公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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切り取りダイジェスト2021/12/01 天与の地獄と天与のこの世

2021-12-01 20:02:00 | 意見スクラップ集

このたびは決死隊ゆえもう皆様におあいできないと思います。どうぞお身体を大切に、長生きして下さい。荷物は下宿の人にたのんで、あとから送ります。鞄の中に爪を残しておきます。爆弾飛行機ゆえ、身体は残りませんので。

―陸軍曹長 田中逸夫(万朶隊 S19.11.12)

フミちゃん、立派な日本の娘となって幸福に暮して下さい。これ以上に私の望みはありません。お父様のこと、よろしくお願い致します。 (略)何にも動ずることのない私も、フミちゃんのことを思うと涙を止めることができません。

―海軍少尉 今西太一(回天菊水隊 S19.11.20)

今日は非常に良い日本晴です。私の心気共に此の天気同様すがすがしい気持です。任務は必ず達成致します御安神下さい。 では乱文にて 御両親様の御健康をお祈り致します。 敬具

―陸軍伍長 高埜徳(第五十七振武隊 S20.5.25)

明日はいよいよ桜花攻撃をやる。成功すればめっけ物だが、そう簡単には行くまい。(略)ロクに戦闘機もない状況ではまず成功しないよ。これで駄目なら、もう誰がやっても駄目だ。特攻なんてブッ潰してくれ。

―海軍少佐 野中五郎(第一神雷攻撃隊 S20.3.21 出撃前日に)


特攻隊員の遺書を読んでいると、全てを正直に書けなかったとしても最後の通信であるから生きていることと死ぬ運命であることとの凝縮に真実味がある。戦争とか戦略とかといった価値観の良し悪しを彼らに問う前に、死に場所に天与の機会(現実にそれが地獄であろうが天国であろうが)を得たと言う閉塞の受け入れ方には西欧人にはないものがある。まだまだ生きて幼子の成長を見たいと誰もが思うだろう。しかし自然死を含め、人間にはなんらかの閉塞がやがてやってくる。今までの延長に未来はもうない。西欧的には絶望の時である。しかしそういう時を天与としてどう過ごすか日本人は考える機会をいくつも持っている、何千何万という特攻全滅玉砕を見つめて生きることができるはずなのに絶対閉塞を受け入れて戦った姿を教えることさえ禁止されてきた。


日本人は全く逆に生死を天与と考えるから、閉塞は今生の仮の姿としか考えない。この世は循環でできている。西欧人は何かの路線がこの世であって、いつのまにか自分はそれに乗っていて、全員に共通のどこかへゆく目的地があるかのように振る舞っている。無限すぎて届かない想像の地からこの時点の生死を見ることは、ジョン・レノンの詩のように、東洋人や日本人の今生の感覚に一見類似するが根本的に天与の捉え方が違う。東洋の中でもヒンズーの天与は牢獄そのものでありプリズンブレイク解脱こそが救いである。日本人の天与はまさに天与の肯定である点で真逆。大いに異なっている。


 閉塞は絶望ではなく、無限の中の一点に過ぎない。無限の中のひとりの人生と考えるならば、ヒルベルトの無限ホテル問題の擬似パラドックスと同じように、ホテルが満室であるということと、これ以上客を泊められないということは数学的に同値ではない。

①自分がここで死んでしまうということ(ヒルベルトの比喩で言えば客を止められない状態)と②死後の世界に自分はいない(ヒルベルトの比喩で言えば満室であるという状態)ということは無限の生命観の中では同値ではない。有限の生命あるいは現世を前提とする西欧的常識(始まりと終わりがある人生)にとってはそれら①と②が同値であっても、日本人の心では同値でない数学上の根拠(無限と考えられる多数とは異なる)がある。

つまり閉塞は無限なるものを背景としたわれわれ日本人の心には天与の閉塞は絶望ではなかったので特攻突撃が成立していたのである。これは狂気ではなく数学的真実に基づいた冷静な人生理解である。ここまで極めた民族は絶対に滅ぶことはない。


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