公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

国土と皇統  「痩我慢之説」 福澤諭吉と山崎闇斎 天皇陛下万歳

2016-04-01 07:52:00 | 日本人

国土の本質ということが今日のテーマ。
定義では
国土(こくど)は、一国の国境線によってその範囲を示された領域。

しかしこれは版図という意味である。国土の本質ではない。
国土とは歴史的なものである。国土はあっても版図のないマルタ騎士団もあれば、国土がないのに版図を持つイスラエルのような人工国家もある。アメリカ合衆国も歴史があっても出発点は人工国家であって、嘘の歴史を信じる人々が国土と版図の一致を幻想的に承認している。支那もまた半人工的国家である。なぜならば、自国版図内の人狩りをしているからそう言える。日本は純然たる国土と蝕まれた版図をもつ歴史的国家である。

このように国土は単なる領土ではない。国際法や法治主義で版図が確定される以前に国土は既に國民の歴史である。国土を歴史的に持つが版図を持たないマルタ騎士団のような国(協会)もある。幸い日本は数次の災害と戦争にもかかわらず歴代の國民がその努力で國民意識を築き上げた結果、版図も国土もここにある。結果、この國の国土の屋根は天皇陛下であるが、國民が国土の屋根の上に永遠に皇統を祀る根拠は國民の敬愛、心の敬すなわち心の覚醒の総和による。日本人の地である国土を永遠に大切にして邪心を排してつつしむ國民の精神があるから、皇統は祀られている、この事を自覚する人格が天皇陛下である。皇統に期待される資質は唯一自覚である。今日はたまたま雨が降っているが、雨を祓うかのように、災いをわが身で受け止めようと祈祷する自覚があるからこそ天皇陛下は国土の屋根に相当する。だから皇統を皇族やロイヤルファミリーと《英国的に》捉える愚か者は皇統の子孫といえども廃嫡理由に相当すべき邪心者である。祈祷する自覚、残念ながら現在の東宮の宮にはこの邪気を遠ざける意志があるように見えない。このように皇統は国土と一体で捉え、自覚がなければ単に骨肉が争う利害家系になって國民に見放されてしまう未来が私には見える。

山崎闇斎の倫理を正す神道の整理では、五行土金の一切の邪気を祓った水、五十鈴川の流れのような純粋な気の上に理が伴って天皇の人格が尊敬される。理屈、つまり血縁の理(万世一系)だけでは皇統の維持は不十分。もちろん皇統がなくても国土のある国は多くある。仕組みの上に理気が何故必要なのか以下に述べよう。

この理気論が日本人に特異な情緒精神の真髄である。正しい気の上に乗っていなければ、人の道の条理は実現せず、ましてや連綿千年余も継承されない。

このように闇斎にとって神は、いろいろな形で表出する倫理の媒介項に過ぎないという思想がよくわかる。気に正邪がある故に聖神、邪神がある。故に仏教もキリスト教も邪神教である。何となれば来世の受益を唱えて誠心の気を穢しているから、と闇斎は主張する。オスカー・ワイルドの「幸福の王子」の結末のように*幸福という地上の価値は虚しく、昇天した天国の価値が尊いと考えるのは神の意志に従って地上が滅ぶことを望んでいるからである。邪の気とはこのことである。地上の神を信じること、これは都合の良い結果解釈とも言えないわけではないが、そうではない。本気で國民が己を正すことが修身斉家治国平天下の基本という整理になる。


すなわちここに皇統は生きた國民の教科書となるのであって、そのような意味では天皇陛下は現人神である。しかしかつての歪められた国粋主義の意味ではなく、現人神は全ての日本人に等しく分祀される立派な正邪思想、自然にもっている共通情緒なのである。これはなにも晩年に、私を去って、大きな自然に従う境地である則天去私の境地に達したという漱石などの回り道をした教養人が達する別世界ではない。草履を揃えて玄関に上がる普通の日本人の心の世界のことである。これが理気である。

