公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

不立文字

2013-07-17 15:07:25 | 俳句など
不立文字



涼惜しみ 手繰り残した心太

蝉の声 途絶えて時は止まる也

破れ蜘蛛の巣 目を遣れば 

我が心の障事 小也と思う

正しく修行をすると、川の流れや水の音、山の姿や山の木々をわたる風の音、仏の無数の言葉であって、惜しんではならないと教えたという道元。

しかし、構えて特別な寺院で修行などする必要はなく、力を抜けば自然の答えは聞こえてくる。そいうふうに本能は自然はできている。

言葉の想の相克する自己否定の修行よりも、本能の自然を肯定して、言葉の想を追い払い、天道様に従って、黙々自然の居士(能の「自然居士」じねんこし、ではない)となる事のほうがよほど困難である。なぜなら人間は言葉の呪縛によって人間であると信じているからだ。自然の居士も立派な修行の道となる。

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