるものだ。音楽などもそうであろう。また日本には独特の受験があり、よほどの才能がなければ受験勉強ゼロでは一流理数系への進学もできず才能の芽が出ない。つまりそういう子は地方の過疎地帯にいてはいけないのです。事実明治の地方の素封家は師弟を若い頃から東京に住まわせていた。人材の濃縮これがもっとも教育的な選択なのです。
入学してみると地方の進学校にありがちな自由放任な中に個人の力で学力を伸ばしてゆくという自由な校風のおかげで詰め込みも英才教育もなかった。
実績は進学校でも実態は進学を希望する中学生を集めたというだけで、受験対策補習さえなかった。あるのは普通に全国で行っていた旺文社模試(どうやら今は塾以外では旺文社教材使わせてもらえないようだ。今は業者テストと下卑た名前で呼ぶらしい。河合塾 ベネッセ 学研)だけ。たとえ教師は普通の教諭でもこの人材濃縮だけで教育効果があるのです。
この記事にあるようにそのような特別クラスに入学するのは家庭に教育に投資する余裕のある子弟が半分くらいだったと思う。あるいは家庭環境が経済的に突出してなくても、少なくとも教育に熱心に取り組む教師一家や管理的職業の父兄に囲まれて育った同級生たちだった。単純労働者や農民の子弟、私のような日雇い嘱託仕事の高等小学校卒の父親母はボイラーの肉体労働者などはむしろ例外だったと思う。
成績のいい子を集めて自然に出身環境が影響して階層化するのは避けられないことだろうと思う。しかしだからといって数学教育に政治を持ち込んで才能を育てないポリコレ教育制度(あほの押し売り)は愚の骨頂と言わざる得ない。
自分の家族や近所には大卒がいなかったので、教師もあてにはならないまま、進学に何をしていたら良いのかわからずにいた私にとって出身階層の意識の違いを感じる同級生の存在はむしろ受験文化や志望動機の息吹を感じるためには大切な情報で励みだった。
同級生が医師をめざしたのもある意味階層離脱あるいは家業継承だから、地方の成績の良い子にとって受験自体がそもそも社会的意思表示であり、平等教育の理想を離れ、より高い生涯所得を選ぶための身近な手段だったことは否めない。
選別理数教育に功罪ありと思うのはその受験の歪んだ性質のためで、結果クラスから医師を多数輩出した。それで教師は誇らしかったかもしれないが、本当に英才を医師にすることが社会のためになっただろうかは疑問に思う。私はかつての英才秀才天才のクラスメイトを見て、もっと多様に社会活躍できたと思うし、せっかく選抜した才能資源の無駄遣いだったと思う。