すなわち敬がある限り、すべての日本人の心の中に神がいる。これが新渡戸が苦労して英米人に説明した武士道の背後の論理である。新渡戸は神の信仰のない日本に道徳教育は成立しないと言われ『武士道』を英文で書いた。
『武士道』新渡戸 稲造 (著), 奈良本 辰也 (翻訳) Kindle版
 初版の序
「十年ほど前、ベルギーの高名な法学者、ド・ラブレー氏のもてなしを受けお宅に数日滞在したことがある。その際、二人で散歩していて、会話が宗教の話に及んだ。『日本の学校には宗教教育がない、ということですか』と、尊敬する老教授は尋ねた。私がそうですと答えると、教授は驚いて足を止め、容易には忘れ難い口調で、『宗教がない!道徳教育はどうやって授けられるのですか』とくりかえした。」とある。この時即答できなかったのが新渡戸稲造の『武士道』を英文で書く動機になった。明治32年から十年ほど前のエピソードである。そこから苦労して書き上げた。

新渡戸稲造は闇斎を引用しないが、武士道の示すところは、すべての日本人の心の中に神が分祀されている。これが山崎闇斎「心則神明之舎」の教え、理気論である。言わばドイツ観念論の祖カントの純粋理性批判の日本型、『純粋理気批判』の哲学である。100年は早い体系である。しかも西欧哲学は未だに追いついてないから、敬が理解できない。

欧米人は遠慮や辞譲は卑屈と考えている。確かに敬のない辞譲は卑屈かもしれない。しかし日本人は自然な前提として敬の心を持っている

皇族ではないが明白な男系男子皇統 醍醐 忠重は目隠しを拒否し、黒色の洋服を着用した上で羅沙の帽子を被り、刑場にて君が代を声高らかに歌った後に「天皇陛下万歳」を三唱した。そして同日午前8時、12名の銃手によって一斉に射撃が行われ、執行された。享年56。靖国神社内にある遊就館には、醍醐の遺品である海軍の軍帽が展示されている。醍醐 忠重(だいご ただしげ、明治24年(1891年10月15日 - 昭和22年(1947年12月6日)は、日本海軍軍人貴族院議員。 海軍中将。爵位は侯爵後陽成天皇男系九世子孫である。



ドイツ観念論の流れにある西欧哲学では、対立概念は止揚の対象であって、神の体系が自己保存生存するために他を支配する方向でしか哲学が発展しない。日本人の特異な精神は邪気に満ちた理論はどんなに世界を支配していても自ずから滅ぶと直感するから、他者の体系を敢えて否定しない。禊ぎ祓うか、非業の死者や報われなかった英傑の神社を祀るだけである。

ものの研究によると《闇斎は、「敬」をわかりやすく説明するために、朱子学にはみられない言葉をつ かう。「敬」とは、「つつしむ」ということであり、心を覚醒すること》とある。闇斎は敬を、屹と、と読む。これが日本の17世紀の哲学水準である。どれだけ精神哲学について日本が先進国であったか。

福澤諭吉は「痩我慢之説」で「立国は私なり、公にあらざるなり」と述べている。闇斎と福澤は関係はないが、時流が変わったから私情も変わると言うのは近代の紳士の姿ではない。というのが福澤諭吉の主張だ。たぶん勝海舟を批判する上で幕臣の栗本鋤雲(じょうん)のことを理想の官吏(幕吏として勝海舟とくらべているのだろう)と思い浮かべたのだろう。つまり福澤は愛國忠臣と云うのは私情であるとしたわけだ。それを勝みたいに奉公身分が公けぶって騒ぐなと福澤はいう。

私にはここで山崎闇斎の「心則神明之舎」の教えが蘇ってくる気がする。闇斎もまた私情の神を心に見よと言っている。福澤はそんな心の説明をしていないが、近代個人主義の輸入者として「立国は私なり、公にあらざるなり」言ったことは、既に保科正之の時代に奉公の心得として実現していたということだ。

21世紀のわれわれがこれをどう解釈するか、あるいはしないで放置するかは、歴史の赴くところなのでどうなろうと構いはしないが、日本人の原理だけは覚えておいたほうが良いだろう。貴重なので以下に引用しておく。


