公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読ん 『山田方谷 至誠惻怛の人』 栗谷川虹 著

2023-01-17 16:25:26 | 今読んでる本

あまり知らなかった陽明学の山田方谷 備中松山藩に生まれ

朱子学を学んだのちに陽明学に出会う。山田方谷は家庭の事情にもめげずに何度も上京する。頑張りすぎて大病を患い死にそうになる。ここでの臨死体験が、

死ぬ前の一念が後年に実現するという確信を持ってから、人格が変わったように実践家になる。

ある日、念じて念じて、根を詰めて大楠公が夢に立つ。

実はそれほど期待感を持って読んだわけではないが、山田方谷の念の結論が自分と同じなので驚く。信念の光は瞬時に世界を照らす。それでなければ、吉田松陰も佐久間象山も学問をした意味がない。人材と木材は山から出るというのはどうやら本当らしい。


山田 方谷(やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士。

方谷は号。諱は球(きゅう)、字は琳卿(りんけい)、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された[1]。明治10年(1877年)6月26日、方谷は小阪部の屋敷で死去した[162]。享年73。死因は腎炎と言われている[163]。遺骸は故郷・西方村の山田家の墓地に葬られた。戒名は「方谷院深文純徳居士」[164]。墓石「方谷山田先生墓」の文字は板倉勝静が揮毫し[165]、墓碑の文面は勝静の命で三島中洲が起草した[166]。現在、墓所とその周囲は公園として整備され「方谷園」となっている[167]。 





天保5年(1834年)1月、方谷は佐藤一斎の塾に入門した[27]。一斎は塾長を務める昌平黌で朱子学を教える一方で自身の私塾では陽明学を教えていたことから「陽朱陰王[注釈 6]」と言われていた[27]。一斎の門下で方谷はたちまち頭角を現し、一斎塾の塾頭となり[28]、後から入門してきた佐久間象山とともに「佐門の二傑」と並び称せられた[28]。世嗣・勝静との出会い[編集]天保7年(1836年)正月、大小姓格に昇格し[25]、9月には藩主・板倉勝職の参勤の行列に供奉して松山に帰る[29]。10月には藩校・有終館の学頭(校長)に就任し、松山城下の御前(おんざき)丁(現・高梁市御前町)に新たな屋敷を与えらえた[30]。

 

天保9年(1838年)、私邸内に私塾「牛麓舎」[注釈 7]を開く。牛麓舎には多くの入門希望者が詰めかけ、門人は数十人に膨れ上がり、塾舎の増築を迫られる事態となった[31]。方谷は身分に関係なく農家・商家の出身者も門人に迎え、その中には後の藩政改革において方谷の手足となる三島中洲、進鴻渓などがいた[32]。牛麓舎は方谷が藩政改革に携わることになった後は三島中洲が師範代として講義にあたったが、嘉永5年(1852年)に中洲が諸国遊学に出たことを機に閉鎖された[33]。弘化元年(1844年)、2年前に桑名松平家から養嗣子として迎えられた板倉勝静が松山に初めてのお国入りを果たした。勝静の松山滞在中、方谷は有終館の前学頭・奥田楽山[注釈 8]と隔日で勝静に経書の講義を行い、勝静の領内巡視にも同行している。当時の弟宛の手紙には、勝静の文武への精励ぶりと自己を律する様子を絶賛する内容が残っている[35]。また勝静も方谷に絶大な信頼をよせるようになった。

 

弘化4年(1847年)4月、方谷は三島中洲を供に津山藩を訪れ、1ヶ月の滞在の間に津山藩士・天野直人から高島流砲術を学び、その代わりに津山藩士に王陽明『古本大学』を講義した[36]。松山に帰国すると、すぐに大砲2門を製造させ、藩士たちに西洋砲術を伝授している[37]。嘉永2年(1849年)4月、勝静は江戸で藩主に就任。8月、前藩主・板倉勝職が江戸で病没した。自分を武士に取り立ててくれた恩人である勝職の死と勝静の藩主継承を見届けた方谷は隠居願を江戸の勝静に提出している[38]。松山藩の藩政改革[編集]嘉永2年(1849年)11月、方谷は藩主・板倉勝静から江戸へ召喚され、藩の財政を司る元締役とその補佐役である吟味役の兼務を命じられた[39]。

