『父は十六の年に、お祖父様を説伏(ときふ)せて家督を相続した。その時は父は次のような事をお祖父様に説いたという。
「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌っていい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年を出(い)でずして白人の奴隷と化し去るでしょう。白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈(さんれつ)なる生存競争、血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子(あかご)が猛獣の檻(おり)の中にヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍(はっか)の惨毒から救い出すためには、渺(びょう)たる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」』
夢野久作といえば、「ドグラ・マグラ」のような捉えどころのないアンチヒューマンな推理小説の印象が深いが、本人の立ち位置は仏教の弘教者を認じていることから人間研究家とでもいうべきだろうか?映画化されているので、桂朱雀もぜひ見てみたいものだ。
『奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝頭が自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。 私は、いつの間にか喘ぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央に棒立ちになったまま喘いでいた。 ……ここは監獄か……精神病院か……。』
《略》
『「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもお寝みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他事でも御座いませぬ。……早速ですが貴方は先刻、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、如何で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」』
杉山茂丸は元治元年福岡城下因幡町大横丁で杉山三郎平の長男として生まれた。父三郎平は福岡藩馬廻役、維新後の廃藩置県後に私塾を開く。茂丸は血気盛んな若者で十代にして上京、山岡鉄舟の面識を得、鉄舟の紹介状を持って素手で初代総理大臣伊藤博文暗殺に向かう(日本を白人たちの奴隷にしようとする元凶は薩長の政治家たちら伊藤博文だから)。あまりに貧相な男なので殺す気持ちを無くしたと書き残しているが、真実はわからない。
16才で天下の為に一家を潰すと父に迫ったとは、は大物だ。白禍(はっか)の惨毒という古めかしい言い方にも自己陶酔がある。杉山茂丸という人は白禍(はっか)の惨毒などと謳いながら、後年は、JPモルガンから資本融通して興業銀行をつくることを画策している。実に奇妙な人である。
無事杉山家は潰れることなく三代の人物を産み、夢野久作らについては孫の杉山満丸氏が描いてる。茂丸は義太夫の名人級で、滿鐵の基本構想にも関わる。親子はともに研究に値す人物である。杉山茂丸の方はレーニンとも交友があった。活躍の時期を同じくしていることを考えると、ロシア革命の本質を理解するのが極めて俊敏だったのだろう。次の言葉を紐解けば、なぜレーニンと接点を持つか、わかるのかもしれない。
『玄洋社一流の真正直に国粋的なイデオロギーでは駄目だ。将来の日本は毛唐と同じような唯物功利主義一点張りの社会を現出するにきまっている。』とも語ったと夢野久作が述べている。たしかに日露戦争はその通りになった。更に世界大戦もまたその通りの展開となった。その唯物功利主義一点張りの社会の延長線上に今日がある。若き日の薩長の認識に誤解はなかった。ロシア革命とソ連邦の役割は、その役割が終わった今だから理解できる。
『お祖父様のお仕込みで、小学校入学前に四書の素読(そどく)が一通り済んでいた私は、その振仮名無しの新聞を平気でスラスラと読んだ。それをお祖父様の塾生が見て驚いているのを、父が背後から近づいてソーッとのぞいていることがわかったので、私は一層声を張上げて読み初めた。すると父は何と思ったかチェッと一つ舌打ちして遠ざかって行った。後(あと)でお祖母様から聞いたところによると、その時に父はお祖父様にコンナ事を云ったという。
「十歳で神童。二十歳で才子。三十でタダの人とよく申します。直樹(私の旧名)は病身のおかげでアレだけ出来るのですから、なるべく学問から遠ざけて、身体(からだ)を荒っぽく仕上げて下さい」
これにはお祖父様が不同意であったらしい。益々力を入れて八歳の時には弘道館述義と、詩経(しきょう)の一部と、易経(えききょう)の一部を教えて下すったものであるが、孝経(こうきょう)は、どうしたものか教えて下さらなかった。
とはいえ私は十六七歳になってから、こうした父の言葉を痛切に感佩(かんぱい)し、一も体力、二も体力と考えるようになった。さもなければ私は二十四五位で所謂、夭折(ようせつ)というのをやっていたかも知れない。』
こういう尊敬を素直に書ける坊ちゃんがうらやましい。
『 父が生前に社会の父であったかドウか私は知らない。けれども生前の父をこれ程までに思って、葬式までして下すった世間の方々が、今からは疑いもなく私の父の死後の父になって下すった訳である。
あらゆる意味に於て不肖の子である私は、父の生前に思わしい孝行を尽し得なかった。これからは父の死後の父に、心の限り孝行をして行きたい。』
