三島由紀夫に語るとしたら、戦後は確かに偽善だ。しかし戦争の敗北に負けなかったのは庶民であった。
あなたがたのようなエリートの方が真っ先にノイローゼになり弱かった。結果、負けてからの敗地が一層深かった。
安田講堂もそうだった。図式が消えた時、原点起点に還ることのできない者たちは生命力を失うのです。
あなたが死んだ時代のセンゴ共和国は、すでに即物功利主義で、自動車万歳ボーナス万歳であって、天皇陛下万歳が民衆の原点では無かった。錦の御旗革命などアナクロすぎますでしょ。
この病は帝国憲法の民主主義の負けによってではなく、あなたがたの教養の中の青っぽい社会主義の助走のような民主主義が存在崩壊して否定された時に始まったのです。現実の米軍の仕掛けた民主主義による専制という武器体系図式が既存価値図式を上書きし、討論会に集まったあなた方エリート達が先に土下座したのです。
進駐軍によって言葉を失ったエリートと生きることだけに必死だった庶民との中間にいた、常識人の苦悩を想像してみれば良い。戦後焼け野原の東京で生きてゆくためにやむ得ず選んだ他人の郵便を盗み読んで米軍に英文で報告するスパイ生活。
進駐軍相手のパンパンに部屋を貸すと家人が言い出したならば、その一家の家長は権威に基づいて何とも答えようがなかった。せいぜい法学講座で習った緊急避難ぐらいしか慰めの声にできなかったでしょ。
それでは敗戦から20年後多少豊かに先々のことを蓄えで考えられるようになった、この討論が行われた昭和40年代にエリートたちは何を語っていただろう。国を思う気持ちでの反米ならまだ良かったが、逆に家族地域風俗因習といった社会再生(晴/ハレ)の基礎単位を壊し、物欲(仮/ケ)で満たして、神話を教えズ、民族を弱くする。そのための民主的工夫を争って教育していたのが戦後のエリートではないか。
少なくとも少年だった私の目には三島由紀夫の割腹自殺は、狂人の乱心所業にしか見えなかった。
死後も絶対を裏打ちするものがエロティシズムというテーマ。旧約聖書のイサクの行動のように、自分以外のものに対する絶対的受動性を美化する考えは日本人に理解されなかった。三島由紀夫の行動は日本人よりも伝統的ユダヤ人の選民の考えに近いと思っている。イサクを狂人と見るのが現代人の「正しい」常識であって、信仰や聖なるものへの絶対的服従という憂国の幸福、狂人の幸福の自己完結は理解されなかった。しかし
三島由紀夫こそが日本人の前衛であったと思う。しかし彼には前衛と美の区別がなかった。これが大きな欠陥であったと思う。
1945年
戦後という妙な、戦争がないことに寄り添う共同体が日本の代わりに生まれた。私は敢えて、誰もが官僚・政治家になることによって自己実現できるという幻想の国、センゴ共和国と呼ぶが、それが冷戦時代固有の共同の社会価値「戦争忌避」という幻想、人工的「共同体」、核兵器とマネーによって國體に移植された新しい身体「9条」『みんな』の平和への絶対的服従がエリートの間に育った。戦争は国民の期待を裏切り、国民を傷つけたが、当時の日本人はむしろ経済成長が期待を裏切らない国是の代替であることに嬉々としていた。
それは三島由紀夫の求めたエロティシズムと言えるか?民族の版籍と知的財産という究極の財産権の否定まで進んだ核兵器とマネーへの悪魔崇拝、道義を上回る腰砕けの敗北主義がそんなに嬉しいか
「日本が米側を裏切ったら日本の電力網遮断するプログラムが仕組まれている」とスノーデンも言う
奴隷のエロティシズムか。民族の幸福なのか?私はそうは思わない。
全共闘C :
「脱却するということよりも、
むしろ最初から国籍はないのであって………。」
三島 :
「あなた国籍がないわけだろう。
自由人としてぼくはあなたを尊敬するよ。
それでいいよ。
だけれどもぼくは国籍を持って
日本人であることを自分では抜けられない。
これはぼくは自分の宿命であると
信じているわけだ。」
世代によってはどうしても全共闘Cのかたを持ちたい人もいるだろう。しかし、外国を見て日本人を振り返ることなく一番最初に乗り移って、やられて『かぶれ』てしまったのが、全共闘世代だということも忘れてはいけない。全共闘世代に三島由紀夫のような前衛の担い手、真の意味のエリートはいなかった。有象無象が全共闘だった。
一言で言えば『みんな』の平和への絶対的服従は変態である。