当初、方谷は農民上がりの儒者であることを理由に就任を固辞したが、勝静の説得に遂に就任を引き受けるに至った[40]。方谷の元締役就任は藩士たちには驚きをもって迎えられ、松山藩江戸屋敷では、山だしが 何のお役に たつものか へ曰(のたまわ)くのやうな元締「 山出し(田舎者)の儒者の山田氏(方谷)が元締になったところで何ができる」と方谷を揶揄する意味。
御勝手に 孔子孟子を 引き入れて なほこのうへに 唐にするのか
「勝手に御勝手(財政)に儒者を登用して、財政をさらに悪化(唐=空)させるおつもりか」と勝静を批判する意味。という狂歌が流行った[41]。帰国した方谷は早速に藩の財務状況の調査を始めた。その結果、年ごとの会計は適切に処理されることなく先送りが繰り返され、さらに飢饉や不時の出費がある度に借金をし、これを返済するため更に借金を重ねた結果、元本だけで総額10万両を超える負債を抱え、藩士の家禄の借り上げや年貢の臨時徴収が常態化しており[42]、さらに表向きは5万石とされていた藩の実際の石高は半分にも満たない約1万9千余石に過ぎず[42][注釈 9]、これまでの元締役は債権者に藩の実収入を隠して借金を繰り返していた[44]ことが判明した。嘉永3年(1850年)3月、板倉勝静は松山に帰国すると正式に藩政改革の大号令を発し、改革に対して不平を述べたり背信行為を行う者は厳罰に処す旨を宣言し、また改革の全権を委ねた方谷に対する誹謗中傷を禁じた[45]。まず藩内に藩主から領民にいたるまでを対象とする倹約令が発せられた。その内容は大きく分けて、

• 年月を期して全藩士の俸禄を減俸[注釈 10]。
• 身分ごとに着用できる衣服・装飾品を制限し、絹や金などを用いた製品の使用を禁止。生活全般における奢侈の禁止[注釈 11]。
• 役人が領民から賄賂や接待を受けることを禁止[注釈 12]。

