公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『靖献遺言』 浅見絅斎

2017-07-18 09:37:03 | 意見スクラップ集
皇統護持の國體主義というのは、憲法九条主義と精神構造がよく似ている。戦後七十余年の平和が平和的社会を願う九条と憲法前文の誓いによって維持されているという実力以上の幻想と、皇統が七百年続いた幕府よりも國體の本体であると強弁し続けた山崎闇斎に飽き足らず、垂下師匠に徹底不足の神道邪神を投げつけて靖献遺言を書き残した浅見絅斎の君臣理想主義もまた実力以上の幻想の実施を求めている点で、九条平和主義と似ている。

一言で言えばいずれも無責任野党の秩序度外視の思想。信念が媒介する信念こそが正義【理想正義】と確信し、その真実だけが永続するという確信であるという特異点ドグマ、絶対に破れない砦を得た国賊の思想である。その証拠に明治維新以降で靖献遺言を政治実践において実地体験したのは、しかも二度も1度目は1858年月照*との入水、2度目は1877年の西南戦争で官軍に追い詰められ城山で自刃、西郷吉之助以外にはいなかった。


この日本という国では世間から独立した個人の知識というもは抱えているだけで苦痛なものだから、世間から独立した個人の疑問というものも成立し難い。だから一旦世間が許容した疑問と答えのセットを求める。維新も世間が許容した疑問《天皇の家臣が国を支配している矛盾》に依拠してはじめて国家の中央集権化と軍制の改革を説くことができる。



浅見絅斎の継承を根幹思想に据えた中沼了三(1816-1896)**でさえ、西南戦争から約20年、軍服姿の睦仁に落涙することはあっても自らの腹を切って天皇を諌めることはなかった。自らできないことを【理想正義は現実よりも尊い】として特異点政治の実施を迫る皇統護持の國體主義は若者を無駄に死なせるために利用された歴史はあっても、生き延びた人々の飢えを救うことはなかった。しかしそれにしても徳川が豊臣を打つ逆位をどうやって林羅山は合理化したのだろう。

「湯武放伐論」について道春とは林羅山

(幕府…家康)道春に謂ひて曰く 「方今、大明(明国)もまた道あるか。卿は以て如何となす。」

曰く 「これあり。春(道春)、目未だこれを見ずといへども、書においてこれを知る。それ、道は窈窈冥冥(ようようめいめい・・・奥深いさま)にあらずして、君臣・父子・男女・長幼・交友の間にあり。今や大明、閭巷より郡県より州府に至るまで、処処に学校あらざることなし。皆、人倫を教ふる所以にして、人心を正し風俗を善くするを以て要となす。然れば則ち果して道あるか。」

 ここにおいて幕下、色を変じて、他を言ふ。春もまた言さず。

(幕府)道春に謂ひて曰く 「道は古今行はれず。故に『中庸』に〔能くすべからず〕〔道はそれ行はれざらんか〕と。それ、卿、以て如何とす。」

春、対へて曰く 「道は行はるべし。『中庸』に云ふところは、蓋し孔子、時の君の暗うして道を行はれざるを嘆きて言ふものなり。道は実に行はるべからざるものの謂にあらず。六経に云ふところは、この類少なからず。独り『中庸』のみにあらず。」

(幕府)曰く 「中とは何ぞや。」

(道春)曰く 「中は把(とら)へ難し。一尺の中は一丈の中にあらず。一座の中は一家の中にあらず。一国の中は天下の中にあらず。物は各々中あり。その理を得る者は必ず中なり。故に初学の者は、中を知らんと欲せば、則ち理を知らずんば、必ず得ず。ここを以て〔中は理のみ〕とは古今の格言なり。」

(一説に)曰く 「中と権と皆善悪あり。湯武臣を以て君を伐つ。此れ悪と雖も善、所謂逆に取り順に守るなり。故に不善不悪は中の極なり。」

曰く 「春の意はこれに異なれり。願はくは辞を尽すことを得んや。春は以為(おも)へらく、中は善なり。一毫の悪なし。物各々理を得、事皆義に適ふは中なり。善を善としてこれを用ひ、悪を悪としてこれを去るもまた中なり。是非を知り、邪正を分つもまた中なり。湯武は天に順(したが)ひ人に応じ、未だ嘗て毛頭ばかりの私欲あらず。天下の人のために巨悪を除く。あに、悪といへども善なることあらんや。故に湯武は中なり、権なり。莽(王莽)・操(曹操)におけるがごときはすなわち賊なり。また逆に取り、順に守るは、すなわち譎奇権謀(けつきけんぼう)なり。聖人の共に権(はか)るべからざるの謂いにあらず。かつ、これを詳らかにせんと欲せば、すなわち布いて方冊(書物)にあり。他人の読むところと春の申すところとは、以て同じとなすか、以て異なりとなすか。古人は邪説の先ず入るを以て戒めとなす。良(まこと)に以(ゆえ)あるかな。ああ、千言万語は、元はただ理の一字に過ぎず。ここにおいてか、曰く、理理、遂に契(かな)はずと。」

…(中略)・・・

幕府又曰く 「湯武の征伐は権か。」

春(道春)対えて曰く 「君、薬を好む。請う、薬を以て喩(たと)えん。温を以て寒を治し、寒を以て熱を治し、而してその疾已むはこれ常なり。熱を以て熱を治し、寒を以て寒を治す、これを反治という。これ要するに、人を活かすのみ。これ非常なり。これ先儒の権の譬えなり。湯武の挙は天下を私せず、ただ民を救うにあるのみ。」

幕府曰く 「良医にあらずんば、反治を如何せん。ただ、恐らくは、人を殺さんのみ。」
 
春、対へて曰く 「然り。上、桀・紂ならず、下、湯・武ならずんば、すなわち弑逆の大罪、天地も容るること能はず。世人、これを以て口実となす。いはゆる淫夫、柳下恵を学ぶ者なり。ただ天下の人心帰して君となり、帰さずして一夫となる。」

(『日本思想体系 藤原惺窩 林羅山』「羅山先生文集」)



九条平和主義者も同じことで、本当は米国との軍事同盟によって維持されていた属国の平和を一国の憲法上の祈りによって実現したかのような無理な論理の建てつけをドグマとして若者に強いたとしても、現実に迫る北朝鮮製ミサイルの日本海に撃ち込まれた水音さえ批難できない。


*(げっしょう、文化10年(1813年)- 安政5年11月16日(1858年12月20日))は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。

**(なかぬまりょうぞう、 1816年9月6日(文化13年8月15日)- 1896年6月7日(明治29年5月1日))隠岐国(島根県隠岐の島)で医師の中沼養碩、母テツの三男として生まれる。天保6年(1835年)京都に上洛、山崎闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))の流れを汲む崎門学派浅見絅斎の学統である鈴木遺音(恕平)1783-1846 江戸時代後期の儒者。天明3年生まれ。京都の人。山崎闇斎の学風をつぐ崎門学派の家学をまもる。その門からのち陽明学者となった大塩平八郎,春日潜庵らがでた。弘化3年6月1日死去。64歳。名は棟。字(あざな)は隆父。通称は恕平。の門下として儒学を学んだ。
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