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アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する

2015-11-05 21:49:00 | ジョージ・ソロスのワンワールド

『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する』
馬渕睦夫 著
今更アメリカの社会主義者の謀略に驚きゃしませんけど。明日読みましょう。米国ではADLの検閲で出版できない本でしょう。

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国際主義と社会主義を裏側で操っていたシオニズムの成果がイスラエルであるということは常識ですが、米国側の国際主義として書かれていることは、ハーディング大統領の評価以外はほぼ私が描いた大東亜戦争及び欧州戦争の原因と同じです。

馬渕氏には白洲次郎、木戸内大臣、裕仁後見人前任者である牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日(文久元年10月22日)‐1949年(昭和24年)1月25日):娘雪子が吉田茂に嫁ぐ)吉田茂(暗号名ヨハンセン)などの周辺の日本人側の協力者、そう忘れてはいけない山本五十六らのテクノ系国賊を描く事が出来ていない。海上自衛隊幹部学校長中山定義は自著に、開戦時の海軍省人事につき、沢本、岡、石川、藤井茂(岡敬純軍務局長、石川信吾第二課長、沢本頼雄海軍次官らのこと)と同郷人が要職にあったことに「偶然にしては少し出来過ぎではあるまいか」と述べている[『一海軍士官の回想』p.175]。海軍の中央から米内、山本、井上は海の上に追い出され、『賊軍の昭和史』で半藤は「日米開戦時不思議なくらいかつての薩摩海軍が生きていた」とも言っている。これは究明の必要な違和感がある。

昭和11年2月26日には陸軍の青年将校を中心とした二・二六事件が起こり、岡田啓介首相・斎藤実内大臣・高橋是清大蔵大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎教育総監らが襲われる中、牧野は伊豆・湯河原の旅館「光風荘」に宿泊しているところを襲撃されたが難を逃れたということになってる。鈴木貫太郎の急所を外し止めを刺さなかった難のがれの経緯も怪しいのだ。

私はこのテロルの本命は渡辺錠太郎。シオニスト国際金融資本にとっての裏切者高橋是清と資産収奪の障害、天皇機関説論者一掃がターゲットであり脅迫だったと考える。彼等を影で操っていた国際金融主義者(第一世代国際主義)の動機、麻薬利権と債権回収、特に昭和天皇の選択した生き残り戦略が馬淵には描けていません。馬淵さんの次回作に期待しましょう。 終戦出口戦略は牧野と吉田をキーオープナーとすることに予め決まっていたカウンター型クーデターが二・二六だった。

第一次世界大戦参戦についてはエドワード・マンデル・ハウス大佐についても分析が薄い。亡命後の真性国際主義者トロツキーとの関係性、スターリンの見せかけの国際主義、コミンテルン、コミンフォルム(第二世代国際主義)との関係性が描けていません。国際主義は国民国家破壊の方便であって真実に世界革命を実現することとは異なる一線が隠されている。国際主義の側も必ずしも一枚岩ではなく、金融ルートと戦争ルートがあり第一世代、第二世代がある。さらにそれぞれに政治に食い込んでいる国際主義者が重複している。しかも手法は金融簒奪型、政治型。それもロシア型とメキシコ型両方が同時に試される。そのくらい複雑な謀略の重層(実験だった故にチャップリンが映画(独裁者)の取材に来ていた)があり、成功も失敗も入り混じってあるということです。


第二次世界大戦参戦はドイツが容易に挑発に乗って米軍を攻撃しないので、米国はなかなか参戦できなかった。フランクリン・デラノ・ルーズベルトは1937年には有名な隔離演説、防疫演説で疫病に例えた三国同盟に対する戦争を示唆して米国民の反応を見ている。財務長官ヘンリー・モーゲンソーは昭和15年(1940年)、国民政府軍を装って日本を先制爆撃する計画を提案し、一旦は取り下げながら、結局昭和16年(1941年7月23日)にはJB355と呼ばれる文書にルーズベルト大統領が署名。真珠湾攻撃の5カ月前ヘンリー・モーゲンソー日本を焼き払う計画を復活させた。150機の長距離爆撃機を国民政府軍に供与して、東京、横浜、京都、大阪、神戸を焼夷弾で空襲する(操縦は米軍人)計画書は別の実現しなかった歴史だ。ヨーロッパに爆撃機を回すため実現しなかった。ヘンリー・モーゲンソーjr (Henry Morgenthau, Jr., 1891年5月11日 - 1967年2月6日も計画を推進したがその蒋介石とのパイプ役大統領補佐官ロークリン・カリーもソ連のスパイ(米国の兵力で世界を共産化する計画の共鳴者で、最終的にコロンビアに亡命)だった。Lauchlin Bernard Currie (October 8, 1902 – December 23, 1993) 

