DruckerBOT イノベーションの能力とは、一見関係のないものを一つの全体として見る能力である。
これをInternet of mindsという
内分泌系と抗菌、は免疫を通じてつながっている。
神経系と感染防御は、内分泌系を通じてつながっている。
つまるところ、中枢神経系は外部環境と戦うために発達した皮膚である。外部情報が何層にもわたって仮想皮膚が積み重なり外部環境を写し取りながら、外部の輪郭を担当する細胞へと分化(関数化)する。これが中枢神経系の発達の進化であり、目的でです。
考えるという事は境界を認知し、外因の侵入を感知するという事。
従って我(われ)とは侵入履歴が描いた輪郭の内側という仮想であって、魂もどきの形容は創世の初めから空虚な補集合(そこにある全体以外のモノ=全体引く全体は無)にすぎないのです。
従って「我とは何であるか」という問いは設問の立脚自体が存在しないので間違っている。
間違った問いに、正しい答えをはめこむことが、どんなに罪なことであるか哲学者は反省した方がいい。西洋哲学の祖デカルトはその最も端的な例であろう。我思う故に我在り、といえるのは我々の原因である宇宙についてだけ設問可能な原理である。有限な我々にはそのように設問できない。対偶<我在らざれば、我思わず>は偽である。すくなくともそのような霊的立場を守らなければならない。
岡潔が言うように、脳は内側から照らして初めて価値を示す。これが心眼である。
内側から照らすとはどういうことか。脳には空間的時間的統合(第一の直感:実在感)と論理的予測的統合(第二の直感:選別感)というものが常に働いている。著書『充足根拠律の四方向に分岐した根について』においてアルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)が示した充足理由律の4つの根がこれに相当する。生成の充足理由律と存在の充足理由律のペアが岡潔の言う空間的時間的統合(第一の直感)、認識の充足理由律と行為の充足理由律のペアが論理的予測的統合(第二の直感)にそれぞれ相当する。ショーペンハウエルはこれをアプリオリと言っている。ではなぜアプリオリなのかというと、充足理由律を疑うと知の体系が敗北崩壊するからです。ここが哲学が確信とリアリティに関して持つ唯一の根拠です。これがあるからこそ「我思う故にわれ存立す」ということも成立する。しかしこれは脳の使い方としては非常に限定的なものです。
実際のところ私達の直感は、ここにある状態であるということと、次の状態でもここに様々な可能性でありうるということを瞬時に予測処理している。疑い得ないからと言って考えなくて良いということではありません。
この統合的感覚は脳が休みなく行っている自動処理ですが、内側から脳を照らすということの要諦は、この自動処理という第三の直感の行為性(有限性)を自覚しつつ、時間が止まっているかのように静寂で、自在無限の世界(明鏡止水)に漕ぎ出すということにあるのです。
私がここに言う<明鏡止水>とは、近代以降の狭い意味では 自由 のことです。しかし私は所与の自由やましては束縛からの自由を<明鏡止水>を以って論じるのではない。ないものであるからこそ創作されるべき自由を明鏡止水で示したいのです。
自由は近代思想に受け入れられているような普遍概念ではなく、私は個のパースペクティブの拡張と捉えます。従って貴方の自由を私は守ることも、触れることもできないのです。
社会的にはただ貴方に自由が働くことを期待するだけなのです。もし私の自由と貴方の自由が重なることがあるとしたならば、それは共感であり、情緒です。なぜ他文化の本質を日本人は明治維新に吸収できたのか、なぜ札幌農学校の卒業生に偉大なクリスチャンが2人(新渡戸稲造、内村鑑三そしてその感化を受けた矢内原忠雄)もいるのか、秘密は共感と情緒に有ります。これが日本人のイノベーションの源泉であり欠点(他文化につけこまれるところ)なのです。これから本当に必要とされる能力は共感と情緒により新しい世界を創造する力です。
これをInternet of mindsという
内分泌系と抗菌、は免疫を通じてつながっている。
神経系と感染防御は、内分泌系を通じてつながっている。
つまるところ、中枢神経系は外部環境と戦うために発達した皮膚である。外部情報が何層にもわたって仮想皮膚が積み重なり外部環境を写し取りながら、外部の輪郭を担当する細胞へと分化(関数化)する。これが中枢神経系の発達の進化であり、目的でです。
考えるという事は境界を認知し、外因の侵入を感知するという事。
従って我(われ)とは侵入履歴が描いた輪郭の内側という仮想であって、魂もどきの形容は創世の初めから空虚な補集合(そこにある全体以外のモノ=全体引く全体は無)にすぎないのです。
従って「我とは何であるか」という問いは設問の立脚自体が存在しないので間違っている。
間違った問いに、正しい答えをはめこむことが、どんなに罪なことであるか哲学者は反省した方がいい。西洋哲学の祖デカルトはその最も端的な例であろう。我思う故に我在り、といえるのは我々の原因である宇宙についてだけ設問可能な原理である。有限な我々にはそのように設問できない。対偶<我在らざれば、我思わず>は偽である。すくなくともそのような霊的立場を守らなければならない。
岡潔が言うように、脳は内側から照らして初めて価値を示す。これが心眼である。
内側から照らすとはどういうことか。脳には空間的時間的統合(第一の直感:実在感)と論理的予測的統合(第二の直感:選別感)というものが常に働いている。著書『充足根拠律の四方向に分岐した根について』においてアルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)が示した充足理由律の4つの根がこれに相当する。生成の充足理由律と存在の充足理由律のペアが岡潔の言う空間的時間的統合(第一の直感)、認識の充足理由律と行為の充足理由律のペアが論理的予測的統合(第二の直感)にそれぞれ相当する。ショーペンハウエルはこれをアプリオリと言っている。ではなぜアプリオリなのかというと、充足理由律を疑うと知の体系が敗北崩壊するからです。ここが哲学が確信とリアリティに関して持つ唯一の根拠です。これがあるからこそ「我思う故にわれ存立す」ということも成立する。しかしこれは脳の使い方としては非常に限定的なものです。
実際のところ私達の直感は、ここにある状態であるということと、次の状態でもここに様々な可能性でありうるということを瞬時に予測処理している。疑い得ないからと言って考えなくて良いということではありません。
この統合的感覚は脳が休みなく行っている自動処理ですが、内側から脳を照らすということの要諦は、この自動処理という第三の直感の行為性(有限性)を自覚しつつ、時間が止まっているかのように静寂で、自在無限の世界(明鏡止水)に漕ぎ出すということにあるのです。
私がここに言う<明鏡止水>とは、近代以降の狭い意味では 自由 のことです。しかし私は所与の自由やましては束縛からの自由を<明鏡止水>を以って論じるのではない。ないものであるからこそ創作されるべき自由を明鏡止水で示したいのです。
自由は近代思想に受け入れられているような普遍概念ではなく、私は個のパースペクティブの拡張と捉えます。従って貴方の自由を私は守ることも、触れることもできないのです。
社会的にはただ貴方に自由が働くことを期待するだけなのです。もし私の自由と貴方の自由が重なることがあるとしたならば、それは共感であり、情緒です。なぜ他文化の本質を日本人は明治維新に吸収できたのか、なぜ札幌農学校の卒業生に偉大なクリスチャンが2人(新渡戸稲造、内村鑑三そしてその感化を受けた矢内原忠雄)もいるのか、秘密は共感と情緒に有ります。これが日本人のイノベーションの源泉であり欠点(他文化につけこまれるところ)なのです。これから本当に必要とされる能力は共感と情緒により新しい世界を創造する力です。