ほとんどの動物は霊的に他の個体と結合して生きている。人間だけが何か罰を受けるかのように小我を持ち続けている。これは本当は大問題のはずだが、少なくとも近代以降の哲学は小我に固執しすぎて、霊的結合を考察しない。
ゆえなく遠い昔、人間に与えられた罰は、個体の死を許容できない非結合的、孤立した生命感とその内心の独立という自意識の実在感だろうと思う。
死を無と感じさせるフィルターの挟まった脳、子々孫々永遠に苦しみ続ける肉体の罰は強力な何者かによって遠い昔に押し付け焼かれた遺伝子上の刻印なのだろう。
人間にとって死の恐れはごく自然のことだ。だが他の生物は違う。死を恐れていない動物の平常は人間のように凶暴ではなく無謀なこともしない。そこが人間と大いに違う。
人間はこの恐怖に関しては、いつの間にか霊的な同族多数決では決めないことにしたらしい。
同胞結合の方法が神聖な食事を共にすることだということを全て忘れて我々は現代日本に身勝手に生きる。
日本人の強さは同胞同士の霊的結合状態にあるということだ。吉本隆明は現代的な〈他界=死の世界〉への巫女的遷移に共同幻想論を導入したと私は考えるが、その論理の基礎は左翼としての彼が気づいた日本人集団の霊的結合であろう。
他方、人間の自己意識というものは全くの虚妄、近代的自我は競争に有益な誤解で、仏教では小我など言われている。
これが現代日本人が誰もが「生まれながら」にして持っている感覚で、当たり前のようにひとり生きる実感をヒリヒリと感じている。
しかし実は自然界を見渡して、小我に沿って生きている生き物は、万物の霊長を自負している人間だけだということが見えるだろう。犬や猫、馬やイルカのような一見高等な動物においては、小学生以上の理解力を示すことがあるが、彼らが小我を持って生きているというのは人間の誤解である。それらの動物が死を受け入れる姿を見て見ればすぐに理解できるだろう。その知能だけで霊長などとたやすく名乗り出るべきではないのだというのが私の言いたいこと、霊的日本人。
人間の心理はここに到って初めて物理や、化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている黴菌性の流露に外ならないのである。
9.11のわずか2ヶ月前、ワールドトレードセンターは民営化され、ラリー・シルバースタインに売却された。 彼は毎朝91階のノースタワーで朝食をとっていたが、9.11の日だけは違った。
彼はまた、"幸運にも "テロをカバーする保険プランに加入していた。 テロの後、彼は保険会社を相手取って裁判を起こした。 シルバースタインは勝訴し、2倍の45億5,000万ドルを受け取った。
これは史上最大の保険金詐欺かもしれないが、彼はまだ自由の身である。