岡潔「春宵十話」より「人生というものは、本当に善く生きようとしている者にとっては、まことに生きにくいものだと思う。この第三の直感ができてゆくにつれて困難は自覚されてゆくばかりで、。。」
第三の直感というものがどんなものを示しているのか、こればっかりは簡単ではない。第一は実在感、第二は選別感、第三はより大きな総合的直覚のことだが、その実体は簡単ではない。
第一や第二の直感のように指し示す事ができる心象は有限の世界のものでしかない。有限のものは言葉になるが、言葉がたどってきた脳裏は本人にさえ説明できない。説明できないが自然に行っている自明感、言葉にできるものでさえ捉えがたいが、こうした別次元で無心と言われる五感から突き抜けた感覚状況がある。無差別智とも言っているがこれが見えればどんな困難にも理性的に向かって行ける。
岡潔さえもこれをうまく表現できず経を読むうちに何か剥がれ落ちるかのような直感と言っている。最初の大論文をまとめた時も何故か北大の理学部(中谷宇吉郎に北海道に転地をかねて遊びに来いと呼ばれたそうである)のソファーの上に放心して長く座っていた後に見えてきたという。(後日、伝記「天上の歌―岡潔の生涯」帯金充利, 販売 月並書店 を読んでみると、正確な話は帰郷を前におじゃまして朝食を頂いたあとの、中谷宇吉郎の家のソファーだったそうだ。)
自明ということに関しては最もこれを哲学で解剖できた人物はショーペンハウエルだろう。彼が示した充足理由律の四つの根を疑い得ない自明と受け止めるか否かが知の敗北を認めるか否かの分かれ目となる。私は知は敗北したと考える。岡潔も似たようなことを仏教の立場から述べているが、知の敗北とまでは言っていない。知の敗北とは哲学が自明を論究の対象としないことにある。
バートランド・ラッセルも「心の分析」でいくつかの講義を行っているが、パースペクティブの法則の他に踏み込んだものは見当たらない。パースペクティブもまた自明の様態の一つであって、無限に選択し得る。
しかし無限に選択しうる自明はすなわち非自明である。バートランド・ラッセルは従来の主客の構図が無限に続くという論理の発散を巧みに回避することに成功したが、語る主体を取り除いた記述形式以外に自明の自律について何も示していないばかりか失敗している。
バートランド・ラッセルが「心の分析」でいうパースペクティブというのは、我々の認知が理性より先に自明を受け入れる形式にほかならない。T-Rexの錯覚と同じ奇妙な体験である。考えるより前に私達は一つの信頼を自動的に選びだし、Aha!となるまでは「こちらをみているT-Rex」が本当にいるかのように処理しているために、そのような認知の枠組みから逃げ出すことができない。ショーペンハウエルの4つの根*、すなわち空間的認知、継起的認知、(この二つ1と3をまとめて第一の直感=実在感と岡潔はまとめた。)分析的認知、動機的認知(自覚行為)、(この二つ2と4をまとめて第二の直感=選別感とまとめた。)の疑い得ないアプリオリの背後で自明は自動処理されている。それ故に発見もまたパースペクティブの自明の呪文が解ける瞬間に訪れる。
*四つの根
1.生成の充足理由律 - 「新たな状態には、充分な先立つ状態がある」(原因結果ー因果関係)
2.認識の充足理由律 - 「ある判断がある認識を表現するには、その判断はある規則に従っていなければならない」(論理ー判断基準)
3.存在の充足理由律 - 「時空間に存在するには、位置や継起の関係において規定しあう」(空間論理ー数学上の空間)
4.行為の充足理由律 - 「行為にはある充分な動因がある」(理由帰結ー動機の内在)
充足理由律を提唱したライプニッツの系譜がここにある。岡はこの先の充足理由律を第3の直感と言っている。
なにかに見とれ、放心してしまうような体験、なにかが突然に落ちてしまいたちまち見通しが良くなるような体験が数学にもあるらしい。岡の「人生というものは、本当に善く生きようとしている者にとっては、まことに生きにくいものだと思う。この第三の直感ができてゆくにつれて困難は自覚されてゆくばかりで、。。」に戻るが、なぜかよく種明かしの先が見えてしまうことの苦しさを言っているのかもしれない。
思念も技もパースペクティブの呪文力が入っているうちは次の段階に移らない。力が抜けて真っ白になって放心する、一見呆けているかのような無心になるには言葉が出ないくらい一度思考をギブアップできる何者かがきっかけで見えてくるものらしい。答えが見えた以上はもう後戻りはできない。ここに苦しみがある。答えにふさわしい正確な問いを求め共有物として固定することが知的創造である。
岡はこれを無差別智という。岡潔は「自明なものを自明と見る」力とも言っている。私たちは人生をあれこれ考えれば考えるほど自明なものが見えなくなってくる。それも苦しい。しかし本当の苦しみは自明なものが苦しみの種になる。善く生きるという決意の動機は常に死と生である。どう生きるかということを学者が確信を持って示すということは稀であると、小林秀雄は岡潔との対談「人間の建設」で言っている。岡自身ももう数学はおしまいかもしれないとぼやいてるのは、わかるような気がしてしまうから不思議だ。理論はわかっても、矛盾する結論に情がついて行かない。それが岡潔の生き方の終わりを示している。実に潔い。情を忘れなければ政治的善などない。
われわれ凡人に第三の直感が関係ないかといえば、そうでもない。東日本大震災に揺さぶられて誰もが感じたことは、言葉にならない、集団的な第三の直感と言っていいだろう。
病間録(1901‐05)〈綱島梁川〉価値「真善美は人生の中空に淡く浮かべる虹霓(カウゲイ)にあらずして」 〔春秋元命苞〕
虹霓はレインボー
続く