よくよく近頃思うのは、なぜ自分をここまで押しやっているのかということであります。ここまでというのは生死の相対化ということであります。結局考え続ける迷宮に入るのは自分がそうしたいからで、だれが原因と言うことではない。影響を受けた人物はいるが、迷宮に入る動機ではないのであります。さて、この得体のしれないネチネチした世界が、私にとってなぜこれほどに面白いのかということは、もはや私にしかわからないことで、心境を一緒に語り合う人もおりません。
思考というのは孤独なもので、若い時は自分が自分の思考をコントロールしているとばかり思っていたのですが(普通の感覚です。時には他人の思考さえも)、それは今にして思えば思考というものではありませんでした。うわ言のようなものを、ああでもないと思っては、こうなのかと思ってみる、そのうちにパズルの最後のピースを自分が見つけて謎が埋まるのかもしれないという強迫観念に追われていた反復と反射の深化だけでした。
この頃の思考は、今私が考える思考とは程遠いものです。
批判的精神というものは思考とは本来無縁の世界です。なぜならいかなる批判もその思想の思考の脳裏まで批判することがかなわないからです。かといって批判的精神を学ばずに済ますことができるかといえば、そうではありません。ドイツ観念論を始め、マルクス、ヘーゲル、ユング、ウィットゲンシュタインやハイデッガーなどの哲学や、ベートーベンやマーラー、吉田兼好やマキャヴェッリ、。。。先人の描き上げた様々の作品を読んでみたり鑑賞したりすることはそれは無駄ではないのだけれど、先人をそこに押しやったものは何なのかという内心を走る脳裏の衝撃はその人個人の孤独な作業、あるいは信仰であって、なぜその本を書くのか、本人にさえもよくわかっていない。
語り合う人がいないのはこれからも同じで、この世界には同行者はいません。つまり思考に普遍性はないのか、絶対的個物に普遍があるかどちらかです。同行者がいないので、それを言葉や文字にすることは、少なくとも私にとっては、もはやどちらでもいことです。それでは迷宮にはいる意味が無いと感じるのならばそれまでのことです。しかしこの旅はいずれだれもが通る死の論理的体験です。思考も死もともに生身の自分とは無縁を気取ったものです。私が若い頃に考えていたようにコントロール可能なものではありません。故に死についてエネルギーを注いで悩むことも無意味です。
私たちの自我は脳に騙されていて、自分が思考していると考えていますが、実は脳は結末というビジョンを受け止めているだけで、思考に自分で導いたものはなにもないのです。ただビジョンが見せる結末に向かって言葉や数式や習熟した表現力で固定するだけのことです。脳の残りのほとんどの活動は生存と快楽の欲求を満たすことです。
思考は批判でさえ概念を用いる。これを用いることによってこれに縛られる。縛られることが思考であると思い込んでいる。つまり思考は、はじめに答えありきの設問なのです。私達が思考と思っているものが非思考であり、非思考的と感じているものこそが思考なのです。得がたい特殊な個物としての体験をどう直覚するか。
すなわち言葉にならない、ビジョン、個物に見えたもの(iVision)をどのように心のなかで温めてゆくかということが、その人の外界との関係を一生に渡り決定づける。これこそが真の思考です。情緒と深く結びついた絶対なのです。
石ころの如く閉じた個物たる己もまた自然である。故に己の思考もまた、自然の一部であり、自然は答えを求めずにはいられない。水は蒸気となり雲となり、雨となり、川となり、何度も何度も岩を削り最適の流れに答えを求める。生物の進化をふくめ、自然は何千年も何万年も非情の挑戦を尽くす。だから、人が考える真とか善とかは自然に任せて答えを出せば良い。遺伝的アルゴリズムもその応用である。ここで注視しなければならないことは、人もまた答えを探る自然の装置の一つであって、コンピュータを使おうが、測量にたよろうが、自然が創りだした便宜の一つなのです。われもまた非情の装置であることを忘れなければ、死もまた友である。
続く
思考というのは孤独なもので、若い時は自分が自分の思考をコントロールしているとばかり思っていたのですが(普通の感覚です。時には他人の思考さえも)、それは今にして思えば思考というものではありませんでした。うわ言のようなものを、ああでもないと思っては、こうなのかと思ってみる、そのうちにパズルの最後のピースを自分が見つけて謎が埋まるのかもしれないという強迫観念に追われていた反復と反射の深化だけでした。
この頃の思考は、今私が考える思考とは程遠いものです。
批判的精神というものは思考とは本来無縁の世界です。なぜならいかなる批判もその思想の思考の脳裏まで批判することがかなわないからです。かといって批判的精神を学ばずに済ますことができるかといえば、そうではありません。ドイツ観念論を始め、マルクス、ヘーゲル、ユング、ウィットゲンシュタインやハイデッガーなどの哲学や、ベートーベンやマーラー、吉田兼好やマキャヴェッリ、。。。先人の描き上げた様々の作品を読んでみたり鑑賞したりすることはそれは無駄ではないのだけれど、先人をそこに押しやったものは何なのかという内心を走る脳裏の衝撃はその人個人の孤独な作業、あるいは信仰であって、なぜその本を書くのか、本人にさえもよくわかっていない。
語り合う人がいないのはこれからも同じで、この世界には同行者はいません。つまり思考に普遍性はないのか、絶対的個物に普遍があるかどちらかです。同行者がいないので、それを言葉や文字にすることは、少なくとも私にとっては、もはやどちらでもいことです。それでは迷宮にはいる意味が無いと感じるのならばそれまでのことです。しかしこの旅はいずれだれもが通る死の論理的体験です。思考も死もともに生身の自分とは無縁を気取ったものです。私が若い頃に考えていたようにコントロール可能なものではありません。故に死についてエネルギーを注いで悩むことも無意味です。
私たちの自我は脳に騙されていて、自分が思考していると考えていますが、実は脳は結末というビジョンを受け止めているだけで、思考に自分で導いたものはなにもないのです。ただビジョンが見せる結末に向かって言葉や数式や習熟した表現力で固定するだけのことです。脳の残りのほとんどの活動は生存と快楽の欲求を満たすことです。
思考は批判でさえ概念を用いる。これを用いることによってこれに縛られる。縛られることが思考であると思い込んでいる。つまり思考は、はじめに答えありきの設問なのです。私達が思考と思っているものが非思考であり、非思考的と感じているものこそが思考なのです。得がたい特殊な個物としての体験をどう直覚するか。
すなわち言葉にならない、ビジョン、個物に見えたもの(iVision)をどのように心のなかで温めてゆくかということが、その人の外界との関係を一生に渡り決定づける。これこそが真の思考です。情緒と深く結びついた絶対なのです。
石ころの如く閉じた個物たる己もまた自然である。故に己の思考もまた、自然の一部であり、自然は答えを求めずにはいられない。水は蒸気となり雲となり、雨となり、川となり、何度も何度も岩を削り最適の流れに答えを求める。生物の進化をふくめ、自然は何千年も何万年も非情の挑戦を尽くす。だから、人が考える真とか善とかは自然に任せて答えを出せば良い。遺伝的アルゴリズムもその応用である。ここで注視しなければならないことは、人もまた答えを探る自然の装置の一つであって、コンピュータを使おうが、測量にたよろうが、自然が創りだした便宜の一つなのです。われもまた非情の装置であることを忘れなければ、死もまた友である。
続く