富士山は古代人にとって不思議な山だったのだろう。紀記には富士山は登場しない。常陸国風土記が初出である。有名な旅の神々への塩対応のエピソード。
筑波の県は、昔、紀の国といった。美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女臣の一族が、筑箪命を、この紀国の国造として派遣した。筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。諺に「握り飯筑波の国」といふ。昔、祖先の大神が、諸国の神たちを巡り歩いたときのことである。旅の途中、駿河の国の富士山で日が暮れてしまった。そこで福慈(富士)の神に宿を請ふと、「新嘗祭のために今家中が物忌をしてゐるところですので、今日のところは御勘弁下さい。」と断られた。大神は、悲しみ残念がって、「我は汝の祖先であるのに、なぜ宿を貸さぬのだ。汝が住む山は、これからずっと、冬も夏も、雪や霜に覆はれ、寒さに襲はれ、人も登らず、御食を献てまつる者もゐないだらう。」とおっしゃった。さて今度は、筑波の山に登って宿を請ふと、筑波の神は、「今宵は新嘗祭だが、敢へてお断りも出来ますまい。」と答へた。そして食事を用意し、敬ひ拝みつつしんでもてなした。大神はいたく喜んで歌を詠まれた。愛しきかも我がすゑ 高きかも神つ宮天地と等しく日月とともに民草集ひ賀ぎ御食御酒豊けく 代々に絶ゆることなく 日に日に弥栄え千秋万歳に たのしみ尽きじかうして、富士の山は、いつも雪に覆はれて登ることのできぬ山となった。一方、筑波の山は、人が集ひ歌ひ踊り、神とともに飲み食ひ、宴する人々の絶えたことは無い。
筑波山は、雲の上に高く聳え、西の頂は、高く険しく、雄の神(男体山)といって登ることは出来ない。東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。坂東の諸国の男女は、桜の花咲く春に、あるいは紅葉の赤染む秋に、手を取り連れ立って、神に供へる食物を携へ、馬に乗りあるいは歩いて山に登り、楽しみ遊ぶ。そして思ひ思ひの歌が歌はれる(歌垣において)。筑波嶺に 逢はむと いひし子は誰が言聞けば神嶺あすばけむ(筑波嶺の歌垣で逢はうと口約束したあの娘は? ちゃんと誰かの言葉を聞き入れて神山の遊びをしてゐるよ)筑波嶺に廬妻なしに我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも(筑波嶺の歌垣の後で宿りするのに、相手がなけりゃ?さっさと独りで寝れば、こんな夜はすぐに明けてしまふさ)多くの歌があり、すべてを載せることはできない。諺に「筑波嶺の集ひに、妻問のたからを得ざれば、娘とせず」といはれる。
山部赤彦 (やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)?)
「天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺……」
天地の分れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる不尽の高嶺を 天の原振りさけ見れば
渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり 時じくそ雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は
常世の国の神話だが、
不思議な山 富士山(漢字でどう書くかは時代による) 日本人の心の象徴として世俗化したのは江戸時代の頃だろうか。富嶽絵画は近世に盛になる。日本書紀や古事記で言及がないのは富士山は忌みの山だったのかもしれない。禁足以上に厳しい見てはいけない山ということだったのかもしれない。山神(『常陸国風土記』では「福慈神」、『万葉集』では「霊母屋神香聞」、都良香の『富士山記』では「浅間大神」)を祀っていた。次第に人間は大胆になる。平安時代に下って金時上人・覧薩上人・日代上人、末代(まつだい、1103年(康和5年) - ?)ら登山者(修験信仰)が現れる。
「尾州不二見原」(びしゅうふじみがばら)は、葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景』46図のうちの一図。1831年(天保2年)頃刊行。大判錦絵が描かれるほど大衆化したのは天保年間以降ということで、割と最近のことになる。
偽書番外編
神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。だが、その信憑性については疑いがもたれており、いわゆる古史古伝の代表例に挙げられる。宮下文書