「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌っていい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年を出(い)でずして白人の奴隷と化し去るでしょう。白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈(さんれつ)なる生存競争、血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子(あかご)が猛獣の檻(おり)の中にヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍(はっか)の惨毒から救い出すためには、渺(びょう)たる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」』
夢野久作といえば、「ドグラ・マグラ」のような捉えどころのないアンチヒューマンな推理小説の印象が深いが、本人の立ち位置は仏教の弘教者を認じていることから人間研究家とでもいうべきだろうか?映画化されているので、桂朱雀もぜひ見てみたいものだ。
『奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝頭が自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。 私は、いつの間にか喘ぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央に棒立ちになったまま喘いでいた。 ……ここは監獄か……精神病院か……。』
《略》
『「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもお寝みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他事でも御座いませぬ。……早速ですが貴方は先刻、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、如何で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」』
杉山茂丸は元治元年福岡城下因幡町大横丁で杉山三郎平の長男として生まれた。父三郎平は福岡藩馬廻役、維新後の廃藩置県後に私塾を開く。茂丸は血気盛んな若者で十代にして上京、山岡鉄舟の面識を得、鉄舟の紹介状を持って素手で初代総理大臣伊藤博文暗殺に向かう(日本を白人たちの奴隷にしようとする元凶は薩長の政治家たちら伊藤博文だから)。あまりに貧相な男なので殺す気持ちを無くしたと書き残しているが、真実はわからない。
16才で天下の為に一家を潰すと父に迫ったとは、は大物だ。白禍(はっか)の惨毒という古めかしい言い方にも自己陶酔がある。杉山茂丸という人は白禍(はっか)の惨毒などと謳いながら、後年は、JPモルガンから資本融通して興業銀行をつくることを画策している。実に奇妙な人である。
無事杉山家は潰れることなく三代の人物を産み、夢野久作らについては孫の杉山満丸氏が描いてる。茂丸は義太夫の名人級で、滿鐵の基本構想にも関わる。親子はともに研究に値す人物である。杉山茂丸の方はレーニンとも交友があった。活躍の時期を同じくしていることを考えると、ロシア革命の本質を理解するのが極めて俊敏だったのだろう。次の言葉を紐解けば、なぜレーニンと接点を持つか、わかるのかもしれない。
『玄洋社一流の真正直に国粋的なイデオロギーでは駄目だ。将来の日本は毛唐と同じような唯物功利主義一点張りの社会を現出するにきまっている。』とも語ったと夢野久作が述べている。たしかに日露戦争はその通りになった。更に世界大戦もまたその通りの展開となった。その唯物功利主義一点張りの社会の延長線上に今日がある。若き日の薩長の認識に誤解はなかった。ロシア革命とソ連邦の役割は、その役割が終わった今だから理解できる。
『お祖父様のお仕込みで、小学校入学前に四書の素読(そどく)が一通り済んでいた私は、その振仮名無しの新聞を平気でスラスラと読んだ。それをお祖父様の塾生が見て驚いているのを、父が背後から近づいてソーッとのぞいていることがわかったので、私は一層声を張上げて読み初めた。すると父は何と思ったかチェッと一つ舌打ちして遠ざかって行った。後(あと)でお祖母様から聞いたところによると、その時に父はお祖父様にコンナ事を云ったという。
「十歳で神童。二十歳で才子。三十でタダの人とよく申します。直樹(私の旧名)は病身のおかげでアレだけ出来るのですから、なるべく学問から遠ざけて、身体(からだ)を荒っぽく仕上げて下さい」
これにはお祖父様が不同意であったらしい。益々力を入れて八歳の時には弘道館述義と、詩経(しきょう)の一部と、易経(えききょう)の一部を教えて下すったものであるが、孝経(こうきょう)は、どうしたものか教えて下さらなかった。
とはいえ私は十六七歳になってから、こうした父の言葉を痛切に感佩(かんぱい)し、一も体力、二も体力と考えるようになった。さもなければ私は二十四五位で所謂、夭折(ようせつ)というのをやっていたかも知れない。』
こういう尊敬を素直に書ける坊ちゃんがうらやましい。
『 父が生前に社会の父であったかドウか私は知らない。けれども生前の父をこれ程までに思って、葬式までして下すった世間の方々が、今からは疑いもなく私の父の死後の父になって下すった訳である。
あらゆる意味に於て不肖の子である私は、父の生前に思わしい孝行を尽し得なかった。これからは父の死後の父に、心の限り孝行をして行きたい。』