善悪に良し悪しは明らかだが、仮に相対的に①良い善と②悪い善があり、同じく相対的に③良い悪と④悪い悪があって、それらが人物として舞台に登場するとしたならば、どういうシナリオになるだろうか?
一番強そうなのは④だが、強いものに従うのが生存のための良い選択という世間的シナリオ設定であれば、最強である④の敵は善である①や②ではなく、③の良い悪であろう。
つまり力の世の中のドラマの主役は悪と悪の戦いであって善悪の区別には絶対的な意味はない。善悪の区別に意味を見出そうと努力するのは①や②の養ってもらうことが当然と主張する善側となる。それゆえに古来より以下のようなユダヤ人の格言がある。
善と悪を区別できるだけでは、まだ賢者とは言えない。二つの悪の中から小さい方の悪を選ぶことができる者が賢者である。
③の良い悪を属性とする事物を選ぶことが賢者選択とユダヤ人は言うらしい。力を生存条件と信じるユダヤ人ならば直感的にプーチンよりもゼレンスキーを選ぶのが賢者の選択なのかもしれない。ユダヤ人は小さな悪に味方して生き残り、中国の権力者は最初は小さな悪を選んで賢く台頭するがやがて大きな悪を選択して滅んでしまう。
**
このようなエセ客観的な論調を天声人語的予定調和という。つまりユダヤ人の格言という変化球を加えて自分の結論から逆算的に自論の正当性を印象付けるという姑息なしかし賢そうに見える作文である。
かつてマスコミでもてはやされた知識人ぶった結論ありきの作文だから、ここに歴史分析的な検証の視点は一欠片もない。昭和の日本人は、よくこのような作文を読まされた。
この一見無害な文化仕草が社会の毒薬であることに日本人は、気づくべきだろう。