藤井聡太、羽生善治、こういうトップの人々を見ていると、できれば周りにとやかく言われずに勝負がしたいだろうなと思うこともあるが、それを含めて勝負の世界なのだろうからトップをどこかで掴んだ人には関係のないことだとも思う。どっちにしても凡人である私の知り得ない世界。
結果はどうであれ好きならば続けられる。さかなクンがいい例だろう。自分は大学は出ていても、さかなクンほど魚は好きではない。釣りもほとんどしたことがない。こういうミスマッチを大量に作り出しているのが受験という関門だと思う。受験した途端忘れてしまう知識など本当に必要なのだろうかと思う。
好きなことだけでは食べていけないというが、中には一生働かなくても生きて行ける資産を生まれながら持つ人もいる。アジアの富豪華僑の子弟には就職せずに渡り歩いて大学生活を続けている人々もいる。彼らには豪華な生活がすでに虚しいのだ。
王子の頃の釈迦のように一度自分の世界を外から見てしまえば、一個の地球を見た宇宙飛行士達のように次の日から価値観が変わってしまう。
好きなことだけでは食べていけないのが普通であることには変わりはない。食べていられなければ死ぬまでのこと、と、明治の男は男子一事を成せば、本望と言っていたが、そのようなスケール感は令和の男子にはない。ある意味この世の奥のルールと攻略法を知ってしまった退屈だけが残留している。
仮に地球が何個もあるとわかればその瞬間からワクワクが止まらないことだろう。しかし結局一個で永久に人間の罪から、あるいはプログラムから逃れられないと知れば地上の価値観は虚しく、既存の美徳は地に落ちる。
21世紀
人類の課題はそう言う虚しさ、AI退屈との戦いだろう。だから火星に住もうというプロジェクトが生まれる。
たぶん小惑星帯に住む方が資源的に合理的なのだが、ワクワクはもう地球にはない。ハイデッガーの第三形式至高の退屈がこの惑星を覆っていることは幸福であるが、人間種族の本能には合わない。
退屈すなわち自由と論じた マルティン・ハイデッガーによる3つの形式分類。
退屈の第一形式
「何かによって退屈させられること」
退屈の第二形形式
「何かに際して退屈すること」
退屈の第三形式
「なんとなく退屈だ」