1968年10月23日、日本武道館で政府主催の「明治百年記念式典」で『天皇陛下万歳』を発声した人物
以下、『歴史の十字路に立って 戦後七十年の回顧』(石原慎太郎、2015年6月Kindle版より)
「テンノー、ヘイカッ、バンザアーイッ!」
などなど、つまりは父祖の苦闘の歴史を重ね合わせてあの明治百年の行事を今また思い返してみると、日本人としての真っ当な主張を誰憚ることなく、しかし、けっして声高に叫ぶのではなくそれぞれの胸に深く刻むことの意味を、平成の今こそ取り戻さなければならぬという気が強くするのだが、明治という大いなる父祖の時代を思えば思うほど、私たちはそこから切り離されてはなるまいと思う。  さて明治百年の行事には、私は都合で少し遅れてしまい、国会議員の席としては後ろ側の野党議員たち、主に社会党の議員たちの席に座っていたものだった。  式典が進んでいき、最後に体育大学の学生たちによる立体的なマスゲームが行われ、その後、佐藤総理の音頭で日本国万歳が三唱されて式は終わった。やがて司会のNHKアナウンサーが、「天皇、皇后両陛下がご退席になります」と報せ、参加した全員がまた立ち上がって両陛下をお見送りした。  そして、あのことが起こった。それが起こった瞬間に、私だけではあるまい、出席していたほとんどがこの式典に実は何が一つだけ足りなかったかを知らされたと思う。  壇上から下手に降りられた両陛下が私たちの前の舞台下の床を横切って前へ進まれ、ちょうど舞台の真ん中にかかられた時、二階の正面から高く澄んだ声が、 「テンノー、ヘイカッ」  叫んでかかった。  その瞬間陛下はぴたと足を止め、心もちかがめられていた背をすっくと伸ばされ、はっきりと声に向かって立ち直されたのだった。そしてその陛下に向かって声は見事な間をとって、「バンザアーイッ!」と叫んだ。
次の瞬間、会場にいた者たちすべてが、実に自然に、晴れ晴れとその声に合わせて万歳を三唱していたものだった。私の周りにいた社会党の議員たちもまったく同じだった。そして誰よりも最前列にいた佐藤総理がなんとも嬉しそうな、満足しきった顔で高々と両手を掲げ万歳を絶叫していた。  あれは、つくづく見事な「天皇陛下万歳」だったと思う。あの席にいながらなお、あれに唱和出来なかった日本人がいたかも知れぬなどとはとても思えない。あれは単なる昭和天皇への言寿ではなしに、私たちを突然見舞った熱い回顧であり確認だった。それを唱えながら私たちは忘れかけていたものを突然思い出し、静かに、密かに熱狂していたものだった。  あの瞬間ただひたすら、 “ああ、かつて私たちはこうだった。なんだろうと、こういう連帯があったのだった”  と誰しもがしみじみ感じ直していたに違いない。  あれはなんと言おう、国家や民族というものの実在への、瞬間的ではあったが狂おしいほど激しい再確認だったと思う。
あの瞬間の後、ある者は反省して、あの「万歳」のもとで多くの者たちが死に、歴史は歪んだ軌跡を辿っていったなどと思い直したかも知れない。  しかし何であろうと、私たちはあの瞬間、この戦後二十余年の推移の中でますます希薄になり、それを思うことが禁忌にまでなりかねないある種の分裂ある種の混乱の中で、失いかけていたものの実感を、瞬時とはいえ取り戻していたのだと思う。  そして、あの瞬間を平成の今思い直してみると、あの時感知し確認させられたものがさらにますます消滅していこうとしている予感に苛まれるのは果たして私一人だろうか。  あの時二階席からかかった「天皇陛下っ」の声に、見事というか本能的にというか、誰よりも早くそれを聞き届けて立ち止まり、すっくと立ち向かわれた昭和天皇はもはや言寿を受ける天皇個人ではなしに、正しく私たちの国柄、歴史の象徴たり得ていたと思う。
「末次一郎氏が何も答えなかったことの意味」
後年私は思いがけぬ形であの時の見事な「天皇陛下万歳」の秘密について知らされた。佐藤総理が引退してしまってからのことだ。
ある縁で知り合った青年運動の指導者末次一郎氏と、この国が失いつつあるもの、いきなり愛国心とか天皇とかいったことではなしに、戦後蔓延しつつあるさまざまなアパシー(無関心、無感動)に抗して取り戻さなくてはならぬもの一般について話し合っていた時、私は自分の今の思いのよすがとして何年か前の明治百年の記念式典の折の、思いがけなくも唱和した天皇陛下万歳の印象について話した。  誰が行ったのか未だに知れぬ、あの見事な「天皇陛下万歳」に凝縮象徴されていたものについて、そろそろ本気で考え直さないと、我々は致命的な喪失を味わわされるのではないか。それにしてもあの見事な万歳を発声したのは一体誰だったのか。陛下も見事にそれに応えられたものだが、あの絶妙なタイミングといい、声の張りとその抑揚の素晴らしさは、と言ったら、目の前の末次氏が、「いやあっ」と頭をかいて、「実はあの声の主は僕なんだよ」と告白したのだった。
「あの式典に若者たちの動員も含めていろいろ協力しろと佐藤さんに言われてね、それに異存はないが、ならば一つ条件があります。式の段取りの中に天皇陛下への万歳がありませんが、どこかで必ず入れてください。
そう言ったら、佐藤さんが暫く考えて、いや、それを事前にプログラムに載せると必ずつまらん文句がつく、それが話題になるだけでも陛下にはご迷惑をかけることになるからな、とね。さすが臣吉田茂の弟子だと思った。  そしたら、それは君がやれ、是非やってくれ。誰かが番外でやったなら、文句のつけようもあるまい。万が一問題になったら、その時は必ず俺が責任をとるからどうか頼む、ということになっちまったのよ」
他のすべての手配が済んだ後、残された日々に、プログラムを眺めながら、いつにしようかと考えに考えたがわからない。ならばその日その場の雰囲気を眺めて、現場で決心して行おうと決めたという。 「だから当日はもう他の事はまったく頭に入らず、万歳のタイミングだけを考えて式を眺めていたな。しかし式典はどんどん進められていく。これでもしし損なったら、佐藤さんへの面子だけじゃなしに、何かもっと大きなものへの言い訳が立たないと思ったね。失敗したらこれは切腹ものだなと思いだしたら汗が流れてきたよ」  そして、あの絶妙なタイミングとなったのだった。 「僕の第一声に陛下がぴたっと足を止め、二階のこちらに向き直ってくださった瞬間には、感動というより、ああこれで死んでもいいなと思った」
言うと末次氏は静かに破顔してみせた。「あれはたぶん日本で最後の本物の天皇陛下万歳でしたよね。今になればなるほどそんな気がしますよ」  私は言ったが、氏はそれには黙ったまま何も答えはしなかった。あれもはるか昭和の時代の話である。末次氏は平成十三年に身罷ったが、今になってみればなおさら、あの時末次氏が何も答えなかった意味がこの国の現状に照らして察せられる。



