日本の液晶開発の草分け的存在で、元シャープ副社長の佐々木正(ささき・ただし)さんが1月31日、肺炎のため死去した。102歳だった。葬儀は親族のみで行う。理事長を務めたNPO法人新共創産業技術支援機構が後日、お別れの会を開く。喪主は妻浄子さん。
120歳を目指し、長生きでしたね。それにしても孫正義が学生時代に発明した自動翻訳機が1億6,000万円の価値を持っていたとは思えない。現在の価値にするなら2億以上、この買い物には別の理由があるはず。《「僕にはあれが、孫さんの“気魄”そのものに見えたんです。人の内側から発するエネルギーは目に出る。もう30数年も前のことですが、あのときもそうでした。いまでも鮮明に覚えています」。
佐々木が「あのとき」と振り返るのは1977年夏の出来事である。孫がカリフォルニア大学バークレー校在学中に共同開発した「音声機能付き電子翻訳機」のサンプルを携え、奈良県天理市にあるシャープ中央研究所を訪ねてきたのだ。
「まだ少年の面影を残した彼が、アイデアを買ってほしいと売り込みにきたんです。説明の最中も、目の輝きが異様に鋭い。『これはただものではない』と感じました。私は英語版翻訳機の研究開発費として2000万円出すことを即決しました。国連の公用語は8カ国語ある(当時)ので、英語版が完成したら他国語版も手がけなさい。合計1億6000万円の可能性があるとアドバイスしたのです」》当時佐々木は専務であった。そればかりでなく佐々木は1億円の無担保融資の保証人にもなってた。専務にそれほどの権限があるだろうか。孫が生まれてはじめて設立した会社は「M SPEECH SYSTEM INC.」という。Mはフォレスト・モーザー博士のイニシャルから取った。幾人かの仲間を集め、プロジェクトが始まった。《この会社は試作品しかつくっていない。フォレスト・モーザー博士と取引があったナショナルセミコンダクター社と交渉して、日本での独占販売許可を得たため営業開始。しかし、問い合わせが続々と増えてくると、ナショナルセミコンダクター社が、ナショナルセミコンダクタージャパンを立ち上げ、販売できなくなった。結果、撤退し、契約の大事さを痛感したという。》
彼の1億円なしにソフトバンクの孫の今はない。
《シャープの元副社長」というより「孫正義の恩人」と紹介したほうがわかりやすいかもしれない。比類なきコスモポリタンであり、彼を「恩人」または「師」と呼ぶ人は世界中にいる。実はこれを読んでいるあなたもまた、毎日、彼の恩恵に浴している。
その人物とは、シャープを世界的な電機メーカーに育てたことで知られる佐々木正である。1月31日に102歳で亡くなった佐々木は1915年、島根県浜田市に生まれた。元号で言えば大正4年だ。元号でひとつ前、明治の時代、日本は日清・日露の戦争に辛くも勝利し、台湾、韓国、中国の一部を領土にした。佐々木の両親は幼い彼を連れ、当時の日本人にとっての「新天地」であった台湾に渡る。
1934年に京都帝国大学に入学するまで、佐々木は台北で育った。小中学校では台湾の子どもたちと机を並べている。元台湾総統の李登輝は小学校の後輩だ。幼少期から思春期までを外地で過ごした佐々木には、日本人の代表的な気質である島国根性がない。
それゆえ、電卓向けMOS LSI(金属酸化膜を使った大規模集積回路)ではアポロ12号の着陸船向け半導体を開発していた米ロックウェルの懐に飛び込み、サムスン電子が半導体に進出するときには李健熙(イ・ゴンヒ、現会長)に請われて技術を教え、在日三世の孫正義が学生時代に発明した自動翻訳機を1億6,000万円で買い取って最初の起業資金を与え、アップルを放逐されたスティーブ・ジョブズにソニーの大賀典雄を紹介した。》
石坂泰三もまた佐々木と同じように東京電信工業に資金を出していた。『「若死した同期生の息子たちが 、小さな町工場を出した 。海のものとも山のものともわからんが 、技術には自信を持っている 。きみも目をつぶって 、ひとつ株を持ってやってくれんか 」と頼まれた 。町工場の名は 、 「東京通信工業 」 。盛田昭夫という若い男が 、その交渉にやってきた 。話してみても 、将来性などわかりはしなかったが 、ただ友人の頼みに応じ 、若い男たちを励ます意味で 、石坂は金を出し 、株を持った 。やがて 、その町工場は社名を 「ソニ ー 」と改め 、急成長しはじめた 。投資の甲斐あって 、これから先の利殖が楽しみといった勢いになったが 、そのとき 、石坂は株を手放してしまう 。 「自分は東芝の社長の身 。ひょっとして 、将来 、競争関係に立つ会社の株を持つわけにはいかん 」と言って 。そうした理由なら 、名義を変えるなど便法もあるのだが 、要するに石坂にはその気がなかった 。成長する目途がついた以上 、頼まれた用は終わった 。もともと儲けようと考えての出資ではない 。 「それでは 、ヘイ 、さいなら 」というわけである 。 「あのまま株を持って居られたら 、いまごろ 、たいへんな大株主になって居られたのに 」と盛田が残念がれば 、石坂の長女三浦智子も苦笑して言う 。 「パパ 、えらそうなこと言うけど 、そういう点は全然だめ 」石坂は第一生命社長時代 、鐘紡株の売買などで日比谷の本社ビルの建設費を稼ぎ出した実績がある 。にもかかわらず 、私的な資金運用では』(「もう、君には頼まないー石坂泰三の世界ー」城山三郎より)、まるで金儲けはしなかった。