である。藩の財務状況の公開[編集]改革の開始にあたり方谷は、藩の財務状況を調査した報告書を勝静と藩上層部にに提出し、藩財政が危機的状況にあることを明らかにし[45]、状況を打開するには債権者である江戸・大坂の両替商たちに全てを正直に公表し財政再建への協力を依頼するしかないとした[51]。方谷は自ら大坂に出向き、債権者を集めて帳簿の内容を全て公開して、債務の10 - 50年間の返済延期を要請し[52]、その間に財政の立て直しと産業振興を図り、それによって出た利益で負債を返済するという再建計画を提示して、彼らの協力をとりつけた[53]。財政改革の手始めとして方谷は松山藩の大坂蔵屋敷を廃止した。それまで蔵屋敷では蔵役人たちが米問屋と癒着して彼らに取引を任せていた結果、多大な損失を出していた。方谷は蔵屋敷の廃止によって年間1,000両に上る維持費を浮かせ、借金の棚上げによって抵当を解除された年貢米を藩に取り戻した[54]。取り戻した米は領内40ヶ所に設けた貯倉に保管し、米相場の動向を見て藩が直接取引を行うことで年間で3,000 - 6,000両の利益を出し、その中から返済が行われた[55]。また貯倉は飢饉のときには民衆に米を配給する義倉の役割も持っていた[56]。殖産興業政策[編集]松山のある備中北部は古くから良質な砂鉄の産地として知られており、それを使ったたたら製鉄が盛んだった。方谷は領内にある鉄山・銅山の開発を藩の直営事業とし[57]、城下の高梁川対岸にある近似(ちかのり)村(現・高梁市落合町近似)に鉄製品の製造工場を次々と建設し、ここを「相老(あいおい)町」と名付け、農具・鉄器・釘の大量生産を始めた[58]。その中でも三本歯の備中鍬は通常の鍬に比べて土地を深く耕せると評判を呼び、特産品となった[59]。さらに山野に杉、竹、漆、茶の植林を行い[60]、松山の従来からの特産品であった葉煙草、檀紙、ゆべしの増産も奨励した[61]。特に煙草は藩の保護奨励策によって「松山刻(きざみ)」の名で知られる名物となった[60]。方谷は年貢米以外の特産品の専売事業を担う「撫育所」と呼ばれる役所を新設した[61]。撫育所に集められた産物は高梁川を下り、玉島港で藩所有の廻船に積み替えられた[59]。船は商人による中間搾取を避けるために大坂を通過し、背後に関東地方という巨大市場を持つ江戸へと直接回漕され、積荷は木挽町(現・東京都中央区銀座3丁目)の江戸中屋敷内の倉で管理された[59]。専売事業の利益は、開始から3年目の嘉永5年(1852年)には1万両を超え、翌年には5万両に迫った[59]。これによって、藩の負債償却が前倒しで始まり、領内の道路や河川の整備も進められた[61]。方谷は専売の利益を藩で独占せず、生産者に正当な対価を支払ったため、庶民の暮らしも潤い、旅人はその佇まいだけで松山領に入ったことが解るほどだったという[61]。これらの専売事業は廃藩置県で松山藩が消滅するまで続けられ、戊辰戦争後に年貢を岡山藩に抑えられていた時期には藩の費用の全ては専売事業の収入で賄われていた[62]。後に藩が2万石で再興された際も松山藩の財政は同規模の他藩よりも余裕があったという[62]。また新田開発も奨励し、新田からの収穫には租税を免除したため、耕地面積や農村人口が増加し、農地の取引価格も上昇した[63]。藩札の刷新[編集]江戸時代後半になると、各地の藩は幕府の許可を得て、藩札と呼ばれる独自の紙幣を発行していた。それらは正貨と兌換できることが原則であったが、財政が逼迫する藩では兌換用の準備金を他へ流用し、さらに穴埋めのために藩札の乱造が繰り返された結果、藩札の価値は紙切れ同然となっていた。備中松山藩も例外ではなく、方谷が元締役に就任した当時で藩発行の五匁札には偽札まで出回っており、藩札の信用は地に落ちていた[64]。方谷は嘉永3年(1850年)に藩札の発行を停止し、3年間の期限付きで市中に出回っている五匁札を全て額面で買い取るとの触れを出した[65]。その結果、未発行分も併せて711貫300匁[66](金換算で11,855両[注釈 13])が藩の札座に集まった。

 

嘉永5年(1852年)9月、方谷は松山城下の近似川原において買い集めた藩札を全て焼却すると布告した[67]。9月5日、布告を聞いて集まった藩士・領民の眼前で藩札の焼却が行われた[67]。作業には方谷自身も立ち会い、辰の刻(午前8時)から始まった焼却作業が終了したのは申の刻(午後4時)であった[68]。全ての藩札を処分した方谷は、専売で得た利益の一部を積み立てて両替準備金とし、「永銭(永札)」と名付けた新しい藩札を発行した[69]。永銭は発行されると同時に抜群の信用を得て、松山藩内はおろか近隣他藩の領内でも使用されるようになった[70]。松山藩の金蔵には永銭との交換によってさらに正貨が積み上げられ、これにより負債の返済は加速度的に進み[70]、

 

