ほぼ毎日何かをメモに残して、あとから肉を付けて行くスタイルを10年くらいやってる。物書きではなくても一定の見識が現れてくるが、どうも最近それが邪魔している。マネッジメントと闘いの戦略をテーマにしていたはずが、メディア雑音の処理になっている。これではいけません。雑音情報の処理になっている。これではいけません。
伊168潜水艦の戦いを興味深く読んだが、燃料も不安で、帰りの燃料はミッドウェーで給油しろという命令で出撃した。情報もない時には、勇気を出して敵に近づくしかない。敵の底を通過して距離を確認する。帰りは浮上して12日間8割は潮まかせ。入渠したときはほぼ燃料がゼロ(配管残)。
武士の決闘のような最後
伊号第百六十八潜水艦(いごうだいひゃくろくじゅうはちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。伊百六十八型潜水艦(海大VI型a)の1番艦。竣工時の艦名は伊号第六十八潜水艦。
- (昭和17年)1月9日 - 呉入港。修理を実施。出航し、その後、単独訓練を行う[2]。
- 1943年(昭和18年)1月1日 - 佐世保入港。ガダルカナル島に食料を輸送するも、米魚雷艇二隻の攻撃により6割の陸揚げで中止[3]。
- 1月14日 - 呉入港[2]。
- 2月22日 - 北方に派遣となり呉を出航[2]。
- 3月5日 - 横須賀を出航[2]。
- 3月13日 - 幌筵島に到着。キスカ島、アッツ島方面で活動[3]。
- 5月9日 - 横須賀入港。
- 7月12日 - 呉を出航。22日、トラック着[2]。
- 7月25日 - トラックを出航し、ラバウルへ航行[2]。
- 7月27日 - イザベル海峡通過中との通信を最後に消息不明。
- 1754 - ニューアイルランド島とニューハノーバー島の間にあるステフェン海峡で浮上航行中に米潜水艦スキャンプに発見される[6]。
- 1803 - 伊168も潜望鏡を上げているスキャンプを発見し、これに対し魚雷を発射。スキャンプは即座に潜航を開始し、150フィートの深さに潜ったスキャンプの船尾を伊168が放った魚雷がかすめていった[6]。
- 1812 - スキャンプは、再度浮上して潜望鏡で伊168を捉えた後、魚雷4本を発射。うち1発が命中した[7]。
- 1814 - スキャンプが潜望鏡を上げて確認したが、海上に伊168の姿はなく、大きな150フィートの高さにまで立ち登る茶色い煙と油膜が残されていた。直後にスキャンプは5つの爆発音を観測し、そのうち2つは地球の中心から響くかのような轟音であった[6]。伊168は非常に稀有な潜水艦同士の戦いで最期を迎えたが、浮上中であった伊168にとっては不利な条件下の戦闘であった。艦長の中島栄少佐以下乗員97名全員が戦死した[2][3]。
- 9月10日 - ラバウル北方で亡失と認定[8]。
- 鶴岡信道 中佐:1934年2月23日 - 1934年11月15日
- 太田信之輔 少佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
- 栢原保親 少佐:1935年11月15日 - 1937年12月1日
- 畑中純彦 少佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日[9]
- 内野信二 中佐:1938年12月15日 - 1939年9月1日[10]
- 村岡富一 少佐:1939年9月1日 - 1941年7月25日[11]
- 中村乙二 少佐:1941年7月25日 - 1942年1月31日[12]
- 田辺弥八 少佐:(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)
- 中島栄 少佐:1942年10月15日 - 1943年7月27日戦死
- ^ ただし伊168の公試時にはKチューブが装備されているのが写真から確認されている。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』73頁。
- ^ a b c d e f 『艦長たちの軍艦史』432-433頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
- ^ a b c #SS-277, USS SCAMP pp.58-59
- ^ #SS-277, USS SCAMP p.58, pp.63-64
- ^ 『日本海軍史』第7巻、357頁。
- ^ 『海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 『海軍辞令公報(部内限)第375号 昭和14年9月1日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300
- ^ 『海軍辞令公報(部内限)第678号 昭和16年7月25日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
- ^ 『海軍辞令公報(部内限)第804号 昭和17年1月31日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072084100