120歳を目指し、長生きでしたね。それにしても孫正義が学生時代に発明した自動翻訳機が1億6,000万円の価値を持っていたとは思えない。現在の価値にするなら2億以上、この買い物には別の理由があるはず。《「僕にはあれが、孫さんの“気魄”そのものに見えたんです。人の内側から発するエネルギーは目に出る。もう30数年も前のことですが、あのときもそうでした。いまでも鮮明に覚えています」。
佐々木が「あのとき」と振り返るのは1977年夏の出来事である。孫がカリフォルニア大学バークレー校在学中に共同開発した「音声機能付き電子翻訳機」のサンプルを携え、奈良県天理市にあるシャープ中央研究所を訪ねてきたのだ。
「まだ少年の面影を残した彼が、アイデアを買ってほしいと売り込みにきたんです。説明の最中も、目の輝きが異様に鋭い。『これはただものではない』と感じました。私は英語版翻訳機の研究開発費として2000万円出すことを即決しました。国連の公用語は8カ国語ある(当時)ので、英語版が完成したら他国語版も手がけなさい。合計1億6000万円の可能性があるとアドバイスしたのです」》当時佐々木は専務であった。そればかりでなく佐々木は1億円の無担保融資の保証人にもなってた。専務にそれほどの権限があるだろうか。孫が生まれてはじめて設立した会社は「M SPEECH SYSTEM INC.」という。Mはフォレスト・モーザー博士のイニシャルから取った。幾人かの仲間を集め、プロジェクトが始まった。《この会社は試作品しかつくっていない。フォレスト・モーザー博士と取引があったナショナルセミコンダクター社と交渉して、日本での独占販売許可を得たため営業開始。しかし、問い合わせが続々と増えてくると、ナショナルセミコンダクター社が、ナショナルセミコンダクタージャパンを立ち上げ、販売できなくなった。結果、撤退し、契約の大事さを痛感したという。》
彼の1億円なしにソフトバンクの孫の今はない。
《シャープの元副社長」というより「孫正義の恩人」と紹介したほうがわかりやすいかもしれない。比類なきコスモポリタンであり、彼を「恩人」または「師」と呼ぶ人は世界中にいる。実はこれを読んでいるあなたもまた、毎日、彼の恩恵に浴している。
その人物とは、シャープを世界的な電機メーカーに育てたことで知られる佐々木正である。1月31日に102歳で亡くなった佐々木は1915年、島根県浜田市に生まれた。元号で言えば大正4年だ。元号でひとつ前、明治の時代、日本は日清・日露の戦争に辛くも勝利し、台湾、韓国、中国の一部を領土にした。佐々木の両親は幼い彼を連れ、当時の日本人にとっての「新天地」であった台湾に渡る。
1934年に京都帝国大学に入学するまで、佐々木は台北で育った。小中学校では台湾の子どもたちと机を並べている。元台湾総統の李登輝は小学校の後輩だ。幼少期から思春期までを外地で過ごした佐々木には、日本人の代表的な気質である島国根性がない。
それゆえ、電卓向けMOS LSI(金属酸化膜を使った大規模集積回路)ではアポロ12号の着陸船向け半導体を開発していた米ロックウェルの懐に飛び込み、サムスン電子が半導体に進出するときには李健熙(イ・ゴンヒ、現会長)に請われて技術を教え、在日三世の孫正義が学生時代に発明した自動翻訳機を1億6,000万円で買い取って最初の起業資金を与え、アップルを放逐されたスティーブ・ジョブズにソニーの大賀典雄を紹介した。》
石坂泰三もまた佐々木と同じように東京電信工業に資金を出していた。『「若死した同期生の息子たちが 、小さな町工場を出した 。海のものとも山のものともわからんが 、技術には自信を持っている 。きみも目をつぶって 、ひとつ株を持ってやってくれんか 」と頼まれた 。町工場の名は 、 「東京通信工業 」 。盛田昭夫という若い男が 、その交渉にやってきた 。話してみても 、将来性などわかりはしなかったが 、ただ友人の頼みに応じ 、若い男たちを励ます意味で 、石坂は金を出し 、株を持った 。やがて 、その町工場は社名を 「ソニ ー 」と改め 、急成長しはじめた 。投資の甲斐あって 、これから先の利殖が楽しみといった勢いになったが 、そのとき 、石坂は株を手放してしまう 。 「自分は東芝の社長の身 。ひょっとして 、将来 、競争関係に立つ会社の株を持つわけにはいかん 」と言って 。そうした理由なら 、名義を変えるなど便法もあるのだが 、要するに石坂にはその気がなかった 。成長する目途がついた以上 、頼まれた用は終わった 。もともと儲けようと考えての出資ではない 。 「それでは 、ヘイ 、さいなら 」というわけである 。 「あのまま株を持って居られたら 、いまごろ 、たいへんな大株主になって居られたのに 」と盛田が残念がれば 、石坂の長女三浦智子も苦笑して言う 。 「パパ 、えらそうなこと言うけど 、そういう点は全然だめ 」石坂は第一生命社長時代 、鐘紡株の売買などで日比谷の本社ビルの建設費を稼ぎ出した実績がある 。にもかかわらず 、私的な資金運用では』(「もう、君には頼まないー石坂泰三の世界ー」城山三郎より)、まるで金儲けはしなかった。