つくづく思う、国民の心から公を盗むなかれ。

「立国は私なり、公にあらざるなり」は国粋主義でも愛国主義でもないが、日本主義である。国家主義でも國體主義でもなく個人主義である。国土は、歴史的であると同時に究極の愛国個人主義的概念であるが故にわれわれはやせ我慢してでも護るべきものなのである。という私的解釈をしている。

このように日本が近代に遅れたのではなく、後から日本に西欧式近代がやってきたのが本当の歴史的本質であることを忘れてはいけない。教えるのはこちら側なのです。

最後に「武士道」から

「命を吹き込むのは精神である 。精神抜きでは最良の道具もほとんど役に立たない 」というありふれた言葉をくり返すまでもない 。もっとも進歩した銃砲も 、ひとりでに発射するわけではないし 、もっとも近代的な教育制度も 、卑怯者を英雄にはできない 。そう !鴨緑江において 、朝鮮および満州において戦勝をおさめさせたものは 、私たちの手を導き 、私たちの心臓に鼓動している父祖の霊魂であった 。これらの霊魂 、私たちの勇敢な祖先は死に絶えたのではなく 、見る目のある者にははっきりと見えるのである 。もっとも進歩的な思想を持った日本人でも 、その皮膚を剝げば 、一人の武士が下から現れる 。名誉 、勇気 、あらゆる武徳の偉大な遺産は 、クラム教授が実に適切に表現したように 、 「われわれが預かっている財産にすぎず 、死者ならびに将来の子孫から奪ってはならない領地 」である 。


名誉、これもまた国土である。



30年以上の老朽艦 ご苦労様。かつての最新鋭護衛艦はたかぜ。シルエットが戦艦である。
http://www.mod.go.jp/msdf/formal/gallery/ships/dd/hatakaze/172.html


*『「おかしいなあ」鋳造所の労働者の監督が言いました。 「この壊れた鉛の心臓は溶鉱炉では溶けないぞ。 捨てなくちゃならんな」 心臓は、ごみために捨てられました。 そこには死んだツバメも横たわっていたのです。

神さまが天使たちの一人に「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。 その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥を持ってきました。

神さまは「よく選んできた」とおっしゃいました。 「天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い、 黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろう」』


生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。
たいていの人は、ただ存在しているだけである。
- オスカー・ワイルド -

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