安政4年(1857年)には10万両の負債を完済し、さらに10万両の余剰金の蓄財に成功し[注釈 14]、当時の松山藩の財力は20万石以上と評価されるまでに至った[72]。文武の奨励と軍制改革[編集]改革の開始に際し、家中には倹約令とともに文武の鍛錬に励むことが奨励された[70]。併せて銃砲が主体となる洋式軍制の導入が試みられたが、内陸の山国である松山藩では外国勢力への危機意識が薄く、さらに戦国以来の旧弊に拘る藩士たちには受け入れられなかった[73]。方谷は武士主体の軍制改革を諦め、代わって人口の8割を占める農民を軍の主体とする農兵制の導入を決断した[73]。まず藩内の里正(りせい、村長)とその子弟の中から屈強な者を選び、洋式歩兵の訓練を施し、帯刀を許して農兵の指揮官として養成[74]。さらに猟師を集めて西洋式の銃隊を編成し、農閑期に入ると農家の若者を集めて里正の指導の下に射撃訓練を施し、主として国境の警備にあたらせた[74]。方谷は年に一度、農兵を松山城下に集合させて大規模な演習を行った[75]。安政5年(1858年)に松山を訪れた際、農兵の演習を見学した久坂玄瑞は「とても我が藩の及ぶところではない」と感心し、彼によって長州藩に持ち帰られた農兵の構想は高杉晋作の奇兵隊に影響を与えたとされる[76]。山国であり地形の入り組んだ松山藩では城下町防衛の要となる地を集中的に防衛する必要があったが、それらの多くは山間の未開地であった。これらを防衛するため方谷は倹約令で困窮する下級藩士たちを移住させ、平時は土地開墾に従事させ、開墾地からの収穫には租税を免除する[77]ことで彼らの窮状を救うと同時に恒常的な防衛体制を整備するという、後に明治政府が北海道開拓に採用した屯田制の先駆けともいえる制度を発案した[78]。この案は当初こそ「武士の身分を奪われる」と誤解されて反発を受け[79]、僅かな希望者が単身で賀陽郡野山(現・吉備中央町宮地)に入植しただけだったが、先述の租税の免除も手伝って大きな収入が得られることがわかると彼らの家族が移り住み、また藩が学問所や道場を整備したことで、移住志願者が続出するようになった[80]。安政2年(1855年)には津山藩から植原正方[注釈 15]らを招いて神伝流古式泳法を伝えられた。城下郊外の辻巻(現・高梁市津川町今津)に水泳場が開かれ、60歳以下の藩士全員にここで泳法の訓練をすることが義務付けられた[82]。文久2年(1862年)9月には三島中洲らの意見を容れてアメリカ製のスクーナー船を14,300ドル(7,150両)で購入し、「快風丸」と名付けた。快風丸は普段は玉島港と江戸などへの物資輸送に使用されたが、非常時には軍艦として使えるように整備されていた[83][注釈 16]。方谷は庶民の教育にも力を注いだ。城下の鍛治町(現・高梁市鍛治町)、飛地の八田部(現・総社市総社)と玉島(現・倉敷市玉島)に民間のための学校「教諭所」を設けた[74]。教諭所には藩校・有終館の会頭が交代で出張して講義を行い、助教は庶民出身者が務め、成績優秀な生徒には士分への登用の道も開かれていた[84]。幕末期参政就任嘉永6年(1853年)、備中松山は深刻な干ばつに見舞われたが、方谷が貯倉を開いて困窮する零細農民に米を配布したため、松山領内では餓死者は一人も出なかった[85]。領民たちは方谷を生神として祀る祠を建てて彼を称えた[86]。安政元年(1854年)、方谷は藩政の実質的なトップである参政の地位に就いた[86]。改革開始から5年が経過し、藩財政が回復・成長を遂げたのを機に方谷は、

• 倹約令にある藩士の俸禄の減額措置の撤廃。
• 農民への年貢を軽減し、これまでの重税で困窮している村への救済策の適用。
• 藩庫の金を町人に融通して交易を振興する。

の3案を勝静に献策して認められた[87]。安政2年(1855年)10月、安政の大地震では備中松山藩の江戸屋敷も被害を受けたが、藩に金を貸していた江戸・大坂の両替商たちの寄付で早期に再建することができた[88]。この頃、勝静は幕閣への足掛かりとなる奏者番の役職についていた。

 

安政4年(1857年)、勝静に寺社奉行就任の打診があった。勝静は国元の方谷に就任の是非を問う手紙を出すが、方谷は幕府の重職を担うことは役職就任の礼金(賄賂)や交際費、さらに役所の運営費などで藩財政の逼迫を招くと勝静の幕政参加に難色を示し、勝静が江戸に呼び出して説得しても首を縦に振らなかった[89]。ただし頭から反対していたわけではなく、「賄賂を使わなくても就任の命が下るのであれば、それは天命であり、避けるべきではない」とも答えている[90]。しかし国元では倹約令で不満を溜め込んでいた上級藩士たちの間で「方谷は主君の出世の機会を潰そうとしている」と不満が噴出し、さらに城下防衛と生活救済を目的とした下級藩士の移住計画も「武士の身分を奪われる」と誤解した藩士たちの間で反対の声が上がり、方谷の暗殺計画も噂されるようになった[79]。この頃、藩命で松山を訪れた会津藩士・南摩綱紀は見聞録『負笈管見』の中で勝静と方谷の改革を評価する一方で、「手法が過激すぎて失敗する可能性が高い」と分析している[91]。同年8月、方谷の助言に従って猟官運動を控えてきた勝静に寺社奉行就任の命が下った。勝静の命で方谷が行ってきた藩政改革が幕府に評価された結果であった[92]。方谷は勝静に手紙を送り、寺社奉行就任を祝うとともに老齢と改革に一定の目途がついたことを理由に隠居を願い、併せて藩士の移住計画への反感を和らげるべく自らも適当な土地を拝領して帰農したい旨を申し出た[93]。勝静は参政には暫く留任してもらう代わりに元締役の兼任を解き、隠居・帰農もいずれ認めるとの妥協案を示し、方谷もこれを受け入れた[94]。元締役は方谷の弟子で板倉家譜代の大石隼雄が継いだ[94]。