4年も前から戦争を始めることが前提だった第32代大統領(1933年 - 1945年:異例な12年任期)フランクリン・デラノ・ルーズベルトFDRは不戦の選挙公約で大統領になったが、就任早々に戦争準備を開始している。

1891年、モーゲンソーは不動産業者であり外交官である政権内の貴重なユダヤ人、ヘンリー・モーゲンソーの息子としてニューヨークに生まれ(父親も同名のためヘンリー・モーゲンソー・ジュニアで、ロスチャイルドの血族と、鬼塚英昭氏の『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』の中に書かれている。真実は歴史が証明してくれるだろう。)、現在のドワイト・スクールに通った。コーネル大学で建築学と農学を学んだ後、1913年にフランクリン・エレノア・ルーズベルト夫妻と出会い、親しくなる。第一次世界大戦中には農業局で働いていたが、1929年に当時ニューヨーク州知事のルーズベルトにニーヨーク州農業諮問委員会と同州の管理委員会の議長に指名された。

ニューディール政策には反対だった。1933年にルーズベルトはアメリカ合衆国大統領に就任した際、モーゲンソーを連邦農業審議会の議長に指名した。翌年、ウィリアム・ウッディンが病気で財務長官を辞任した際、彼を後任に指名した。彼はケインズ経済学とは正反対の正統派経済学者であり、ルーズベルトによるニューディール政策の一部には同意していなかった。しかし、モーゲンソーはルーズベルトの忠実な部下であり、1945年まで政権の一員であった。彼の推薦でFRB議長となったのが、マリナー・エクルズであり、1934-1948年まで14年間、在任しフランクリン・デラノ・ルーズベルト政権の実質的権力者だった。債務を清算したとすればデフレが生じると気づいていたエクルズの改革は以下の通り。これでデフレを乗り越えた。しかし1948年5月26日西海岸の新興のジアニーニ銀行閥の政治力に追われる(ジアニーニA.P. Giannini (May 6, 1870 – June 3, 1949) 自身は1949年に死去、ディズニーの白雪姫もゴールデンゲートブリッジもジアニーニの融資による)。背景には1937年、連邦準備制度がトランスアメリカとバンクアメリカ(旧バンク・オブ・イタリア)を強制分離しようとした

  • 連邦準備局を改組して、7名の連邦準備制度理事を置く
  • 理事7名と各地区の連邦準備銀行代表5名で公開市場政策委員会を組織する
  • 理事会の決定で預金準備率を変更できるようにする
  • 連邦準備銀行の、加盟銀行に対する貸し出しをより自由にする
  • 不動産融資の規制を緩和する


1948年以降米国の水面下はイタリア系移民地下経済(マフィア)に変化する。そしてJFKが大統領になる。戦争利得者ジアニーニ銀行閥の巻き返しが戦後西海岸で起こりバンク・オブ・アメリカ・コーポレーションの1987年ブラックマンデーまでの成長へとつながる。

予定外のソ連の核兵器開発や1948年以降に明らかとなる対日政策の変更、《社会主義を許容する国際主義》からの米国の政策転換、冷戦という仮想ゲーム理論の導入以降も含めると、ますます謀略は局所的で一貫性がなく複雑になってゆく。アチソン《ジョージ・アチソン・ジュニア(George Atcheson Jr., 1896年10月20日 - 1947年8月17日、his son Mario Giannini (1894–1952) assumed leadership of the bank. Giannini's daughter, Claire Giannini Hoffman (1905–1997), took her father's seat on the bank's board of directors, where she remained until the 1980s. )は、アメリカ合衆国の外交官。》の(あえて言う)謀殺1947年8月が米国の大きな転換点かもしない。

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