公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

自由について2

2011-01-07 07:55:44 | ドラッカー
自由についてで述べた様に自由は最上位の価値であるゆえに最後の価値と考える。自由への逃避とか、投機と易々安安と自由に触れることができると考えるのは大きな過ちだ。

たとえ神を信じていたとしても、自由の欠けた神など想像できないだろう。もっと想像できないのは自由の欠けた神の死んだ世界だ。20世紀哲学の欠陥は、神との関係を切り捨てた事ではなく、自由の到来を初めに置いた事にある。実存とは自由の到来の別の表現であり、我々は、我々の欠陥を取り除いていない時点で、実存を手にする事はできない。実存主義哲学は、詐欺哲学である。

「間違った問題への正しい答えほど始末におえないものはない」

ドラッカー



我々の欠陥とはなにか?それは知に対する過信とも言える理想化、一体化そして当然受け取るべきと思ってる未来への独占欲である。先人の哲学は知の根拠を示したが、自明としているにすぎない。自ずから解るとはどういうことか批判的に検証してみたことがあるだろうか。この検証なくして欠陥は取り除けないのだ。何故ならば、知が揺るぎないことを思い上がりの実存哲学に予約権を与え、自由が予め与えれれていた(あたかも、本来人間がエデンの園の住民の如く自由であったかのような)と仮定してしまう現代哲学の自由幻想は、知の無限発展、人類の特許された神の恩寵をその根拠としているからだ。
我々の欠陥は明白だ。欠陥は我々の前提が何の実証もないままにひとり歩きしていることに由来している。われわれはもう一度魂の根源に還らなくてならない。何によって知は飛躍し過去のフレームを止揚し続けるのか?如何にしてかのうなのかは、ひとえに本当の魂の主人を知ることによるしかない。
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1 コメント

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再び男たちへより (Okayama)
2011-01-27 19:28:51
自由は誰もが欲する。だが、この自由なるもの、それを駆使して生きるとなると意外と大変で、すべての人がその緊張に耐えていけると考える方が非現実的なのではないか(「再び男たちへ」)塩野七生
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