 

安政5年(1858年)9月、安政の大獄が始まると、幕府には「五手掛」[注釈 17]と名付けられた取り調べ機関が設置され、寺社奉行の勝静もその一員となった。勝静は国元の方谷に意見を求め、方谷は志士達に温情を以て裁くことを献策し、勝静もその意見を入れて「1、2の大物を罰するに止め、あとは寛大な処置にとどめるべき」と主張したことで大老・井伊直弼の不興を買い安政6年(1859年)2月に寺社奉行を罷免された[95]。長瀬への移住[編集]安政6年(1859年)4月、方谷は勝静の許しを得て松山城下から約11km離れた長瀬(現・高梁市中井町西方の方谷駅付近)に移り住んだ[96]。方谷がこの土地に目を付けたのは移住の2年前で[97]、「長瀬」という地名も方谷自身が命名し、その翌年には「無量寿庵」と名付けた草庵をこの地に作っていた[97]。長瀬を選んだのは、ここが新見藩領から松山に侵攻する敵軍を迎え撃つことが容易な地であるという理由もあった[98]。方谷は参政在職のまま移住したので、月の半分は松山に出仕して「水車」と呼ばれる城下の藩主別邸[99]に寝泊まりして政務にあたり、長瀬との間を行き来する生活が続いた[100]。参政とはいえ、当時の方谷の家禄は高いものではなく、さらに移住を機に多忙を理由に断ってきた入門希望者を受け入れようと大きめの屋敷を建てたこともあって、山田家の家計はかなり苦しくなっていた[101]。同年7月17日、越後長岡藩士・河井継之助が長瀬の屋敷を訪れ、弟子入りを志願した[102]。方谷は半月近くをかけて継之助の人物を見定め、8月3日に弟子入りを許した。継之助の学び方は、方谷や門弟たちとの対話、教諭所や藩士入植地の見学、会津の秋月悌次郎ら松山を視察に訪れた他藩士との交流、など実際を見聞して知識を深めるという手法だった[103]。

Yamada Hōkoku was a Confucian scholar of the late Edo period and a member of the Bitchu Matsuyama clan.

Yamada Hōkoku was a Confucian scholar of the late Edo period and a member of the Bitchu-Matsuyama clan. His real name was Kyu (球), his character was Rinkei (琳卿), and his nickname was Yasugoro. He was called "Bicchu Seijin" and "Kobanzan"[1]. On June 26, 1877 (Meiji 10), Houya died at his residence in Kosakabe [162]. He was 73 years old; the cause of death was said to be nephritis [163]. His remains were buried in the cemetery of the Yamada family in his hometown, Nishikata Village. His commandment name was "Fangtani-in Fukafumi Juntoku-ji"[164]. The words on the gravestone "Tomb of Yamada Sensei Fangtani" were written by Itakura Katsusei [165], and the text on the tombstone was drafted by Mishima Nakasu at Katsusei's order [166]. Today, the graveyard and its surroundings are maintained as a park and called "Houyaen" [167]. In January 1834, Hōtani entered Sato Issai's private school [27]. Issai was known as the "Yang-Shu-Yin King [annotation 6]"[27] because he taught Zhu-Zhi Gaku at Shohei School, where he was the head of the school, and also taught Yang-Ming Gaku at his own private school. Under Issai's tutelage, Hōtani quickly distinguished himself and became the head of Issai's private school[28], and together with Sakuma Shōzan, who joined the school later, they were called "the two outstanding scholars of Samon"[28]. 


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