歴史をほじくると、札幌農学校は学士授与機関としては旧東京大学より約1年早く設立されたため、北海道大学では札幌農学校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけているそうだ。異論もあるだろうが、この明治20年以降の学位令(写真)による学位制度では、文部省による博士しか認めていない。
学士号授与の例外が札幌農学校と専門学校時代の神田錦町の東京高商・一橋統合校舎の東京商科大学だったわけだ。実質はともかく学位授与権は今日に至っても文部省(影響下の組織 機構)にとられたままだ。札幌農学校一期生は明治13年7月10日に卒業し学位を授与されている。
天野氏によると「ヨーロッパでは、大学は、学位授与権を持つことによってはじめて大学になると考えられています。即ち、大学は必ず学位授与権を持たなければならない。日本で最初に学位授与権が認められた高等教育機関は、東京大学であり、明治11年のことでした。東大が明治11年だから14年に最初の学位授与が行なわれ、札幌農学校(北大)の方が一年早いという歴史がある。この当時は学士号だけが学位とされていました。つまり日本でも学士号が学位だとされていた時代が短期間ですが実在した」という歴史があった。だから、北海道大学は札幌農学校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけている。「博士号の授与権は、はじめ大学にはなくて、文部大臣が持っていました。これも特殊です。そして先程の学士は、このときに学位ではなくなり、単なる称号になったわけ」と天野氏は解説している。だから卒業証書を見ても、学士号の学位を授与するとは書いていない。「「学士の称号を授ける」と書いて」あるだろうととのこと。
天野氏によると「ヨーロッパでは、大学は、学位授与権を持つことによってはじめて大学になると考えられています。即ち、大学は必ず学位授与権を持たなければならない。日本で最初に学位授与権が認められた高等教育機関は、東京大学であり、明治11年のことでした。東大が明治11年だから14年に最初の学位授与が行なわれ、札幌農学校(北大)の方が一年早いという歴史がある。この当時は学士号だけが学位とされていました。つまり日本でも学士号が学位だとされていた時代が短期間ですが実在した」という歴史があった。だから、北海道大学は札幌農学校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけている。「博士号の授与権は、はじめ大学にはなくて、文部大臣が持っていました。これも特殊です。そして先程の学士は、このときに学位ではなくなり、単なる称号になったわけ」と天野氏は解説している。だから卒業証書を見ても、学士号の学位を授与するとは書いていない。「「学士の称号を授ける」と書いて」あるだろうととのこと。
それにしても最近は公教育の受益者が国家であることが忘れられ、何の就職も保障しない大学だが、
明治18年の帝大卒の月給は600円(優秀な成績の場合) 巡査は6円。100倍の差があって当たり前だった時代、学位記には人生保証の重みがあった。
大学が大衆の目指す経歴になると、学校修了のため人生の大切な時期を無収入どころか親の収入を収奪してまでの一大人生イベントになる。そろそろこの馬鹿な時間の無駄に気づき始めてはどうだろう。
昨年、英訳刊行されたニーチェの『ANTI-EDUCATION』(NEW YORK REVIEW BOOKS CLASSICS EDITED BY PAUL REITTER CHAD WELLMON)が海外で話題を呼んでいる(邦訳は無し)。
Throughout his life Nietzsche thought of himself as an educator, but the time he spent working in higher education was not long and much of it he found frustrating. Appointed professor in classical philology at the University of Basel in 1869 when he was only 24 years old, he was seen as a prodigy with a brilliant career ahead of him. However, he left academic life in 1878, due to his worsening health and increasing disillusionment with institutionalised scholarship. The writings for which he is most remembered were written in the following decade, which he spent wandering restlessly around Europe. Then, in 1889, he suffered a disastrous mental collapse from which he never recovered.
これは、1872年にバーゼルで行われた全6回に渡る講演を記録したもの。当時のドイツにおける教育(教養・主にギムナジウムと大学)の問題点が、年老いた哲学者と弟子による対話形式から明らかになる。
まずニーチェは、“教育によって身を立てる”、その考え自体が誤りなのだと断じる。
<生存競争を勝ち抜き、生きたいと願うのならば、多くを学ぶ必要があると言える。だが、そのような利己的な目的から得られるのは、本来の教育や文化とは全く関わりのないものばかりだ。>(筆者訳)